みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

クソリプ、時々、妬み。

cakes.mu

この記事、素晴らしかったですね(無料期間は既に終了)。

最近もTwitterで悩む若者を見ながら、僕自身も「自分にとってのSNSって、そもそも何のためにあったんだっけ」なんて時々ですが考えたりしてました。今更SNS論、厨二病ですねごめんなさい。でもSNS、意外と難しいよね(共感をください)。なんか悩む方の気持ち、分かる気がしていて。

今回はSNS(てかTwitter)の難しさを、これまで僕自身体験してきた苦い経験も交えつつ考えてみたい、そんなお話。

「好き」を発信したい

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そもそも僕自身も始めたきっかけは、「好きなことを、好きなときに、(同じ対象を)好きな人達と語りたい、共有したい」これだけです。ご存知の通り、好きな対象とはサッカークラブの名古屋グランパス。2016年に初の降格を経験し、ある意味一からの出直しを迫られた我々のクラブ。その這い上がっていく様を皆さんと共有したい、何故かそう思ってしまった2年前の春。恥ずかしながら初めてでした、そんな気持ち(恋じゃないです)。なので当時はドがつくSNS初心者。デジタルな人間ではない僕がこの世界に入っていくのは、少しばかり勇気が必要だったのを覚えています。

ありがたいことに認知だけは少しずつされるようになりました。感じた想いを吐き出したい、それでキャッチボールが出来たらいいな。その程度の願望が、あれよあれよと共通の「好き」が人を繋いで仲間がちょっとは出来たり、予想だにもしなかった書きごとなんか始めまして、気づいたら定期購読してた媒体(webですが)に寄稿したり、面識のなかった方と予期せぬ出会いがあったり。正直恵まれていたと思いますし、勿論そう思えるのは周りの皆さんのおかげです。わざわざ長いブログに時間を割いて読んでくれる。しかもコメントまで時に貰えたりする。控えめに貴方達は神です。Twitterで少しばかりは自分を取り巻く環境も変わった気がします。というか現代におけるSNSの認識が不足していました。あぁもはやバーチャルの世界だけではないのだなと。

皆さんにもそれぞれにSNSを始めたきっかけはおそらくあって、その動機をもって今の運用方法が自然と決まってると思うんですね。僕の場合は先程書いた通り、あくまで「好きなことの発信、共有」です。だから無意識にもそれ以外のことは殆どツイートしてないことに気づきます。おそらくそういった欲をSNSに求めていなかったんでしょう。

開かれた場所であるからこその難しさ

ただどんな気持ちでやっていようが、不思議と足を引っ張りたい人は必ずいます。これ、相手を人選出来ない環境である限り逃れられません。僕はとりわけサッカー界隈におけるツールとしてのTwitterの価値、物凄くあると思ってるんです。気軽に言葉を紡げるし、そこには必ず共通の「好き」を持った仲間が存在し、時に異なるクラブの応援者とも横の繋がりが出来る。そこにマスコミ関連のいわゆるプロの方々の情報も転がっていて、ある意味カオスで、でもこれほど様々な繋がりが持てるツールはないんじゃないかって。

ただ同時に経験年数を重ね、自身への認知が少なからずとも上がると、もう一つ気づくんですよ。それは「誰でも参加出来るが故に発生する妬み、不要な繋がり」が存在することにです。これが楽しく使いたかったツールの邪魔をします。

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例えば今の名古屋も悲しいかな一つの例です。指揮をとる風間監督への賛否、いや単純に好き嫌い。極端なほど分かれます。それ全部風間監督が悪いんですけど、そもそも別に好きなら好き、嫌いなら嫌いでいいんです。もっといえば、その対象を「理解したい層」だっている。理由は様々です。好きなクラブが選んだ監督だから、好きなクラブが進もうとする道を深く掘り下げたいから。ただ残念ながら、そんなのお構いなしでどうしても己の感情を人にぶつけないと気が済まない人も中にはいます。いや、ぶつけるだけならまだ良し。異なる意見を持つ者をとにかくねじ伏せたい人がいる。そういった方は、一見理論武装してるように見えても、実際にあたられる側は伝わるじゃないですか、向かってくる動機なんて。これ、例えば異性の容姿に対する趣味を、他人に強要してるのと変わらないわけですよ。黒木華が好きな僕に土屋アンナ押しつけるのは無理があるでしょそうでしょう。

よしではミュートしましょう。でもこの機能、相手からすればその扱いだと知る由もないわけでして、気にせずクソリプなる「足跡」が残せます。正直それも勝手にやっててくれれば構わないんですが、ただ足跡が残ると周りはそのク◯(この例えしか思いつかん)に気づくわけで、その臭いを話題にしちゃうと結局はクソリプ主の思うツボ。利用される余地があるのも考えものです。やはりブロック機能は必要だ。

すると次はこれ。「◯◯にブロックされた」報告。なにあれ。振られた人間が振ってやったみたいに強がるアレよ。あの報告誰向けですか。分かりました、百歩譲っていいでしょう。どうぞ皆様にご報告ください。そうしないとやるせないんでしょう。その代わりもうそっとしといておくれよ。これ単刀直入にク◯迷惑(こうしか表現出来ん)なんだから。

相手に突っかかってブロックされると、それを言い負かしたと勝ち誇った気になる方。違います。それはきっと突然言葉を投げられた相手が、貴方の言葉から「敵意」を感じたからです。議論ではなく、(自分限定の)ロジックをもって打ち負かしたい。そんな気持ちが透けて見えるから、そもそも関わられたくないだけです。都合良く受け取りすぎです。

「妬み」

でも実はこんな方々は可愛いものでして、ほんとに拗らせると永遠粘着してる方もいます。凄いですよ、その執念は。基本的に自分が目立ちたくない、悪者になりたくないので、直接は絡んできません。常にエアリプの嵐。妻にだって(おそらく)ここまで妬まれてないです。ここで冒頭のブログと話が噛み合うのですが、やはりちょっとでも目立ち始めると妬みは必ず起きます。最近、「好きの反対は無関心だ」なんて読みましたがとんでもない。それはまだ平和な世界です。おそらくこういった経験をしたことがないのでは。妬みの力は凄いです。何か貴方にしました?って考えてみても、こういったケースはしてないんです往々にして。ただ気に食わない、その相手にとって面白くない存在だった。実は理由なんてそんなもの。もはや学校のイジメと一緒です。

何故こういったことが起きるか。相手を徹底的に下に見るからです。その相手が周りからチヤホヤされ始めるとどうしても許せない。「ここでは俺が一番だったのに」、そんな自分にとってあるべき理想、暗黙のルールなるものが存在し、それに沿って行動しない人間が現れると我慢ならない。心底自尊心が強い方はやるせなくなってこう言います。「もうTwitterやめます」。こんなの俺の理想じゃないと。ただまずやめません。そんな簡単にやめれたら、そもそもここまで拗らせませんから。仮にブロックしても、この手の方は複数アカウント所持が当たり前。あらゆる手で貶めようとするから無意味です。その場合、悪趣味ですがミュートという名の壁打ちをしてもらいましょう(実際にそうしてます)。

操作一つで出来てしまう壁

ここまで読んでいただくと分かる通り、楽しくやりたいと思って始めたものでも、SNSはどうしたって人と人との関係から逃れられません。よほど気心知れた人だけで形成されていれば別ですが、オープンであるが故にこういった気苦労が消えることはない。これは僕に限った話でもなく、大なり小なりこの手の話、相談を受けたことは何度かあります。

でも僕思うんですけど、本当にツライ瞬間ってこれじゃないですよね。最も堪えるのは、全く予期せぬタイミングで、予想だにしない方にブロック対応されるときです。これは僕も落ち込みます。自分に何か問題があったのか、そう自問自答することもある。でもこれだけあらゆる方と繋がれる場では、きっと起こり得ることなんでしょうね。だって30人程度のクラスでも仲の良いグループとそうでないグループって自然と出来てしまうから。皆と仲良くやろうなんて、物凄く図々しいことなのかもしれません。普段の実生活において、面と向かって「貴方のことが嫌いです」と直接言われることはまずありません。自然と疎遠になって終わり。でもSNSは違います。明確に「ブロック」なる手段をもって、縁を切られたと可視化されます。こればかりは自分の言動も反省しつつ、とはいえ割り切るしかありません。詮索しても真実が分かることはない。つまり相手に理由を求めても仕方ないわけで、気に障ったならごめんなさいとしか言えないわけです。

逆にいえば、それだけ「ブロック」という行為は相手にとって辛い場合もあると理解する必要があります。例えば直接的な実害はなく、単純に気に入らないだけ。そんな相手には、そこまでする必要がない方も必ずいます。これは自戒も込めて記しますが、やはり相手の人となりは可能な範囲で考慮した方が良いです。一度それをして拗れてしまえば、なかなか元の形に戻ることは出来ません。後で気づいても遅い。

大事なのは「どう付き合うか」

youtu.be

最近この動画をたまたま見ました(フル動画は終了)。

この場で語られていることは、つまるところこれまで書いた内容に通ずる話です。つまりこういった煩わしい人間関係に生産性などあるわけもなく、であればハナからクローズドの世界で集まる方が有意義であると。オープンな場の難しさは最近痛感しています。だから気持ちは痛いほど理解出来る。

「好き」を発信し続ける。これ意外と難しいことだと最近感じています。楽しむことを目的として始めたものが、気づけば人間関係のあれこれで気を揉んだり悩むこと、やはりゼロではないんです。だから時々思ってしまう。「あれ、なんのためにSNSやってたんだ?」と。どこかでこのツールが自分にとって消耗型になってないかって。仮にそうだとしたら、わざわざ何のためにその世界に足を突っ込んでるのかと。画面の先になんだか見えない世界があって、そこには沢山の住人がいて、暗黙のルールやマナーも存在する。例えば僕のようにサポーターとしてTwitterをやっている人間には、その世界でのタブーみたいなものも勿論ある。僕自身、初めの頃はそれでかなり悩みましたし、実際に失敗したことも多々あったと思います。良かれと思ってやることも、実は自身に未熟な点があったなんて当たり前のように起こりえます。

大切なことは、このツールとの「付き合い方」です。どういった特性があるか理解した上で、ある程度割り切って使うことが最も楽しく使えるコツなのかな、最近はそう感じています。当然ながら全能ではないんです。だからこそ、良いところと悪いところを理解した上で使用するべきなのだと。

沢山のご縁に恵まれ、僕自身はこのツールに飛び込んだことを後悔していませんし、やめるつもりも今のところありません。同時に人間関係で苦労している、嫌なことがあった、煩わしくなりつつある。そんな方には、改めて自分にとっての使いやすい付き合い方を考えていただいて、無理なく使ってもらいたいなと何目線か分かりませんが願っております。

「人気者ですね」最近そう声をかけていただくことがあります。でもこうも思うんです。いや画面の中にある世界って、そこまで広大ではないよって。例えばフォロワーが五千人いる、一万人いる。それで僕のステータスが何か上がるか、勿論そんなことはありません。それこそ豊田スタジアムって四万人集まるんです。少なく見積もっても三万五千人は僕のブログ読んでないわけです。ちっぽけすぎるやろ自分。

確かに時々錯覚します。画面越しのこの空間も一つの世界として成立しているから、そこでの人間関係がなんだか物凄く生活の大半を占めているような気持ちになるときが。でも画面を閉じれば多くの場合、そこに画面の中の方達は誰もいません。自分の家族や恋人、友人や同僚がいる。「だから画面の中なんて大した存在ではない」、決してそんなことが言いたいわけではありません。指の操作一つで閉じることが可能な世界なんだと、それくらいの心持ちで常にいることが何より大切ではないでしょうか。ただそうは言っても、その世界にも良いことは沢山あります。数々の素敵な出会いもそこにはある(サポ同士の結婚とかはアカンぞ)。え?何今更なこと言ってんだ?いや娘にこう言われて反省したんですよ。移籍の動向毎時間追っかけてキャーキャーやってたらですね、

「パパ、携帯ばっかりいじりすぎ」って。

10戦未勝利の先に辿り着いた境地

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帰り道の豊田大橋が、何ヶ月ぶりかに賑やかでした。

勝つって、なんて素敵なんでしょう。すっかり忘れていたあの感覚を、帰る道すがらで思い出しました。あぁなんだか目に映る光景が明るい(夜だけど)、あぁなんだか帰り道が早く感じる(遠いけど)。あぁなんだか脚も軽い(短足です)。これが勝つってことか。素晴らしいっ!!!

正直に書きます。今回の川崎戦ほど「勝てる気はしない。ただし奇跡よ起これ」そんな気持ちでスタジアムに向かった一日もございません。試合前、弱音ばかり吐きました。飲むだけ飲んで現実逃避しました。「あるのは素晴らしい熱戦か、一方的にボコられるか」なんて言ってごめんなさい。

まあそれにしても素晴らしい雰囲気でした。

今回はレビューではありません。次節の山雅戦に向け、一点だけ、この川崎戦で変化したこと。これまでの勝てなかった10試合が無駄でなかったことを書きます。この変化こそが、二連覇中の王者に3-0のスコアで勝ちきれた最大の要因です。

このチームが歩んできた変遷

テーマは「ボールを保持していない場面」です。前半戦、怒涛の快進撃を支えた一番の要因は「前線からの圧倒的なプレス」でした。当時も決して緻密とは言えませんでしたが、どちらかといえば、人数と、個人のアジリティ、走力、奪取力を上手く組み合わせた構造でしたね。前線のツートップと両サイドの計四人で相手の最終ラインに襲いかかり、それで絞られたパスコースを奪取力の高いジョアンとヨネで狩り取る。相手のビルドアップを研究して合わせるでもなく、物凄く緻密な構造があるわけでもなく、それぞれが目の前の相手をとにかく捕まえろと。もちろんそこで奪い切る必要もなく、相手のパスコースをどこに絞るかは考慮してプレスするわけですが、とはいえ細かい約束事はなかったはずです。

ただしそのやり方は等々力での川崎戦後、見事に対策されます。その土俵で勝てないなら、そもそもそんなステージすっ飛ばせとロングボールを多用されることが増えた、まずこれが一つ。もう一つ、名古屋の攻撃力が認められたことで、「自陣の中央を人数で担保し、徹底的に締める」これも対戦相手に浸透しました。その結果起きたこととして、まずなかなか相手ゴールを攻略出来なくなった。それが続くほどに前がかりになる名古屋陣地にはスペースが生まれ、絵に描いたようにカウンターの餌食になりました。相手のビルドアップに対しても、前から行こうにも蹴られることを恐れ、開幕当初の迫力は失われた。分かりますでしょうか。本来自分達の強みだったものが、一つ歯車が噛み合わなくなることで見事なまでに全てが負のサイクルとして回りだしたことに。その上、風間監督は「90分は選手達のためにある」と言って手を貸さない。いや貸してやってくれませんか。等々力での川崎戦後の7試合は、まさにこのモードで進んだ印象です。落ちると分かっている落とし穴に、自ら落ちに行くように。

そこで選手達は考えます。開幕当初ほど前から行く自信も、体力も、それを受け入れる相手ももういない。確かに自分達は攻守ともに相手コートを支配する、そんなコンセプトがある。ただもはや明らかに上手くいっていないものを、いつまで闇雲に続けるのかと。それが8試合目のガンバ戦。その時点で、噛み合わなくなりつつあるチームを考慮してか、システムも既に3-4-3に変更済み。これまでの好調を支えた「4人のプレス隊+狩り取る両ボランチ」の計6枚のやり方は、「3枚のプレス隊(スリートップ)」に変更され、ジョーのワントップのような形に変化しました。残念ながら決して機動力に優れているとはいえないジョーですから、端的に言えば前から行こうにもプレスの速度、その体力に問題があった。つまり「ハマらなかった」ということです。その点、前半戦は隣にアーリアを置いて機動力を補ってましたからね。「狩り取る」中心人物である米本も長期離脱となり、前半戦の再現というには、そもそも無理があったのも事実です。

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そこで最終ラインのリーダーである中谷を中心に選手は考えました。「ハマらないときは、引け」と。このガンバ戦から、苦しい時間帯は無理をすることなく、自陣低い位置でブロック形成するシーンが増加しました。実際、戦い方の幅を広げたことで少なからず前進する兆しはあった。ただ同時に問題点もありました。「そもそもこのチームのコンセプト、何ですか」と。それはもちろん「=相手陣地を支配し、主体的に相手を動かしていくこと」です。つまりここで大きな問題点として浮上したのが、そもそものチーム編成(ピッチ上の選手起用、与える役割含)からして、引いて守ることが得意なチームではないという大前提の部分です。

考えてもみてください。それをするために、両ストッパーに宮原なり太田を置きますか?彼らは本来サイドバックが本職の選手です。では何故彼らをそこで起用するかといえば、当然ながらボール保持の場面でその威力を発揮する期待があるからです。しかも風間監督は細かい仕込みをしないわけですから、自陣ペナ近くになるほどそのボロがでる可能性も潜んでいる。選手を機械的に動かすことをしない以上、一人でもジャッジを誤れば即命取りなフットボール。そりゃ出来るだけ自陣ゴールからは遠ざかりたい。案の定、このガンバ戦のロスタイムで失点。その後の浦和戦でも終了間際にプレーのジャッジで致命的なミスを犯し、その後の流れから失点。二試合連続で終了間際に追いつかれる、なんとも後味の悪い試合が続きました。試合後の中谷のインタビューは、このチームが前進こそすれども、そのとった選択ではこのチーム編成が十二分に活きないもどかしさを感じさせました。

もう耐えるしかないと。それ以外のオプションはなかったと思います

悩みに悩み抜いて見つけた落とし所

さて、そして今回の川崎戦です。開幕当初の前線からのハイプレスは現在のチーム状況(一部主力選手の不在)、また相手の対策次第ではボロが隠せないことが判明し使えない。では後方でブロックを形成したらどうか。これもそもそものチーム編成を考慮すれば向いていない。試合前のコメントを読んでも、この点で苦悩する中谷と、一方で理想を追求し続ける風間監督の間に横たわるギャップが伝わり、これは本当に難しい状況だと頭を抱えたものです。そして当日、この悩ましい「10戦未勝利」のトンネルの先に導き出した答えは、今回の最大のポイント「ミドルサードでのブロック形成」でした。まさに間を取ってきたわけです。具体的に検証します。

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まず大きな変更点として、この試合からシステムを好調時の4-4-2に戻したことが挙げられます。先述の通り、このシステムでの超ハイプレスの効き目が落ちてきた際に、問題として起きたのが名古屋の各ライン間(例えば宮原と中谷の間、丸山と吉田の間)の守備です。このウイークポイントを見過ごす事も出来ず、3-4-3にすることで守備時の横幅を人数でカバーした(最終ラインは両ウイングバックが下がる事で5枚になる為)。ただしこのチーム、残念ながら前線の運動量、機動力はそこまで高くありません。ジョー然り、シャビエルやジョアン然り。結果的に守備は安定しましたが、その見返りとして前への推進力は奪われた。特にジョーですね。ボールを奪うポイントが下がったことで、彼と他の選手の距離が開き、攻撃時は孤立するシーンが目立ちました。また守備時においても最前線は彼一人ですから、プレスも効率が悪かった。相手からすれば、ビルドアップでボールを運ぶことは容易だったでしょう。今回のシステム変更はその点を考慮したと考えます。自分たちの枠でやるには、またこのメンバーでそれを実現するにはやはりこの形がベストだろうと。

ではやることも開幕時と同じだったか。いや、名古屋のプレス開始位置は相手陣地奥深くでも、自陣深い位置でもありませんでした。ハーフウェラインよりほんの少し相手陣地寄りからです。最終ラインの設定位置は当然ながら開幕当初ほど浅くはありませんが、前線との距離感を意識し、極力高い位置を保ちます。つまりこれまで何度もキーワードとして出てきた「枠」を、どのポイントに設定するか、が何より重要な部分です。高い位置では相手の対策次第で破綻しやすい。一方低い位置では守りきれず、前にも出られない。だからこそミドルサード(ピッチ中央)を選択したと。

また、ボールも闇雲に奪いには行きません。構えるゾーンに相手が侵入してくれば即時ボールホルダーに突っかかることはなく、前線のツートップ(ジョーとシャビエル)が相手の最終ライン〜中盤への危険なパスルートを遮りながら、そのパスコースを意図的に誘導していく。その様子を伺いながら、二列目の4人、最終ラインの4人が各自ポジション(立ち位置)を細かく微調整していきます。まさに以前から風間監督が提唱してきた「一人で二人みれるポジショニング」、これが試される守り方を選びました。これは難易度高いです。何故ならチームとして決められた機械的な守り方もない、前半戦のように目の前の敵を芋づる式で一人ずつ捕まえるでもない(各々が明確に守備の基準点をもたない)、もちろんここ最近のように後方でバスを置いていればいいというわけでもない。一人でもサボったら、一瞬にして破綻するやり方です。よく風間監督は「水をこぼす」と表現しますが、まさに一人でもポジショニングを誤るとそこから水はこぼれていく守り方だと考えていいでしょう。

あともう一つ重要なポイント、このポジショニングを決定づける要因の一つとして、「各々の守備範囲がどの程度あるか」も重要です。これも以前から風間監督が指摘してきたポイントです。全員でボールの位置に合わせて均等にスライドを繰り返すわけではないため、各々のポジショニングを決定付けるのは、各選手の特性も多分に含まれる。試合後の中村憲剛のコメントを見てみましょう。

いつもだと落ちるんですが、落ちなくてもボールが入ってくるかなという感覚は、そこまで向こうも厳しくなかったので

次に車屋紳太郎

結構ボールもペナ付近で、阿部ちゃんがシュートを打ったシーンもありましたが、ボールは入っているので。そこまでの簡単なミスというのは余分だったなと思います

中村がいう「厳しくなかった」。これは名古屋の守り方が人にガツガツいくスタイルから、常に「枠」を意識し、且つそれをコンパクトに保つことを前提として、各々が相手のパスコースを切ることを最優先とした守り方になっていることが理由でしょう。この試合、「なぜ川崎はあれほどミスが多いんだ」と指摘する声も多かったわけですが、個人的な意見として、そもそもあの狭いエリア、名古屋の選手のポジショニング、そこからボールに寄せるスピード(強度)が加味された発言か、疑問が残ります。つまりあの土俵の中では、ミスが「起きてしまった」可能性はないか、という発想。

もう一つ、車屋が指摘した名古屋ゴール前(バイタル)にはスペースがあったという発言。これはある側面では大きな問題ではなく、また別の側面で見ればこのチームの課題であると思います。大きな問題でないと書いたのは、相手からして「パスが通せそう」と仮に見えていたとしても、そこからのアプローチで十分相手に詰めきる予測、スピードがあれば大きな問題ではないという考えが一つ。おそらく川崎の選手達からすれば「通せそう」というシーンはこの試合も多々あったでしょう。ただし実際にはそうは言っても無得点です。一方、これが名古屋陣内深い場所で毎度発生すると、致命傷になりかねません。このチームは細かいスライド等オートマティズムは備えていませんから、例えばサイド深くに抉られるとどうしても人が付いて行かざるえない。すると中盤の人数が不足し、必然各々が見るエリアも広がるわけですから、そこの穴を突かれることは可能性として大いにあるでしょう。

何故この枠の設定位置が優秀だったのか

この守り方を選択したことで何が良くなったか。ポイントは二つです。一つは開幕当初のように前から捕まえに行かない分、中盤に綻び(スペース)が生じづらいこと。前線の選手にしてもプレスの開始位置、やるべきタスクがはっきりしたことで、そこへのハードワークが出来始めています。この試合、ジョーとシャビエルの集中力は凄まじかった。常に最適なポジションを取ろうと細かい動き直しを惜しまなかった。

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もう一つはこの枠の設定位置(ミドルサード)なら、今のメンバー構成でも無理がなく、且つ選手の個性を発揮できる可能性があるからです。この試合を見ればわかる通り、シャビエルにしろ、ジョアンもそしてネットも、チームの距離感さえコンパクトに保てていれば、誰よりも「速い」選手達です。ここでいう速さとは、勿論これまで何度もでたキーワードである「目の速さ」。つまり強度の高いプレッシャーを苦にしない技術がここでモノを言うわけです。守備に関しても、ジョアンのように前向きで相手からボールを狩り取る技術がある選手には、極力「下がる」守備はさせたくない。枠が機能していることは、その点でも有効です。枠が間延びする(選手の距離感に問題が生じる)と、シャビエルは個人での打開能力に問題を抱える。ジョアンは途端に「遅い選手(彼が持ち得る速さが活かせなくなる)」となり、ネットからは意外性が奪われ、「走れなさ」だけが残ってしまう。つまり、このチームの編成そのものが「(選手同士の)距離感に依存する選手が多い」ということです。逆に最終ラインの面々は、ある意味で彼らのためにラインをコンパクトに保ち、その上で攻撃力も担保するため「機動力とボールスキル」に特化し構成している。だからこそ引いて守っていても今度は彼らの特性も活かされないということです。

この落としどころに行き着くまで等々力での川崎戦以降9試合を要したわけですが、おそらく風間監督のチームコンセプト、編成、その手法を考慮すると、これがベストである、そう感じます。これなら各選手の特性も活きるし、相手の対策を「まともに」受ける機会もこれまでよりは減るでしょう。このチームに最も必要な意識は「枠の維持」にあります。これさえ常に保たれていれば、そうそう簡単に負けることはない。だからこそ、どうすればその枠を維持出来るのか、これを追い求めた9試合だった、そんな気がするのです。

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真価が問われるのは次節、松本山雅

このチームは、どこか2018ロシアW杯の日本代表に似ているような印象を受けます。ガチガチの組織的なチームではなく、基本的には個人の能力、掛け合わせを尊重する。前線から相手のパスコースをきっていき、そのポジショニングで勝負していく。一方で、後ろを向かされると弱い。ブロックが下がってくると、組織としても、そのチーム構成からしても、守りきれない可能性が高い。だからこそ、「いかに前向きで、高い位置で攻守ともに勝負出来るか」がこのチームの鍵です。この川崎戦に関していえば、そうは言っても彼らもこの土俵で戦うことを選ぶ(選んでくれる)チームでした。

では次節の山雅はどうか。まず間違いなく同じような展開にはならないでしょう。おそらく川崎とは異なる策を仕込んでくるはずです。だからこそ、その相手にどれだけやれるか。そこが今季残り試合を占う、重要な試金石となります。自分たちの戦い方の再確認、そこへの迷いがなくなった上で、どの程度異なる相手に通用するか。これが何より重要です。

前半戦を思い出してください。あの等々力の川崎戦後、希望を胸に抱いて行った豊田スタジアムで、我々を失意の底に突き落としたのはどのチームだったか。そう、松本山雅です。

川崎戦後、9戦未勝利のきっかけを作った山雅に対し、同じミスを繰り返すのか。それとも我々はその9試合の後、生まれ変わったのだと見せつけるか。

次こそが、真価を問われる時です。

失って改めて実感するその存在の価値

最後に、今回の本題とは逸れますが、この話題に触れないわけにはいきません。二年半、名古屋で共に歩んできた小林裕紀が、今回大分トリニータに完全移籍しました。

思い返すと忘れもしない2016年。降格した我々の前に最後まで残留争いのライバルとして立ちはだかり、結果として生き残ったのが新潟であり、その当時のキャプテンが小林裕紀でした。初のJ2を戦う我々にとって、その小林がカテゴリーを落としてまで名古屋に加入するのは当時最も驚きをもった移籍劇だったと記憶しています。

そこからは我々にとっても、そして彼にとっても苦難の連続でしたね。忘れもしない第2節、豊田スタジアムでのFC岐阜戦での交代劇。そこからのベンチ外の日々。戻ってきた彼に待ち受けていたセンターバックとしての役割。名古屋史上最高のコンビと謳われた田口泰士とのダブルボランチ結成。その後の昇格。J1昇格後はチームキャプテンとして先頭に立つものの、前半戦は勝てない日々。ブーイングを浴びたのも、一度や二度ではない。そこから掴み取った奇跡の残留。そして今年、新加入選手との争いで彼はレギュラーポジションを失った。そこで待っていたまたも勝てない日々。

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たったこれだけ振り返っても、彼にとってこの2年半があまりに激動の日々で、いかに濃いものだったか、なんだか手に取るように分かる気がします。そしておそらく誰もが覚悟はしていたはずです。「いつ出て行っても、おかしくない」と。

何故なら彼には「上手くなること」が全てだったから。そこにカテゴリーもプライドも関係なかった。ただ同時にこのチームで楢崎正剛佐藤寿人に出会って学んだ事もあったはずです。プロは試合に出場してこそ価値があるのだと。

不思議ですね。どこかで覚悟していたはずなのに、リリースが実際にあるとこれほど落ち込むものかと。おそらくそこにもういないのだと実感して初めて、改めて彼の存在の大きさを知ったのだと思います。彼の言葉には、降格してからの2年半、我々がどんな道を歩んできたのか。それが全て詰まっている気がしたのです。彼自身の苦悩、風間監督への想い、このチームでやる喜び、出会い、そして後輩への心配り。

彼は言いました。「自分のためなんだ」と。ただそんな言葉とは裏腹に、そこには彼の誠実さ、生真面目な性格、他者への思いやりで溢れていた。ずっと不思議でした。照れ屋で、ファミリーにはあれほどサービス精神のない彼が、何故いつも対戦相手の選手達とあれほど仲が良さそうなのか。沢山の人に囲まれるのか。いつも仲間とあんなに楽しそうなのか。

それは彼が日々、そこで関わる人、そしてチームに残してきた何かがあったからではないかと。なんだかそれを最後のインタビューでまざまざと見せつけられ、思い知ったからこそ寂しかった。ファミリーが一人欠けた。我々はその言葉の重みを、改めて彼が去ることで理解したのだと思います。

降格してからの2年半、このチームをここまで作り上げ、また支え続けた最大の功労者はもしかすると彼だったのかもしれませんね。今日に至るまで、彼は自分のためだと言いながら、ずっと名古屋の先頭に立ち続けた。紛れもなく「リーダー」だった。彼の歩みは、まさに我々にとっての歩みそのものだった。小林裕紀という一人の選手が、現在の名古屋に多大な貢献を果たしたことを、我々は忘れません。

そんな彼はきっとまた、「上手くなりたい」その一心で、大分に、いや前に進んで行ったんでしょう。

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飽くなき理想の追求と、勝敗への執着と

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2019年5月17日。場所は等々力陸上競技場

あの壮絶な試合を観た多くの人は、試合後きっとこう思ったでしょう。「今年のJリーグを盛り上げるのは川崎、そして名古屋だ」と。我々だって信じて疑わなかった、あの時は。

川崎戦含め10戦勝ちなし。これが我々名古屋に待っていた現実。川崎戦に至るまで7勝2分3敗で快走していたことを思えば、この現実を予想出来た人がどれだけいたことか。あの試合以降、他チームの名古屋を見る目は間違いなく変わりました。ほぼ全てのチームが、自陣のスペースを埋め、前掛かりになる名古屋の陣地をカウンターで狙い始めた。それになす術なくやられ続けた様は、我々ファミリーを大きく揺るがすものでした。そして遂に報じられた風間八宏解任報道。

思えば昨シーズンも同じように勝てない日々が続きました。前半戦を終えて断トツの最下位。あのときのチーム状態もそれはそれは酷いものでしたが、とはいえそもそもチームとして未熟だったことも確か。まだまだ向上の余地があるはずだと、それでも前向きになれたのも正直なところです。では今年がどうだったかと言えば、ある程度戦力も揃い、開幕から怒涛の快進撃。風間体制3年目にして遂に覚醒の時を迎えたのだと我々は信じて疑わなかった。だからこそ、この大失速は予想外で、堪えるものがあったのは事実です。

今思えば何も見えていなかったのかもしれませんね。我々は未熟だったし、そもそも風間八宏という監督のことも、自分達の置かれた現状も、よく理解していなかった。

見えてきた「監督 風間八宏」の本質

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このチームの一番の問題点、どんなときに起きると思いますか。それは「相手に対策されたとき」です。悲しいかなこのチームは戦い方に変化がつけられない。ただしこれは多分に風間八宏のチーム作りが及ぼした影響でもあります。

改めて彼が絶対に譲らないものを挙げてみましょう。まず個々の絶対的な技術。次にチームで一番速い選手に残りの選手達が「目を揃える」こと。最後に常に自分たちが主体となり、相手陣地を支配すること。つまるところこの三つ。それぞれの選手のスケールを最大化しつつ、各々がこのチームのコンセプトを理解した上で繋がることが出来れば、やっていて楽しいと感じられるフットボールが出来るはず。これが彼にとっての「プロでの戦い方」です。よって彼は選手たちを必要以上には縛りません。具体的に言えば、どれだけ相手に対策されても、それで選手たちが苦しんでも、対抗する策を授けない。言ったことをやらせる、その言葉は彼の辞書にはありません。手助けするとしたら、せいぜい選手達の立ち位置を変え、目に見える風景に変化を与えることくらいです。

そもそも何故、技術をこれほどまでに重視するのか考えてみましょう。おそらくですが、彼は日本のフットボールに対して、特に個々が持つ技術、いわゆる個人戦術に大きな不満があるはずです。小手先の戦術を与え勝ったところで、所詮そんなものは井の中の蛙なのだと。欧州の真似事をしたところで、いざ世界に出れば手も足もでない。海外のリーグに身を置けば、日本とは別の競技だと驚嘆する。ポジショナルプレー?いや、まずは技術。立ち位置とは、その技術があって初めて効くのだと。悲しいかな、先進的なチームが結果を出しているかといえば、決してそうでもない。結局は守って守りきれるチームがいつも優位なのがこのJリーグです。

彼はおそらくその点に大きな危惧を抱いています。つまり「チーム戦術を遂行する上での必要最低限の技術、強度、戦術理解(思考)が、そもそもこの国には全く足りていない」と。どれだけ高級なブランド品で着飾っても、それを着る人間そのものに魅力がなければ何の価値もないように、彼もフットボールの世界において本質にとことん拘る。「あくまでも個人の集合体こそがチームなのだ」と。

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では何故ピッチで選手達が楽しんでやる必要があるのか。その想いを彼の中で絶対的なものとした原体験。それは力をセーブし、タイトルを獲得してもピッチ上での喜びを得られなかった広島での現役時代。その苦い記憶は、彼が指導者として初めてチームを率いた際に確信に変わります。相手を想定しパターンを仕込んだ結果、簡単に相手を凌駕する選手達を見て彼はこう思った。「これでは選手は成長しない」と。

その結果行き着いた結論は、「出力の枠を設けず全員が限界を作らないシステム」。これこそがなにより選手のスケールを最大化し、且つ楽しみ、喜びを与えることになると。それが「目の速い選手に基準を置く」ことに繋がり、必然的にプロとしての競争社会、またチームとして成長が止まらない構造となった。速い選手はより速さを追求し、それ以外の選手達はそれに遅れまいと努力する。彼にとって自身が与えた戦術でチームが勝つことには大きな価値がないのでしょう。それは本質的には選手の喜びに繋がらない。限界までプレー出来る環境、その結果、己の成長を実感できる事こそが、喜びであり楽しみに繋がるのだと。彼の口癖、「主役は選手達です」はここから生まれた。根本的に、プロの世界におけるフットボールに対する発想が我々とは全く違うのです。

その結果、今の名古屋がどうなったか。起こる問題に対して選手達が対応出来なければ無残に敗れ去るしかなかった。何故なら想定外の事が起きた際、選手達がすがれるものは「自分自身」しかなかったからです。また今回勝てなかった日々にしても、風間八宏からすれば「そもそもやるべき(目を揃える)ことがまだまだ出来ていないから」これこそが本質的な問題だと捉えているでしょう。あらゆる手を駆使して目の前の試合を獲りに行く、風間八宏は残念ながらそういった監督ではありません。我々はこの事実を勝てなかった10試合で意識的にも無意識的にも感じ、「こんな人間を監督と言ってはいけない」「無責任だ」「早く辞めろ」こう罵ったわけです。監督ではなく、所詮は指導者だと。そしてこれは決して否定出来るものでもなかった。彼にとってプロの世界とは、ただ勝つだけのものではなく、そこに「楽しさ、喜び」がないといけなかった。我々は「プロとはどうあるべきか、そこに何を望むのか」この迷路に彷徨い込んだのです。

ただしそんな彼と相通ずる思考を持った、彼との出会いによって己の歩む道を確信した選手が存在します。それが次に対戦する彼の古巣、川崎フロンターレバンディエラです。

確信、変化、迷い。中村憲剛が歩んだ7年間

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中村憲剛。彼にとって、5年間続いた風間八宏との日々、また彼と別れてからの鬼木達との2年間。この7年間こそが彼のサッカー観を決定づける重要な時期だったのかもしれません。彼の言葉の数々を見聞きすると、現在の川崎、また中村憲剛自身が一体何によって成り立っているのか。その言葉の端々にそれが宿っているように感じます。

首位決戦となった第19節FC東京戦。この試合は、現在の彼らが何を最も重要視しているか、よく伝わるゲームでした。

「いかに相手からボールを奪うか」

これが現在の彼らの最大のキーワードです。つまりこの時点で、もはや風間八宏が提唱した「いかに相手陣地にボールを運ぶか」とはそもそものコンセプトが異なることに気づきます。この変遷を見ていくと、一つの仮説を立てることも可能でしょう。振り返れば、結局風間八宏のもとでは5年間で一度もタイトルが獲れなかった。ではそこに何が不足していたか。「目先の結果に執着する姿勢」が足りなかった。具体的に言えば「相手を対策し、それに合わせる姿勢」が足りなかったとも言えます。そこに着目した鬼木達について行った結果が二連覇という実績。だからこそ、タイトルにこだわり続けた中村からすれば、その結果とともにきっとそこへの面白さ、やりがいを知ったはずです。つまりいかに相手に勝つか、ある種ゲームの攻略法のように、目の前の試合(ゲーム)に対する相手との駆け引きの妙、この面白さに気づいた。だからこそ彼らの意識は変わりました。まずやるべきことは、相手を研究し、「そのボールを奪うこと」だと。

ただし一方で彼が変わらなかったものも存在します。

この試合、圧倒的なカウンターをもつ東京に対し、いかに押し込むか、どのタイミングで仕掛けるか、どうすればカウンターを喰らわないか。これらをボランチの下田や田中に指示し続けたのは誰か。他でもない、ピッチ上にいる中村です。

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また中断期間を利用し開催されたチェルシーとの一戦。彼が痛感した世界との差。それは彼が新たに楽しさを見出した奪う術ではなく、風間八宏に毎日教え込まれた術でした。

止める蹴るは絶対だなと改めて

彼が挙げたのは三つ。まずは止める蹴る、次にパススピード、最後にポジショニング。大事なのはこの順序です。止まるから相手のプレッシャーを感じない。早く届けるから相手は追いつけない。しっかり止めて蹴れるから、ポジショニングに無駄がなく立てる。

もっと緻密なパスワークを、世界より止める蹴るで勝らないと話にならない

確かにこの2年間、彼が勝つために必要としたのは鬼木達が提示した「相手を研究しボールを奪うこと」だったのでしょう。ただ仮に彼がどれだけ否定しようとも、時間が経てば経つほど、また対峙する相手が大きくなればなるほど、彼が自覚するのは勝てなかった5年間で磨き続けたあの日々だったのではないか。彼は気づいていたはずです。目が少しずつ揃わなくなってきたこと、その速さに陰りが見えてきたことに。

自主性と絶え間ない思考が生む「臨機応変

さて、話を冒頭に戻しましょう。今回、名古屋の前に立ちはだかった大きな壁。「想定外の事態に陥った際、自分達でどう臨機応変に対応するか」。これは決して名古屋だけの問題とも言えません。用意していないと出来ない、用意したもの以上のことが起こると対応出来ない。これこそが現在の日本サッカー界、いや、これまでの日本サッカー界にずっと横たわる最大の問題ではないでしょうか。

先日発売されたフットボール批評で、イビツァ・オシムがこんなことを言っていました。

日本の選手にはもう少し視野を広げる教育が必要だ。いろんなことに興味を持つこと。自分で思考する習慣をつけること。監督が事前に教えてくれないことを解決することが日本の選手にとって最も困難なことなのだ。そして監督もピッチの上で起こるすべてのことを予測して教えることはできない。だから、自分で筋道を立てて考えるという教育をすること

試合前に周到に準備したとしても、試合では何十、何百通りのイレギュラーなシチュエーションが起きます。思い通りに試合が運ばない、相手と想定以上に力の差があった。そんなとき問われるのは、個々の思考力、そしてそれを繋げるコミュニケーション力に他なりません。

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先日、ブラジルのインタビューにジョーが応えました。

grapo.net

私は、日本人のプレースタイルが速いにもかかわらず、ハイラインを設定して試合に臨み、あまりにも多くの失点をしているので、あまりスペースを与えてはならないと何人かのチームメイトに言ったが、彼らはこのことを監督に言うことに対してはあまり乗り気ではありませんでした。監督の指示に従うこと、監督が指示したこと以外は行わない。それがここの文化なのでしょうね。私は感じていること、思っていることを監督と話してみると、「わかった、試してみるよ」との返答を得ることができたが、いざ次の試合を迎えると何も変わっておらず、ハイラインのままでした。変わらないのが日本らしさ、日本のやり方なんだなと

風間八宏フットボールを実現する上でこれこそが最大の障壁です。何故ならこの状況もまた、選手の力量を伸ばすうえで避けては通れない壁だと彼自身考え、あえてそう振る舞っている可能性があるからです。案の定、川崎戦後8試合目にしてやっと重い腰を上げ始めた選手たちを、彼は否定することなくむしろ歓迎しました。時間帯によっては後方に引く、そんな彼のコンセプトとは真逆の結果だったとしても、彼は「一歩前進した」こう表現することで選手を讃えた。

一番大事なのは彼らが自分の意思でやろうとすること。試合の90分というのは彼らのものなので(中略)それは自分たちでやる、状況というのはその中で起きることだから。それを自分たちで判断していく。そして強いチームになっていくということです

migiright8.hatenablog.com

ではその点、川崎はどうでしょうか。ここでも存在感を発揮するのはやはり中村憲剛です。第20節の大分戦。大分のビルドアップを前から潰そうとゲームプランを立てた川崎は、前半20分頃までそれが全くハマらない感覚を覚えます。そこでどうしたか。その後の給水タイムで、彼を中心として選手たち自身で相談し、自主的に戦い方を変化させました。前から行くのはやめようと。ボランチにも強く要求したそうです。行けないなら止めろ、それがお前達の役割だと。

自分達で思考し、自分達の意思を持って臨機応変に戦う。この最大のハードルに対し、監督の立場から選手にアプローチする風間八宏。対して選手でありながら、監督のようなアプローチで仲間を導いていく中村憲剛

出会ったからこそすれ違った「喜び」

もしかすると中村憲剛風間八宏以上の「監督」になるのかもしれません。彼が本質的に持っていた能力を最大限引き出し、その歩んできた道のりが正しいものだと確信させたのは間違いなく風間八宏だったはずです。そして目を揃える必要性、そこから生まれるセッションの面白さも体感した。一方ここ数年で彼は目の前の試合にいかに勝つか、このアプローチにも喜びを見出した。風間八宏が去った後も、川崎がチームとしてそのクオリティを極端に落とさず済んだのは中村憲剛、彼の存在が常にそこに在り続けたからでしょう。彼がピッチ上で止める蹴るの重要性を説き、目を揃える努力を惜しまず、いかに相手を崩すか絶えず考え、それを発信し続けているからこそ、その文化が未だ脈々とそこに生き続けている。だからこそ鬼木達は彼らのモチベーターとなり、勝つための「監督らしい振る舞い」をするだけで良かった。ピッチに彼と目が揃う人材さえいれば、そこに風間八宏がいなくとも築き上げた技術が消えることはなかったからです。

そう、風間八宏も、そして中村憲剛もお互いに絶対に譲れない、彼らの血肉となっている共通した思想が存在します。

「止める蹴るを突き詰めた先に、世界がある」

そんな彼らは監督、そして選手というお互いの立場を持って半ば運命的な出会いを果たした。ただ出会ったからこそ、唯一決定的にすれ違ってしまった部分があります。それは「優勝という結果と引き換えに自身の楽しさを犠牲にした後悔があるからこそ、力をセーブするサッカーだけはさせたくない」と中村に接した風間八宏の想いと、「楽しさはあったのに、何年経っても優勝という結果だけが手に出来なかった」中村の想いです。結果的にこの皮肉な結末が、強烈なインパクトを持って彼らのサッカー観を似て非なるものとした。二人の間にある「ピッチ上の楽しさ」は、ここで分裂した。

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「技術だけは完璧がない」これは風間八宏の言葉です。つまりそこには常に伸びしろが存在し、それを最も大切な要素と位置づければ、チームは常にアップデート出来る。これが彼の信条のはずです。だからこそ、そんな彼が去りそこから舵をきった川崎は今、「自分達は進化を遂げているのか」この疑念と直面しているはずです。ボールを奪るチームと化し、彼らは二連覇を達成した。しかし3年目、得たことの代わりに、あれほど大切にしていた絶対的な指標が薄れつつあることに気づき始めた。ピッチに立つ選手が入れ替わる度に、それは少なくない違和感となって彼らに押し寄せています。つまり彼らが戦っているのは、「二連覇をして尚、チームとして進化、成長出来るか」この三連覇への最大の壁です。それは鬼木達が過去の遺産に頼らずとも、異なるスパイスでチームをブラッシュアップ出来るか。その試練でもある。

では彼らの自信を鼻っぱしからへし折ることが出来るのは。それは彼らのフィールドで真っ向から叩きのめすことが出来るチームだけです。おそらくその相手は我々である、あの日の等々力での姿はそう信じさせるものでした。

何があろうと貫く。だからこそ伴わない結果

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あれから3ヶ月。「土俵際寸前」、これが今の我々の姿です。

浦和戦でも試合のクロージングに失敗し、またもこのトンネル脱出から失敗しました。そのマネジメントですら、風間八宏は選手達の自主性に委ねた。また丸山、米本という中心選手を怪我で欠こうとも、彼は何一つ変わりませんでした。このメンバーをどう料理するかではなく、今のチームの前提でもう一度目を揃える道を選んだ。その差は第11節、第21節の浦和戦を比較すれば一目瞭然です。前線の4人でパスコースをきり、奪取力のあるボランチ2枚でボールを狩り取る。前半戦の副産物ともいえたあのプレッシングはなりを潜め、「どうボールを運び、どれだけ相手陣地を占有出来るか」この最難度のフットボールと改めて向き合うことになった。守備の問題、いや、このチームにおいてそれは所詮副次的な域を出ません。出来ていないから起きている、それだけのことなのです。例えそれが多くの人にとって非常識なことでも。

確かに彼はブレません。それでまた選手は学びがあるのかもしれない。ただ10戦勝ちなしの今、こんな気持ちにもなる。

これ以上それで結果が出なければ、プロの世界では本末転倒ではないかと。選手に期待し続けては裏切られ、その結果として自身の進退が決まる。少なくとも彼がやりたいことを必死で理解し、応援してきた我々からすれば、もしそれで彼が去ることになってしまえばこれほど虚しいこともない。

こんな状況でも彼のサッカー観、問題意識、見えているもの。それを否定する気はありません。無能と散々叩かれても、本当は彼が一番分かっているはずであると。ただ同時に見誤っていた部分もある。それは我々の想像など遥かに超えるほどに、彼の「貫く」その信念が、あまりに頑なであること。プロなんだから勝たなくては、このままではクビが飛ぶのでは。そんな危惧などアホらしくなるほどに。彼にとってピッチ上の主役、そして90分という時間は、彼のためではなく、まさしく選手達のためにあるものだった。だからこそ、彼から発せられる言葉はいつも選手に向けられました。

そしてもう一つ。チームとして求められる基準、コンセプトに対する理解力。これさえクリア出来れば、彼ほど自由を許容する監督もいないでしょう。ただし選手達がその自由を謳歌できない。皮肉にもその自由こそ苦悩になってしまう。本来非常識ともいえる「戦術で縛りつけない」行為の先に、我々は決してそれが全て正しくなくとも、何か新たな常識、見たことのない景色を生んで欲しいと期待した。ただこのままではその期待も、「結局は具体的な戦術がそこになければ話にならない」そんな慣れ親しんだ結論で幕を閉じてしまうかもしれない。自己表現が苦手で、言われたことしか出来ない。いかに個と戦術を両立するか、そんな日本サッカーに対する本質的な問いもこのままおざなりになる。個は磨けてもチームとしては形にすらならない。話にならなかったと。

理想の追求の先に、未来はあるか

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風間八宏が作り出すフットボールは、勝負の世界では決して全能ではありません。弱者が強者に勝つ、そんなロマンに溢れたものでもない。だからこそ理屈ではなく、勝つためには相手を力で上回るしかない。そして証明すべきです。「速いサッカーがしたい」この想いとともに名古屋を選び、2年半で積み上げてきたそのフットボールで勝てることを。

これだけ勝利から遠のいても、彼がブレなかったことで少しずつチームは変化しています。前半戦の時ですら相手の対策でバグが起こるとなす術がなかった彼らが、例え主力が抜けベースは変わろうとも、不器用ながらにも90分の戦い方をデザインし始めている。それは側から見れば鼻で笑ってしまうようなことかもしれない。ただ攻められているだけじゃないかと。いやそれでいいのです。思い通りにいかないとき、我々に何が出来るか。それが最大の課題だったんですから。このチームにとっては、選手達が自力で変わろうとしている確かな一歩です。何も積み上げがないわけではない。

我々の冒険はいつまで続くでしょうか。「風間八宏が信じ貫いてきたものなど、所詮はアマチュア仕様だった」。仮にこの結論でいつか幕を閉じることがあれば、それは彼自身にとっても、今後プロの世界でこの道を貫くのは難しくなることを意味します。今の名古屋を変えられなければ、一体どこを変えられるというのか。彼自身もまた、土俵際にいる。

姿を変えた古巣を倒すことで己の道が正しいと証明するか。それとも彼らに敗れ、こんな道は淡い夢だったと最も悲惨な形で息の根を止められるか。もはや今望むのは、あの日の等々力で魅せたスペクタクルなどではない。

絶対に負けたくない、そんな意地と意地のぶつかり合い。

「貫く」風間八宏、「変化する」選手達

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8試合も勝てない日々が続くと、人は弱気になるものです。

何故勝てないのか。何がいけないのか。普通、人は「出来なかったからこそ起きた現象」に目を向け、そこを改善しようとするもの。あの川崎戦以降、どのチームも名古屋とは同じ土俵で戦う選択をしてきません。中を締める、奪ったらカウンター。名古屋が奪いにくる、割り切ってロングボール。

振り返ると実はそこまで酷い試合を続けてきたわけではありません。未勝利8試合の内、試合を通して押し込むことに成功しながら数少ないチャンスで仕留められた試合もいくつかありました。その中でも個人的にターニングポイントだと感じたのが清水戦。攻めても攻めても相手を攻略出来ず、一瞬の隙を突かれて失点。ロスタイムに追いついたものの、試合終了間際にまさかの失点。ジョー不在で苦しんだ山雅戦、仙台戦を経て、大分戦で自信を取り戻した矢先、あの劇的な幕切れ。そこからはチームの大黒柱である丸山の怪我もあり、ズルズルとここまで来てしまったように思います。今思えば、例えば山雅戦にしろ仙台戦にしろ、「ジョーがいなかったから」で片付けて良かったのかもしれません。もちろん本来はそれも問題なのですが、チームのことを思えばそう割り切ることも重要だったのではないか。それらの積み重ねの先に清水戦があり、そして丸山の怪我が重なった。

その結果どうなったか。名古屋が誇る「枠」は、徐々に枠とは呼べない代物へと変化しました。陣形は間延びし、顔をだす頻度も落ち、攻撃は各駅停車。中からの攻撃にこだわっては撃沈し、まさに相手の思うツボ。行ってはカウンターの繰り返し、完全に負のスパイラルだったと言えます。

※「枠」はこちらのブログをご参照ください

migiright8.hatenablog.com

 中村憲剛の言葉から感じた違和感

風間監督は、このフットボールに最も必要な要素は「自信」だと常々口にしてきました。ただ皮肉なものです。上手くいかない時、真っ先に失われるのもこの「自信」だった。現在の負のスパイラルを作った諸悪の根源、実はこの「喪失した自信」が原因ではないかと考えています。確かにこのチームに足りない要素はまだあったでしょう。ただ本来はそこを突き詰めるだけで良かったものが、結果が出ない日々の積み重ねによって、失う必要がなかったものまでこのチームから消し去ってしまった。その結果として「枠」は失われました。

ではそもそもこのチームに足りなかったものとは何だったんでしょうか。特に気になったのは、どれだけ相手が中央を固めても頑なにそこからこじ開けようとするあの姿勢でしょう。きっと毎日そればかり練習しているから、相手の戦い方が変わっても、具体的に言えばそこに相手が6人いようが7人いようがやることは変わりません。もっといえば、我々のスピードが落ちていてもそれは変わらない。皮肉な話です。自由をとりわけ強調する風間八宏のチームが、自由とは無縁の見えないルールに縛られる。崩しの質にこだわった結果、相手の網にかかってはカウンターを受け、選手たちは行ったり来たり。恐れるようになったミス。縦に蹴られたくない恐怖心。そして止まった足。我々の枠は崩壊しました。

一方でリーグに目を向ければ、首位の東京に川崎が完勝。二連覇の底力を見せつけた形ですが、そこで一つ引っかかった点がありました。それは中村憲剛が口にする言葉の数々が、我々が普段見聞きする風間八宏の言葉そのものだったこと。止める蹴るの重要性に始まり、目を揃えることの意味、何故顔を出す必要があるのか。風間八宏がいなくとも、そこには中村憲剛の存在をもって、脈々と受け継がれる文化が残っていた。さながら、ピッチ上に風間八宏がいるように。

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特に興味深かったのは、「相手を崩すために何が必要か」、これを語る中村憲剛の言葉の数々です。どうすれば相手を押し込めるのか。中央を崩すにはどんな仕掛けが必要なのか。どのタイミングで突っ掛かればカウンターを喰らわないのか。彼にはその答えと、それを周りに伝える術があった。

対して名古屋はどうか。おそらく今の名古屋で最も目が速い選手はジョーであり、シミッチでしょう。先日発売されたサッカーキングで、ちょうど彼らの対談記事が掲載されました。そこで彼らが語っていたのは、いかにピッチ上でのコミュニケーションが難しいか。伝えたいことも、試合中だと特に難しい。出来るのは伝わっているか分からない言語の数々、そしてジェスチャーだけです。今シーズン、名古屋のピッチ上は日本人選手と外国籍選手がほぼ半々。止める蹴る外すの目が揃い、枠さえ維持できればあとは何をやっても自由なのが名古屋です。ただし実はこれこそが肝で、自由だからこそイレギュラーが起きるとボロが出る。気持ち良くやれているときは別です。枠の中でやれているとき、各々に迷いはない。問題はそうでないとき。どこから崩すか、どう押し込むか、蹴ってくる相手に前から行くのか、引いて構えるのか。「枠」を維持出来ないと、各々にすがれるものがない。自信が必要なフットボールです。ピッチ上の現象だけでは語れない部分だからこそ、機能不全になる理由もまた、目に見えない部分が多くの問題を引き起こしていたのではないか。

ジョーが言います。日本人は指示されたことは出来る。ただ指示を守っているだけでは打開出来ないと。つまりイレギュラーなことが起きたときに、臨機応変な対応が出来ない。案の定、思考停止したかのように「いかに狭い場所を攻略するか」に選手は終始しました。道筋が見えるから、そこを通せる自信があるからその選択をするのでしょう。ただそれを何度も何度も阻まれれば、カウンターという現象によって選手の自信は削がれてしまう。我々に決まった戦術というのは多くありません。だからこそ苦しい時ほどコミュニケーションが必要にも関わらず、それも取れないようでは元も子もない。上手くいっていた時は目の速さだけでチームは揃ったかもしれない。ただ状況が暗転した時、このチーム構成が足枷になったのではないか。分かりやすく言えば、川崎にはどんなときも状況を簡単に整理出来る選手がピッチに存在し、我々にはその存在がいなかった。これに尽きると思います。勝てなくなったきっかけは技術だったのかもしれない。ただその意味でも、またそこから修正が効かなかったという意味でも、実はこんなところにも大きな問題があったのではないか。困難な時ほど、約束事のなさが仇となった可能性は。風間八宏のチームが乱降下し、とりわけ浮上までに時間がかかるのは、この「自信」を取り戻すことに時間を要するからかもしれない。いつしかそう考えるようになりました。

全くブレなかった風間八宏

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私は仮説を立てました。このやり方を軌道修正するには、各ユニットを言語の通じる選手たちで構成すべきと。つまりチーム状態が悪い今だからこそ、細かいディテールの修正が効きやすい、コミュニケーションが容易に取れるメンバーで固めるべきではないか。例えばサイドの縦関係。右は前田と宮原。左は和泉と吉田にする。悩ましいのが中盤の構成ですが、チームのキープレーヤーであるジョー、シミッチ以外は極論オール日本人でもいいのではないか。笑われるかもしれません。それで何が変わるんだと言われるかもしれない。ただ、風間八宏風間八宏としてやりきるなら、そこまでやっても駄目なら仕方ないと思えた。これが素直な気持ちです。

では風間監督が実際にこの一週間で何をしたか。

彼は「出来ていないからこそ起きている現象」に目を向けるのではなく、あくまで「出来ていないこと」に拘り続けました。具体的に書きます。つまり壊れかけていた「枠」の再建に取り掛かった。この一週間の練習はとにかくキツかったそうです。ひたすら負荷を上げて、局面の激しさ、切り替えの早さを求めた。我々の枠を作るために最も必要な要素は「連続性」であると。ボールを持てば足を止めず顔を出し続ける。ボールを奪われれば即時奪還を目指す。局面ごとのスピード、強度の積み重ねが我々のベースを作り出し、その結果出来上がるのが枠であると。これは強烈なメッセージだったと考えます。たしかに我々のチームに中村憲剛はいない。ただ我々には新しい定義「枠」という発想がある。圧倒的な速さと正確性、強度を持ってその枠を作り出せと。それを一人残らず同じレベルでやりきるのだと。まずこのチームに絶対的に必要な掟を思い出させようと試みました。

この一連の過程において、彼にとっての「進化」とは、例えば相手に合わせた戦術をとるだとか、守備の精度を精密なものにするだとか、そんなことではないと確信しました。彼にとっての進化とは、中村憲剛という稀代の司令塔に頼らなくとも、自分たちが作り上げた枠の中で相手を圧倒的に凌駕すること。そのために必要な技術、スピード、強度の三本柱を「連続性」と言語化し、そのベースの上に「自由(個性)」を生み出すことで、相手は絶対に崩せるのだという自信。当然本人に中村憲剛を引き合いにだす気持ちなどないでしょうが、実際に彼がやっていることはまさにそれではないか。試合前会見における風間監督のコメントを紹介します。

俺たちのベースというのは連続の中で正確な技術を扱えるかどうか。そういう意味ではそこを高くしていかないと。連続というベースが、その速さの中でなにができるか。それの中で技術をどう学ぶかということをやってきたのでね。これからもずっとそうなってくると思う。そうじゃないと、ベースがそこなので。その中でしか身につかない技術だと思うので。そこをみんなに意識してもらって、やらせていた

速さの中でやることがすべてそういうことで。球際が速くなかったら、今度は自分たちの判断も速くならない。選手たちはうまくなってきているので。「このくらいでやろう」と思ったら、このくらいできる。今までだったら50キロでやろうと思ってもできなかった。今は60キロ、70キロ、できるやつは80キロくらいいっている。落とそうと思ったら50キロくらいはできちゃうと思うんだよね。そうじゃなくて、70、80にできるだけ近い状態の中で、なにができるか、どうできるか。そういう意味では自然とそうなるよね

もう一つ。この一週間、自主練にも課題を与えていたと言います。いや、課題を与えたらもはや自主練ではないですが、これは就任後初めてのことだったのではないかと思います。

少し違ったのは自分たちがいつもだったら自主練をするけど、それに必要なものをこちらから提案してやらせた

見学に行った方の話を聞く限り、例えばクロスへの入り方、ミドルの練習、数的不利での守備対応など、まさに「枠の中でどう相手を崩すか」ここの意識付けを行っていたようです。もちろん一週間ばかりで精度が急激に上がることはありません。大切なのは「意識付け」です。決して狭いスペースをパスだけで崩すのが全てではない。だって自由なんですから。どうすれば相手を崩せるのか。枠さえ出来てしまえば、あとは沢山の手段があるのだと。「枠の徹底」「練習強度が生み出す技術スピードの向上」「攻撃は自由だという意識づけ」。それは彼なりのアプローチでもあった気がします。

やはり変わらなかった「普段通りの一試合」

試合当日。8戦勝ちなし、彼の進退を危惧する状況だったのは確かです。しかもこの一週間、改めて追求した「枠」の最後の砦となる丸山、そして枠の中で誰よりも「連続性」を体現する米本を怪我で欠く状況。だからこそ、この試合のスターティングメンバーに注目が集まりました。

信じられますか。この切羽詰まった一戦の最終ラインに起用したのは、アカデミー卒の新人、そして移籍後初戦の「本職サイドバック」の選手を3枚の内、2枚に起用した。そうです、彼にとってはそれでもシーズンの内の1試合に違いなかった。トレーニングの出来が良ければ、それが例え今シーズン初出場の新人選手でも躊躇なく起用する。自身の理想を実現するためなら、攻めるための配置で起用する。ストッパーに選ばれた一人、藤井を何故起用したか。試合後のコメントはまさに風間八宏らしい言葉に溢れました。

一つは彼がトレーニング、それからトレーニングマッチで素晴らしいパフォーマンスを出していたこと。それから、我々の中で若い選手がどんどん出てきてくれなければ困るということ。彼はトレーニング、そしてトレーニングマッチで自分が試合に出るに値するプレーを見せてくれました。ですから我々も彼を信用して起用する。彼が出てきてくれることで層が厚くなります。まだまだうちは層が厚いとは言えませんし、若い選手に出てきてもらいたいという願いを込めました。今日は非常によくやったと思います。積極性もありましたし、この大観衆の中で全く動じずにプレーした。よくやったと思います

この試合までに至る過程、また今回の選手起用を見て、一つ理解出来たことがあります。それは、彼にとって「ブレない」とは、決して「攻め続けること、相手に合わせないこと」ではないということ。彼にとってのブレない、いや、「貫く」とは、「誰よりも選手に期待すること」であると。

試合も前半に関しては、随所に名古屋らしい崩しが見られました。戻ってきた、そう感じたものです。

勝つために「自分たちで」考え始めた選手たち

ただ後半、この試合を左右する大きな変化がありました。「変わらない監督」に対し「変わろうとした選手達」です。この試合、後半途中から後方でブロックを作り守ろうとした選手達の姿がありました。試合後の中谷のコメントです。

チームとしてはかなり割りきって引きました。ただ、最後のところで失点してしまったのはもったいなかった

そして和泉のコメント。

持たせている部分はありました。決していけなかったわけではありません。自分たちとしては、いかなかっただけです。そこは自分たちでしっかり話し合ってやったことなので

そう、この試合、選手達は「勝つために」自分達で意見を出しあい、戦い方に意図して変化を加えました。この連敗から脱出したい。なんとしても勝ちたい。復調の兆しを掴みたい。彼らが考え抜いた結論は「引く時間を作ること」だった。ただし最終的には試合終了間際の宇佐美の劇的な同点弾により、遂に9試合勝ちなしの記録が続くこととなりました。

試合後の風間監督の談話を振り返ります。

いつも見ている方々には、少し変わった形になったかと思います。やっぱり自分たちがどうするか。選手も変わっていますし、そういう意味では自分たちの中の判断でやっていたと思います

ただし結果として「追いつかれてしまった」のが事実です。このチームに後方でブロックを作って耐え忍ぶ力はなかった。ただこれは当然といえば当然です。そもそもそんなチーム作りはしていないし、この試合の交代カードを見ても、基準は「前」にあった。前がガス欠を起こしては、枠は維持できないからです。また試合後の宮原のコメントを見ても準備不足があったのは間違いありません。

後半になってブロックを敷いた時にスペースを与えているシーンがやっぱりあるので、そこはもっとやっていかないといけないところです

そして風間監督。当然ながら彼は注文を付け加えました。

ただし、もっと前でしっかりボールを持てるはずなので、何人かがフリーでボールを失う。特に前線でもっと押し上げることができたはずです。相手陣内に押し込んだ時は色々なアイデアが出ていたので、それはそれで良かったと思いますが、やっぱり相手が来たときに、それを簡単にいなしていかなければならない。それは前線の選手たちにもう一つ質を上げてもらいたいと思います

彼からすれば、試合を通して枠を作り続ける技術さえ足りていれば、そもそもあれだけ押し込まれることもなかったし、最後の場面も作られることはなかった、そう言いたかったのではないでしょうか。つまりこれが今のチームの「伸びしろ」だと言うことです。もちろん、その選択肢しか持たないことへの批判はあって当然かと思います。また風間監督は、同時にこんなコメントも残しています。

チーム全体として自分たちの持っているようなクオリティーではなかったと思いますが、チームが一つになって勝つことにこだわり闘ってくれたというところはすごく評価できる、あるいは一歩前進したかと思います。ただしこれから、もっともっと質を上げていかなければいけない。そういう次の課題がはっきり見えた試合でした

彼は決して自分たちで戦い方を決めた選手たちを責めなかった。むしろそれを「評価できる」「一歩前進した」と評価した。言われたことをやるだけではなく、勝つためにどうすべきか考え抜いた選手たちを認めているということです。この試合をいつも通りの1試合だと何も変わらず向き合った監督と、この試合にどうしても勝つんだと、手段に拘らなかった選手たち。もしかすると、そのギャップがこの試合の同点弾を生んでしまったのかもしれない。ただ同時に、そのギャップ、つまり理想と現実の差を、理想に近づけていく余地があるという事実に、私はこう感じたのです。「このチームはまだまだ強くなる」「絶対に強いチームになれる」と。

一日でも長くこの日々が続くことを願って

試合後、こんな記事が遂に出回りました。

www.nikkansports.com

headlines.yahoo.co.jp

風間八宏を解任しろ」火のないところに煙は立ちません。おそらくこの動きがあることは事実なのでしょう。一つだけ間違いないのは、その首謀者が小西社長ではないということ。彼もまた「貫く」意志があることを表明しました。では誰がそうさせているのか。それは分かりません。いつ何があるか、まだまだ予断を許さない状況は続くかもしれない。

私は風間八宏が率いる名古屋グランパスを応援する理由をこう答えたいと思います。

今目の前にある現実ではなく、未だ見ぬ未来に期待したい

常識ではなく、非常識の先に大きな未来があると期待したい

根拠?それは風間八宏とともに過ごしたこの2年半の日々、では駄目でしょうか。この試合の観客数は遂に4万2千の大台に乗りました。もちろん風間八宏だけの成果ではない。ただ同時に、フロントだけの成果でもありません。両輪がしっかり噛み合ったからこそ、今この瞬間がある。この文化が名古屋にずっと息づくよう、今アカデミーも一体となり改革している最中です。その投資の結果が現れるのは、もしかしたら5年後、いや10年後かもしれない。ただ私は見てみたいのです。「名古屋らしい選手が多く育ってきた」と言われる未来を。

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ここでこの冒険を終わらせれば、名古屋に残るものはあの降格前より少しだけまともな光景です。元いた場所にクラブを戻し、少しだけ観客数も増えたスタジアム。ただし、この少しだけまともな光景を作るのに2年半かかった事実と、崩れ去る時は一瞬であるという世の常を我々は忘れてはいけません。動き出したアカデミーも、県内をも巻き込もうと走り始めた壮大な計画も、全てが頓挫するという覚悟があるか。「止める蹴る外す」の追求、「目を揃える」という発想、文化など、一瞬で吹き飛ぶことでしょう。

この暗闇から抜け出すまであと一歩、あと一歩のところまで間違いなく選手達は来ています。だからこそどうか、どうかこの希望が一日でも長く続くことを願って。このバトンが、しっかりと意志を持って引き継がれていくことを願って。

「ファミリー」とは

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勝利より敗北の方が学べること、我々にはありますか?

今シーズン開幕から絶好調だった我等が名古屋グランパス。このまま飛ぶ鳥を落とす勢いで優勝争いかと思いきや、あれよあれよと突如の失速。この予定にはなかったはずの展開に我々も奈落の底へ突き落とされました。強くなると相手は対策し、故に対策しない名古屋は何も出来ず、第12節の川崎戦の引き分けからまさかの8戦勝ちなし直近4連敗。それにしてもこのエゲツない安定感のなさ。浮き沈みが激しすぎて、感情の振れ幅がコントロール不能です。

「風間擁護派 vs 風間解任派」

いつしかSNS上における名古屋サポーターといえば、この対立構図のもと語られることが増えました。誰かと誰かを対立構図として煽るのは人の性。それにしても9位のチームをここまで荒れさせる風間八宏逆に凄くて尊敬します。

本来誰だって争いごとなんて嫌。我々の好きな対象が例えばフィギュアスケートなら。おそらく皆で喜び、感動し、涙し、励ますことが出来たでしょう。これがアイドルグループだったら。おそらく皆でキャーキャー歓声をあげながら、ただただその姿に興奮して、その場を後に出来たんでしょう。

でも我々が好きで好きで仕方がないフットボールの世界は決してそうはいかない。多くの方が愛するのはクラブ。クラブとは、我々にとって我が事、です。毎週末シナリオのない勝負事に身を置き、負け続ければ降格だってある。勝てば幸せ、でも負ければ憂鬱。「俺たちのクラブの何がいけなかったんだ」と、悩み、落ち込み、ときに怒る。これが個人競技だったら我々が抱く感情もまた違うのでしょう。我々はクラブを愛しているから、不思議なことに個人を責めることに躊躇がなくなる。「貴方は我々のクラブに相応しくない」と。

ここ最近、「日本のスタジアムには狂気が足りない。あれでは強くなれない」そんな論調があるのはご存知でしょうか。緩い、あれでは相手の脅威になれないと。ただ今回、全く勝てなくなって我々に起きたことを冷静に見つめたとき、この国におけるサポーター事情が少しだけ垣間見れた気がしたのです。風間八宏のおかげです。あまりに極端で、頑固で、その振り幅がエゲツない彼のおかげで、我々も我々自身のことが、少しだけ分かったような気がしています。ありがとうございます、もちろん皮肉です。ただ「ファミリー」って何なんでしょう。そんなことを考えだすと、試されているのは選手だけではない。実は我々ファミリーも、ともに成長しないといけないのではないか。そういった試練を突きつけられているような気がするのです。

ファミリーにとっても劇薬だった風間八宏

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そもそも我々名古屋サポーターを特別な呼び名にしたいと拘ったのが、他でもない風間監督です。これも皮肉な話で、結構サポーターへの想いが強いわりに、そのサポーターに引くほど嫌われるこの矛盾。結果我々は「ファミリー」と名付けられました。皆さんは家族だと。いいですか皆さん、家族ですよ家族。世間的にみたら家族ってまあ一心同体みたいなものですよね。家族には無償の愛を注ぎ、悩みは全力で受け止め、ときに喧嘩してでも面倒に首を突っ込む。それが私のイメージする家族です。その家族という関係性を、少なくともこのクラブを応援するその瞬間だけはともに共有しようと。

これ実はとんでもないこと言ってるなと、今更ながら思いました。血の繋がりもない、何か深い縁があるわけでもない我々がたった一つ、「このクラブが好きだ」この気持ちだけでファミリーだという。どれだけの価値観がここに集まっているか、考えたことはありますか。私がみた我々のファミリーとはこんなラインナップです。これを顕在化させたのは、皮肉にも風間八宏だったと思います。

①彼のチーム作りを理解し、長い目でみようとする者

もはや周知の通り、風間監督のチーム作りは独特です。本人がそう思っていなさそうなのがマジいらっとしますが、まあ誰がどう見ても独特。目先の勝敗にはもちろんこだわっているでしょうが、そのために例えば選手の手助けになるような、またその特徴を容易に活かせるようなチーム戦術(いわゆる「決め事」)は細かく仕込みません。あるのは「止める蹴る」のベースのみ。その個々の繋がりがチームを形成し、その技術の上に個性が乗る、そんな考え方です。つまり我々が期待できる対象はある意味において「選手だけ」。しかも「今持ち得る力量」だけが頼り。この二年半、その段階ごとで壁にあたり、その都度彼らはその苦境を跳ね返してきました。ある者は自己の成長をもって、またチームとして不足した部分は補強を敢行することでレベルアップした。そのやり方は前回のブログに書いた通りです。このやり方に賛否があることを承知の上で、それでもどこかのタイミングでピタっ!と目が揃い、急に勝ち始めるチームに何より期待している我慢強いジャポネーゼ達がこの層です。もちろん、ご存知かもしれませんが私もこの考え方です。いかにも日本人的でしょう。風間八宏と魔境J2をギリギリで乗り越え、昇格初年度は15戦勝ちなし最長8連敗まさにぎりぎりでの残留。そして今年は8戦勝ちなし現在4連敗中。どうだ、凄いだろ。サッカーには夢がある!ありがとうございます。

migiright8.hatenablog.com

 ②目先の勝敗にもっとこだわるべきだと考える者

先ほどの内容と、まさに対となる考え方です。叶うか叶わないか分からないロマンではなく、より一戦一戦の勝敗に執着しろという発想です。圧倒的な技術信仰者で、挙句その目(技術のスピード)が揃えばどんな攻撃だって俺たちは出来る、決まった型がないからやっている者も楽しいし、それが結果的に観る者の楽しみにも繋がるはず。おっとそもそもボールは取られんじゃあねえぞ。(ここでツッコミが入る)いやいや馬鹿言ってんじゃねえ。再現性もない、目が揃う保証もない、ただそれだけを追い求めた結果揃わなければなす術もない。ふざけるなと。ちゃんと相手の対策をしろ、もっと決まった型を選手に授けろ、誰がどこに立つべきか明確にしろ、選手に得意なことをやらせろ。つまり「今勝てる最善策を尽くしていない。しっかりとした戦術さえあれば、もっと選手は力を発揮出来るし勝つ術もある」。この考え方です。いや、至極当然のことですね。書いていて手が震えます。

改めて思いますが、どちらも尊重されるべき考え方です。お互い決して間違ったこと(筋の通っていないこと)を言っているわけではない。一方はその「可能性」を信じ、もう一方は目の前の「現実」を追求しているだけです。ですから私のSNS上での友人には当然②の方もいるし、そこはどれだけ正反対のことで怒り、嘆き言い放とうが、尊重し静観しています。この話題でなければ、一緒にバカ話だって出来ますから。もちろん議論になるならしてもいいでしょう。ただ喧嘩は議論ではありません。それならやめた方が良いし、自分の価値観を怒りでぶつけたところで何も起きません。風間監督を応援する場合、得てしてそれは「可能性に期待する」になります。だから勝手に宗教じみた「信者扱い」とする者もいる。レッテル貼りして上に立ちたい方々です。実際に私にもそんな方々から所謂クソリプなるものがきます。そりゃもうがんがんブロックですよ。それでいいんです。全ての声に耳を傾ける必要はありません。毎回思います、「貴方達は誰と戦っているのか」と。正直に申しますが、勝手に戦場に引きずり込もうとする行為ほど迷惑なことはありません。

そしてこの延長線上にはこういった層も。

③行き過ぎた「嫌い」の感情で火事を引き起こす者

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仮に応援するクラブが自分の家だったとしましょう。普通我が家の出来の悪さを自慢げに語りたい人などなかなかいないでしょうが、中にはそれを嬉々と語る方もいます。ここが悪い、ここが酷い、ここが終わってる。まさにネガティブのオンパレード。何とも我が家を燃やそうとする行為にも見えますが、案の定上手く着火しそうなときにこの声は大きくなります。成功するとどうなるか分かりますか。騒動に気づいた第三者(この場合名古屋サポではない方)が現れる。「あそこの火事がマズイぞ」「え!?どれどれ」。皮肉なもので、人は他人の悪い噂ほど早く、広範囲に情報を拡散する生き物。何故なら肯定より否定の方が言葉は強く、人の興味を惹きつけるからです。人の声という声が息として吹き込まれ、本来ボヤ程度だった炎はみるみる大きくなっていく。

現実の世界に話を戻すと、風間監督のチーム作りがまた都合がいいんだ。駄目な時、それはもう駄目駄目じゃないですか。一つ歯車が噛み合えば恐ろしいパワーを発揮する。ただしその一つが噛み合わないと目も当てられない。何故保険をかけない(千鳥のノブが言っています)。駄目だった時、他の手立てがない(分かってやってるからまたタチが悪い)。結果そのやり方への好みは真っ二つに分かれ、「そもそもこの設計者がクソだ」となる。すると前後の文脈を知らない第三者はこんな感想を抱く。「ほんとだ、これは酷え」。

でも考えてください。仮に自身の大切な家が火事に遭ったとき、普通は必死で火を消そうとはしませんか。野次馬根性で見に来る人がいれば、追い払いたいと思いませんか。だって我々の大切な家ですよ。そう、ここで大切なことは、結局燃えている対象は「我が家=クラブ」だという事実です。そして中に住み、それを必死に応援している「ファミリー」をも燃やしていることに気づかない。悲しいかな、分かってやっていれば手に負えません。だからこそ勝手な正義感で「いやいやほんとはぼや騒ぎ程度ですよ」と言い回っても、第三者の目の前は既に火の車に見えていますから、手遅れです。

考えてみれば、何故愛するチームをそこまで罵倒するのか。単純な話です。クラブに対してそこまで愛着がないか、どうしてもそこに関わる何かが許せない。嫌いで嫌いで仕方ない。もしくはその対象を大切なクラブから追い出したい。一見すると②と③は同じように見えるかもしれませんが、実は全く異なるカテゴライズであることを理解する必要があります。そうでないと、物事の本質は見えてきません。

まあそれにしてもここまで嫌われる風間八宏には、是非「嫌われる勇気」の本をだしてほしい。

④勝っても負けても楽しく見たい者

「降格しなければ世界は平和」あぁ素敵な層の出番です。最も楽しく観戦出来る層と言い換えることも出来るでしょう。そりゃ勝ってくれたら嬉しい、ただその存在があるだけでも満たされる。何よりクラブが好き、そこに所属する選手が好き。彼らのプレーを見て一喜一憂することが醍醐味です。よって勝つために①と②が揉めているとがっつり引きます。「またそんなことを...馬鹿なのねえ馬鹿なの?だから男はアホ」。はあああごめんなさいごめんなさい。この思考、近い存在が例えばライト層やファミリー層かもしれません。クラブとしても大切な層です。通常のスタジアムに二万人集まるとすれば、この層がそれを四万人に押し上げる。おそらく①と②が歪みあえば歪みあうほどこの層は離れます。

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ただしここで難しいのが、そうは言ってもこの世界に勝ち負けはつきものです。勝負事は、良くも悪くも人を狂わせます。「サポーターはストレスを買いに来ている」よく言ったものです。正解。日本のスタジアムって、ある意味勝負事の場で、またエンタメの場でもあることがここで分かります。知りませんが、例えば海外ならスタジアムに来る8〜9割のサポーターが勝負事として観ているのかもしれない。ただこの国のスタジアムってせいぜい半分いれば良いところじゃないですか。なのでここの差異を理解し、お互いが尊重すべきです。「勝ちだけが全てではない」。この価値観を我々は知らなければいけない。この時点で私的には「日本ももっと脅威を感じさせるスタジアムに」へは反対となります。いや、この国にしか作れないスタジアムを目指せばいいと。

⑤クラブ以上に個人に愛を注ぐ者(個サポ)

④とは別に、この層が存在するのもこの国の面白いところ、素敵なところです。兎にも角にも個人推し。選手が移籍したら私も一緒に移籍します(ちょ待てよ)。これも箱推しが当然の方からすれば慣れない感覚かもしれません。でも考えてみれば面白いですよね。だって言葉の通り、選手と一緒に移籍して異なるチームの文化に触れられるんですから。

そしてこの個サポにとっても、名古屋というクラブはキツい環境。大前提として我々の応援する名古屋グランパスオリジナル10の、資金に恵まれた、タイトル経験のある「ビッグクラブ(異論は受け付けますん)」であるということです。毎年残留争いするような(したけど)、ときに降格するような(したけど)、下のカテゴリーに当たり前のようにいるような(いたけど)チームでは本来ないということ。やはりあるべき姿、あるべき立ち位置、求められる成果が必ずあって、そのために選手の入れ替えはどうしても頻繁に起こる。

またここにきて監督が風間八宏ですよ。これも前述のブログをご参照いただきたいですが、目の速い連中についていくため、もしくは目の速い連中に刺激を加えるために選手の入れ替えは当然のことだと割りきったチーム作り。これもガチャだ使い捨てだ嫌味言われたい放題ですが、彼の理論上は私もそうあるべきだと思いますから。だから風間監督はある意味で名古屋のあるべき姿にマッチした監督だとも。ただしこれが個サポの方にとっては「冷たい」という印象になり得るんですよね。規模の小さなクラブの方が、その点選手に寄り添っているようにも感じられる。この点に関しては、たしかに今の名古屋とは噛み合わせは悪いのかもしれません。ただ嫌いになっては欲しくないなあ。

サポーターではなく、「ファミリー」

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本来スタジアムにいても私たちが聞く声は、せいぜい一緒に行く友人や仲間の声だけです。それがSNSという場になると、奇跡的におそらく一生交わることのなかったはずの声が交わる、または聞くことが可能となります。SNSとはつまり、スタジアムの一角、例えばゴール裏を切り取って全員にマイクを持たせたようなものです。聞こえるはずのなかった声が聞こえ、同じクラブを応援するファミリーという括りの中に、実は沢山のカテゴリーが存在し、その中で一人一人異なる個性が存在することを教えてくれる。それはこれまで見てきた通り、これだけ複雑に入り組んだものなのです。

昨日、こんな悲しいニュースも流れてきました。

出て行け、ですか。凄いですよね。来てくれ、と言ったのは我々です。降格してからのこの2年半、一からチームを作ってきた我々のもとに来てくれた監督、コーチ、選手達はそもそもファミリーではないのでしょうか。

我々は今、これらの多種多様な価値観を名古屋グランパスという一つのクラブを持って、「ファミリー」にしようとしています。この2年半、選手たちが様々な壁にぶつかっては乗り越えてきたように、我々もまた、この壁を乗り越えファミリーの絆を強くしないといけない。そう、壁にぶち当たっていたのは選手だけではありません。我々もそれぞれがその苦境に立ち、これからどう振る舞うべきなのか試されているように思います。ファミリーとは何なんでしょう。凄まじい難題にぶつかったものです。負け続けるのはつらい。でも負けないと気づかないことありますよね。ここ最近、それはもう落ち込んだり悲しんだり色々ありますが、同時にこんなことを私は痛感しました。ファミリーって、重いですよね。今さらこの言葉がズッしりきてます。お互いの価値観を認めあい、共に手をとり応援する。そりゃ意見は分かれます。ただ私はお互いの価値観を理解し、クラブをサポートしたいです。この監督が良い悪い。そのジャッジを下すのは我々ではありません。そこだけは肝に銘じなければ。ただし、今クラブが置かれている立場・状況は理解する必要があるのでしょう。

さて、次は待ちに待った「鯱の大祭典」。8戦勝ちなしの状況で超満員の豊田スタジアムに我々は集結します。皆さんは、我々のクラブにどんな声援を送りますか。

俺たちはずっとフルマラソンをしている

早速ですが、パリピが加入しました。

またか名古屋と。「お前」たちの夏、到来かと。他サポの皆様も騒ついております。そもそも獲ったり出したり、節操がないんじゃないか風間、そんな声も聞こえますね。その点に関して、やはり彼のチーム作りがなんたるものかロジカルに考えるべきだろうと思いました。その結果、ツイッター上で独り言を呟きまくったわけですが、ここはブログにしてまとめさせていただきたい。その上で、前半戦最後の試合、荒れに荒れた神戸戦に思いを馳せながら、改めて風間八宏が作るチームへの見解を述べたいと思います。

(追記:この文章は天皇杯前に完成していましたが、完成後もっと荒れる出来事がございました。心が病んで公開を遅らせた小心者な私、この話題も後々触れていきます)

私たちのクラブが今やっていることとは

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皆さん、長距離走、走ったことありますよね。あれ大っ嫌いだったことないです?可愛い、ちょっと気に入ってる女性にダラダラ汗流す姿みられて。彼女たちが見てる場所の前通過するときだけ超余裕だと呼吸を整え通過したらぜーこらぜーこら。懐かしいでしょう。あのときの俺たち可愛かった。

私、学生時代はサッカー部でありながら、当時はまだ身体もキレキレで陸上部も兼任しておりました。その中で長距離走ってやらされるんです。もちろんフルマラソンではありませんが、距離はともかくやっていることは同じです。全員でよーいドンして、ひたすら同じトラックぐるぐる回って、気づけばくっそ速い奴に周回遅れにされながら惨めにゴールすると。ほんと速い奴ってめちゃくちゃ速いんですよね。で終わったらゲロッゲロに吐き。よく先生に背中をさすってもらったものです(男の先生でした)。

急になぜこんな話を始めたか。これもちろん速さの定義こそ違えど、風間監督のチームもやっていることの考え方は同じです。つまり一年というタームでフルマラソンを選手たちに走らせている(これしか喩えが思いつかぬ)。この場合のフルマラソンで競う速さ、これまでに度々でてきたワード「目の速さ」です。この唯一無二の絶対的な掟のもと、選手たちは日々トレーニングで己を鍛えながら走っている。

当然ながらレースは長丁場です。速い奴と遅い奴の差が生じ始めます。で、ここで重要なのが、彼らがやってることは当たり前ですが個人スポーツではありません。あくまでチームスポーツ。なのである程度目(の速さ)を揃えるためには、速い奴か遅い奴、どちらかに全体を揃えないといけない。

ここで風間監督は最悪なんです。あろうことか目の速い奴に揃える地獄。いや理由は理解出来ます。遅い奴に揃えればチームのキャパは小さなものしか生まれない。だったら速い奴を基準にしようと。となると先頭集団(その速さで目が揃ってる連中)をどれだけ増やせるかがチーム力になる。

すると何が起きるか。私のような周回遅れの人間は淘汰される。つまり放出です。代わりに私より速い人材を連れてくる。で、そのレースに途中参加させる。これで結果的にチームのマンネリは打破できます。新陳代謝が生まれる。またここで重要な考え方、そもそもなぜ先頭集団の人数は多い方がいいのか。単純にチームスポーツだからです。例えば速い奴が8人しかいない。これではピッチにいる残りの3人が足枷になる(風間監督はこれを「水をこぼす」と表現します)。もう一つ。速い奴が11人だけでは、その先頭集団から1人でも欠ければ同様にそこが水をこぼす原因になる。

さらにもう一つ。先頭集団に刺激(競争)がないとタイムが上がりません。当たり前ですが、速い奴は同様に他の速い奴と競うからよりスピードが上がるわけです。この理屈、突き詰めていくと実はよく出来ています。

ここから言えることは、このチームにとっての補強は単純に欠けているパーツの補強の側面もあれば、同時に各ポジションに競争を促すための補強の側面も備えているということです。なんでそれが毎年起きるの?それは先ほど書いた通り、毎年先頭集団のペースが上がれば、当然そのスピードに追いつけなくなってくる選手がいるからです。そのサイクルで常にチームがアップデートされていく。よって、風間監督のチーム作りはある意味において補強はなくてはならないもの、そう考えることもできるかと思います。

そんな愛のない環境はクソやっ!

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当然ながらこう考える方もいます。「毎年選手が入れ替わって、想い入れのある選手もいなくなって、これじゃあ気持ちが追いつかんわっ!」と。またもう一つタチが悪いのが、このやり方、即効性がないんですよ。だって前提を覆すようで恐縮ですが、サッカーは相手がいるわけです。なんだろう、イメージするなら試合中は陸上トラックの上にハードルが様々な高さ、配置で置かれてしまう。当然我々は風間監督に期待するわけです。「もっと速く走れる靴を選手にっ!」「すいません、裏道(戦略)を教えてやってくれませんか涙」。ただあのおっさん(すいません)絶対に教えない。頑として教えない。それでは各々が本当の意味で速くなったと言えないからです。それでも速くなれるよう乗り越えろと。で、見事にズッコケる。我々も荒れる。だからこのチーム作りが嫌いっていう方もいるでしょう。そもそもこれが正しいのかと考える人もいます。別に裏道教えたれやと、それがアンタの仕事だろって。毎試合誰だって好きなクラブが勝つ姿見たいじゃないですか。だからこんなやり方好きになれない。こう思うのも当然尊重されるべき考え方なんです。

散々荒れた神戸戦試合後

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これらの対立した感情が爆発したのが先日の神戸戦後。もーツイッター上は「風間辞めろ」のオンパレード。これ仕方ないんですよ。今の話で、それを受け付けない人はいるに決まってるんです。だってあんなチーム作りする監督、少なくとも国内では彼くらいでしょうよ。我々は、そういう特殊な監督と今、同じ時を過ごしてるんです。だからよく荒れると「議論を!!」なんて正義感に溢れた意見もでますが、はっきり言って不毛ですよそんなものは。だって仮にそんな議論したところで、我々が出した結論をもってクラブが風間監督と縁切りますか?絶対にありません。所詮は好きか嫌いかの「感情」が支配する部分が圧倒的。だったらそれぞれが好き勝手言っていれば良いと思うのです。「だあああ風間この野郎!!!!」「ぐぬぬぬ僕は支持をしますよ」こうやって本当の意味で呟いていれば良いだけです。誰に向けてではなく、自分では抱えられない想いを吐き出すだけでいい。それに共感してくれる方がいればそれだけで救われますしね。

ここで一番やってはいけないことは、自分とは意見の異なる誰かにその感情を怒りに変えてぶつける。または意見が異なるという理由だけで、その相手の人格そのものを傷つけて自分の感情に折り合いをつける。これマジ無意味ですね。私もここ数年で散々言われてきました。紹介しますよどうぞ。

1、風間擁護派

擁護などしてねーよ。よく読めい。期待派と言ってくれ

2、風間信者

教祖なんていらねーわ、夏

3、ポエマー

それただの悪口だろ紡いでねーし紡いでねーから

4、ナンバー文学

ナンバー馬鹿にすんじゃねーよあのらいかーるとさんだって「ナンバー文学も好き」言ってたかんなっ!!(有名人を利用しマウントを取っていくスタイル)そもそもこれでナンバーさんと比較するの失礼すぎるじゃろうがんぁぁああああ?

どうです、酷いでしょう(同情してください)。でも面白いなって思うのが、これだけ散々好き勝手違うこと言ってる連中が、週末になれば申し合わせたように揃ってスタジアムに集結するんです。必死でチームを応援するんです。なんてシュールなんですか。ただ同時にそれってめちゃくちゃ素敵だと思いませんか?みんなが好き好き言ってる方が気持ち悪いんだから。それこそ信者です。クラブがあって、そこに様々な気持ちが乗る。当然だし、なによりそれが面白いのです。

ちなみに私はこれまで書いた理由をもって、名古屋と風間八宏の化学反応を楽しみにしてるクチです。このやり方はある程度資金力がないと無理です。その意味で、風間監督も自身の理想が叶う可能性がある環境を選んでいるといえます。クラブとしてもそれに応えられる資金力がある。ほれ。

headlines.yahoo.co.jp

はっはっは、まさにビッグクラブ!!!!←

兎にも角にも彼と大森スポーツダイレクターの目さえ揃い、そこに小西社長の後ろ盾が手に入れば万々歳。基本的には同じベクトルをもって前に進める。その結果、このクラブがどうなるのか。何を生みだせるのか。純粋に見てみたい。だから私はそれを「期待」と呼びます。ただ期待ですから、その期待値を下回れば残念ながら検討の余地があるでしょう。

 現在の先頭集団の速度

これまで我々のクラブはフルマラソン中と書いてきました。では現状トップ集団はどれくらいの速度なのか。神戸戦の試合前会見で、風間監督は面白い言い回しをしていました。

それがみんなの目の錯覚なんですよ。何を見ているかの違いで、そこでボールを追っかけているからそういう風に見えるんです。例えば清水戦のシャビエルの外した場面なんて、あんなのは他のチームでは絶対に見ることができない速さだったから。そういうことが出てくるというのは何かと言えば、違っているんだけど、皆さんが慣れてしまったというか、そういう風に見てしまっているということで。実際には見えていないんですよ。だから良いんですけどね。いつも言うけど、皆さんが見ているものに対してオレが『そうだね』って言うようになったら、それはオレが終わる時だから。この質問は良いんですよ、悪くない。でも、そのくらい変化をしていることには、点を入れてみて初めて気づくことで、それを皆さんに気づかせるためにはやっぱりそれをオレたちが体現しなければいけない。なぜかって、惜しい、では気づかないから。でも決まれば『何が起こったんだ?』って帰ってからも見るじゃない?だからそういう意味ではチームは速さを増していて、上手さを増している。それを皆さんがわかるようにするためにはゴールに結びつけなければいけない。そこの段階に来ているのだと思う

出口のない言葉の迷路乙。いや意味不明っていうかぶっ飛んでます。ただこの回答を、実は神戸戦でほんとに見せてくれたと思っていて。それが和泉のゴール。

これとあとはオフサイドになった前田のゴール。ビビりました。「いやマジで真正面からこじ開けたよオイ」と。正直、想像超えてました。つまりこの二つの場面が、今の名古屋に必要な速度です。この速度なら、真正面からでもぶち破れる。まさにこのチームの指標だと知らしめました。

そうだ、柿谷曜一朗という選択肢も興味深いです。

分かりやすい指摘です。獲得出来るかはともかく、この選手をチョイスした事実は、チームの方向性を理解する上で重要な指標。つまり今のプレースピードに技術とイメージ(絵)がついてくるか(揃ってくるか)がチームのベース。同じ絵が見れるかどうか。その意味で、例えば清水戦のマテウスや吉田はパスがとにかくズレました。止める蹴るがあのテンポで共有出来ない。だからパスと人の動きが揃いません。相手がいて、対策され、それを乗り越えるために更に速度を上げる。この繰り返し。決して上手くいかなくなったから、都度メンバーを解体し補強することでリセットしているわけではない。つまり、このチームはそうやって日々スピードを追いかけ、それを共有することこそが生命線なのです。

先頭集団を狙う者達が我々に教えてくれたこと

悲惨でしたね。この点は散々ツイッター上でも悲壮感たっぷりに語ってますので、こちらでは割愛致します。ただこの試合の彼らの出来が、我々に教えてくれたものもありました。

目の速さという唯一無二の基準において、速さも違えばその目も揃っていないサブ組(試合に普段出場していないメンバー)が、格上相手に組織として全力でぶつかってくる相手と対峙すると、彼らが頼れる術は己の目(つまり技術)しかありません。つまり個が試される。風間監督にとってのカップ戦とは、つまるところそこで各々がどれだけのクオリティ、違いを発揮出来るかにかかっている。そこに期待している。非常に難しいことを要求してはいるものの、喰らいつくにはこれに応えないとこのチームからは振り落とされてしまう。

歴史に残る惨敗を大学生に喫した後、会見を通して風間監督が選手たちに問いかけたこと。そして皮肉なことに、次節対戦する湘南の曹監督も、同様に大敗を喫した天皇杯のメンバーについて殆ど同じ本質のコメントを残しています。それらは彼らが作るチームがどういったものか、強烈なメッセージとして発信されました。両者のコメントは是非頭の片隅に残しておきたいものです。まずは風間監督。

我々も昔はサッカー選手でしたし、明日食べられるかどうか、それが毎日の一個一個のプレーがすべてなので、そこまで我々で何かを変えることはできません。ただ、厳しい社会を作っていくことが我々の仕事なので、そこのところをもっとはっきりさせなければいけないのかなと、今日は思いました

続いて曹監督。

今日、プレーすることを放棄してしまった選手、プレーすることの意味を理解できなかった選手が、ピッチの中に立っていることがはっきり分かりましたし、それに対してどういうアプローチをこれからしていくかっていう事を考えなきゃいけない。(中略)やっぱりそれを悔しいと思って立ち上がっていく選手たちの奮起に期待したい。ただ全員が全員そういうわけじゃないと思うので、そのパイを増やしていくことに迫っていかなければいけないと思っています。(中略)自分たちの信じるものの中で、勝ち負けに左右されず進んでいくという方向と、やっぱり戦っていける選手をしっかりピッチに立たせるという。みんなで一緒に仲良くゴールに向かうのではなくて、競争の中で振り落とされる選手もいるという前提の中でチームを作っていかないと。仲良しクラブではないので、そういう覚悟、自分たちが向かっていく道をはっきりさせて、今後リーグ戦に臨んでいくことが大事だなと思っています

さて、後半戦突入

最後に、週末の湘南戦から始まるリーグ後半戦の指標です。

あくまで昨年ベースですが、ここから昨年と同じ勝点を積み上げれば、理論上はACL圏内です。風間解任論なんかもありましたが、この事実を過小評価してはいけません。昨年はこの時点で勝点10(死)でしたからね。後半戦に向けて、最低限のノルマは達成しているとも言えます。

そして我々の今季の目標は「ACL圏内」。昇格、残留ときて大きくジャンプアップした気もしますが、そもそも風間監督の理想は3年。長くて4〜5年と考えれば、ここで高みを目指さないと4年目に繋がらない。シーズン前に社長、風間監督とも明確に目標を打ち出したのは驚きましたが、彼らの中でもここを目指さないと意味がない、その考えの上でしょう。もちろんそのための補強、資金投資はしたという見えない圧力でもある。それに対して今季の最終着地がどうなるか。これをもって彼のやり方が正しかったかどうか判断すればよい。彼に責任を問うとすれば、この「最終結果」以外ありません。

最初は湘南戦ですか。かたや5連敗中。こちらは6戦勝ちなし。天皇杯は地獄。貴方達とはつくづくご縁がありそうだ。まあなんだかご縁がある理由も、風間監督と曹監督の言葉を聞いていれば分かる気もしてきますが。さて、終わります。

最後は湘南といえばこのお方の言葉で締めましょう。

「風間サッカー」という名の呪縛

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前田しか期待できる選手がいない。

先日の清水戦のあと、SNS上ではこんな声が散見されました。何をチンタラ回してるのか、あれはただボールを回しているだけ、ゴールに向かっていないと。

スコア自体は試合終了直前の(悲)劇的ゴールでの敗戦。僅差のように映る試合も、実際は完敗に近い敗戦といえるでしょう。これで直近の試合は引き分けだった大分戦を除くと相手の戦略通り三連敗。なす術なくやられたという意味でいえば、試合後のブーイングも仕方ない。それだけ今年のチームへの期待値が高い証拠です。まだまだ上から下まで団子状態のリーグに上位も下位も存在しないとはいえ、戦前の予想では下位扱いだった相手との連戦。ここでことごとく勝点を取りこぼした現実は重いものであると感じます。

さて、何故勝てないのでしょうか。

名古屋の土俵にはあがらない相手

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端的にいえば、相手が名古屋をリスペクトし、しっかり名古屋仕様で対策しているからでしょう。ボールを持つことには固執しません。むしろ持たれることを前提に試合を組み立てる。守備でいえば、自身のゴール前、具体的にいえばペナ幅に最終ラインの横幅を圧縮、中央のスペースを徹底的に消しにかかる。この点はどのチームも同じです。

気になったのは今回の清水戦、後半14分に六平を投入した以降の形です。前述の通り4バックはペナ幅を意識。アンカーを「バイタルエリアの番人」として配置し、名古屋のビルドアップの受け手となる宮原、ヨネ、ジョアン、吉田に対し同数の4枚を二列目に配置。トップにはボールが収まる長身フォワードを置く。いわゆる4-1-4-1のシステム。これ、個々の役割も含め仙台も似た形をとり名古屋に勝利しています。おそらく「最も名古屋にハマる形」です。再現性もある。特に二列目の4人は名古屋のビルドアップに対しハードワークしつつ、攻撃になれば2列目から飛び出していくのがタスクです。これに名古屋は滅法弱い。明確に守備の基準点を持たれた上でビルドアップにタイトに来られるのも嫌だし、奪われれば常に矢印が名古屋ゴールに向く相手の勢いに気圧されてしまう。

確かに今回の前半の出来も満足出来るものではなかったものの、では清水がどうだったかといえば彼らの決定機も単発がほとんどだった。目も当てられない状況になったのはやはり後半のシステム変更後です。気づけば名古屋のラインも深くなりました。最終ラインの状況をみるに、おそらくゆっくり攻めて欲しい場面でも前線はゴールが獲りたいから攻め急ぐ。悪循環ですよね。結果としてチームは間延びし、前後が分断した。「これで何が『枠』だ」と言いたくなるようなフットボール。はっきり言って、面白くなかった。

効き目がなかったハーフタイムの言葉

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本当に今日は、どうしたんだというくらい全員のパフォーマンスが良くなかった、今シーズンはじめて見た光景でした。これは、何かをするというより元に戻るだけなので、忘れて次に向かえばいいと思います

普段ならハーフタイムで変わるのですが、今日は変わらなかった

これが試合後の風間監督のコメントです。おそらくこのような感想がでたのは就任後初でしょう。以前にも指摘しましたが、彼の試合は前半と後半で明確に意味合いを変えたコーディネートで成り立っています。その意味で前後半にかけてチームが劇的に改善するのは必然であり、今回もそれを期待したのだと思います。ただ期待ほどチームは変わらなかった。後半早々は兆しがありましたが、それも六平投入でかき消された印象です。それにしてもこの言葉は重いですね。「高い壁にぶち当たったな」そう感じました。つまり言って簡単に変わるものではなかった、ということです。

振り返れば、風間監督就任後の名古屋はまだまだ欠陥だらけのチームでした。ビルドアップでミスが起きるのは日常茶飯事。自爆ですよね。常に問題は自分たちにあって、試合中には気づきを与えれば変わることも出来た。それだけでは解決できない問題は補強する(人を変えてしまう)ことで解消した。言ってしまえばそのレベルのチームでした。

ただ今年は違います。2年を経て、ある程度高いレベルの選手が各ポジションに揃った。だからこそ小西社長も風間監督も明確に「トップスリーを目指す」と宣言できたわけです。「枠」というワードを発信することで、自分たちの土俵を定義できた。止める蹴る、彼らを繋ぐ絶対的な約束事を必死に追求した2年間と異なり、今年はそれをもってどんなフットボールをピッチで表現するか。そのレベルでやっているわけです。だからこそ相手も名古屋をリスペクトし、徹底的に名古屋が嫌がるシナリオを描いてくる。

変わらなかったという事実は、つまり簡単に変えられるものではなかったということであり、これを打破するのはこのチームにおいて、最大のターニングポイントかもしれません。

風間八宏が作るフットボールの本質

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一番の問題点はどこにあるのでしょうか。ジョーはしきりに「シンプルでいいんだ」と口にしていました。「自分たちで状況を難しくしている」と言い換えることも可能でしょう。常に同じ配置でピッチに立ち、ボールは足もとから足もとに繋がっていく。相手を背負い、味方同士がお互いスペースを消しあいながら相手ブロックに吸収されていく。とても真面目に、「我々のフットボールはこうなんだ」「このルールのもとプレーしなければいけない」そう主張するかのように。

でも勘違いしていないでしょうか。我々が大切にするべきポイントは「自分たちの枠でフットボールがやれているか」それだけです。それさえピッチ上に作れていれば、あとは何をやったっていい、どんな絵を描いてもいいというのが風間八宏フットボールだったのではないか。

例えばミドルシュートを意識的に多く打つのもいいでしょう。中の人口密度が高いなら、横に広げる仕掛けがあってもいいはず。極論ジョー目掛けてセンタリングを上げ続ければ、もしかしたら相手はサイドの守備が気になったかもしれない。また前線の4人、あれほど常に相手の最終ラインと映し鏡のように貼りつく必要があったのか。ときにはサイドに張るのもいいでしょう。執拗に裏をつくのもいいでしょう。相手のアンカー脇で受ける動きがあったっていい。ジョーがプレー出来るスペースを作る気持ちはあったのか。ジョーに異なる役割も押し付けてはいなかったか。

どうすれば相手が嫌がるか、矢印を裏返せるか。つまり逆が取れるか。それが風間八宏の、いや我々のフットボールでしょう。ロングボールが駄目など言っていない。我々はボールポゼッションのチームなどと高らかに宣言した覚えもない。

相手が引いてカウンターを狙っている場合、最も怖いのは「ボールを失うこと」です。だからどの選手も近くの選手とのパス交換に終始する。それこそが最も正確だからです。結果的に相手ブロック前でボールが動くだけで、肝心の相手を動かせない。チャレンジすることが出来ない。いつしか相手を動かすことが目的なのに、ミスをしないこと、隣の味方に正確に繋ぐことが目的になってしまう。「自分たちは止める蹴るのチームだから。その正確性が自分たちの追求するところだから」。いや、我々が目指している先は、圧倒的な正確性をもって相手を支配することでは。相手の逆をとることが目的で、止める蹴るはそのための手段ではないのか。中央から切り崩さないといけない縛りでもあったんでしょうか。

ここが一番の問題点であると感じます。

つまり我々のフットボールのベースである「中央」「スペース」を消されると、他の手立てを失ってしまう。教わったもので上手くいかないと、その技術が手段(相手を操るためのもの)から目的(ボールを奪われないためのもの)に変わってしまう。大胆さが影を潜め、むしろ風間八宏の教えが選手の発想を縛りつける現象が起きてしまう。相手に奪われないことを優先し、狭いところから、相手の矢印に真っ向から突撃する形で勝負を挑んでしまう。結果として奪われ、カウンターを受け、自信を失ってしまう。それぞれの選手が持つ矢印の方向がバラバラになってしまう。これは、とても深い深い問題であると考えます。一筋縄ではいきません。

勝手に作り上げた固定観念など打ち破れ

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だからこそまずは原点に立ち返るべきです。「自分たちの枠」を意識し、必要なことをやらなければいけません。その意味でいえば、前述の通り前線の選手の活動量が乏しい。前に張りつくばかりで、相手を動かそうというアイデアを持っているか。しっかり繋ぎに顔を出せているか。一方で後方の面々。相手のロングボールや裏に抜けられることを恐れてラインが深くなっていないか。これはどちらが良い悪いではありません。お互いがチームのコンセプトである枠をもう一度意識し、そのために必要な手段をしっかり擦り合わせていく必要があるでしょう。その上で風間監督が求めるものをもう一度選手たちが噛み砕く必要があります。

この試合後の最初の練習、選手たちに青空ミーティングをさせたのは、なんとも風間監督らしいですね。簡単に形は提示しない。徹底的に選手に問いかけ、何が狂ってしまったのか考えさせたいのではないか。この点についても、おそらく賛否両論あるでしょう。そこでも選手に委ねるのかと(もちろんそれ以外で風間監督から指摘は入っているでしょうが)。

ただ一つだけ言えるのは、彼のチーム作りにおいてこのアプローチが正攻法です。安易に形を提示した瞬間、それは彼が「ブレた」という証明になってしまう。本質から目を逸らし、例えば一番の改善点が守備の構築にあると言葉にした瞬間、もはや彼が監督である必要性は失われます。それは彼のフットボールにおいては、あくまで副次的な域をでません。

そもそも風間監督でなくていいじゃないか。そんな意見もあるでしょう。理想のフットボールはこれではない。そんなマネジメントは求めていない。それも一つの意見として尊重すべきです。ただ同時に忘れてならないこともある。それは私たちのクラブが彼を望んだということ。名古屋というクラブと、彼の存在に惹かれてこの地を選んだ多くの選手がいるということ。今後50年、100年と続くであろうクラブの歴史において、今のチームがどんな成果を挙げ、このクラブに何を残せるのか。風間八宏に何が作れるのか。私はそれが見てみたい。我々のクラブが信じた監督と選手がファミリーに何を与えられるのか、見せて欲しい。

ここから我々はどう進化するべきか

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今回の清水戦、誰もが前田直輝に希望を抱いたのは、彼がミスを恐れていなかったからではないでしょうか。表現を変えれば、彼だけが固定観念のようなものに捉われていなかった。たしかにカットイン一辺倒。ただ彼はこの試合、ひたすらにゴールを目指した。そのために目の前の相手をぶち抜こうとした。彼は風間八宏フットボールで陥りがちな、「守ってきた相手に対しミスを恐れ無難なプレーを選択する」ことをしませんでした。彼だけが唯一、明らかな異物だった。それがあの同点弾に繋がりました。あのゴールの後、風間監督は怒っていましたか?「ロングボールのこぼれ球から個人技で決めるゴールなど俺のフットボールではない」と。否、誰よりもそれを喜んでいた。それが紛れもない事実です。

ベンチ外だった選手を語っても仕方ないですが、例えば神出鬼没な金井をサイドに置いても面白かったでしょう。彼は相手が嫌がることを出来る選手。シャビエルの交代枠が榎本だったら。吉田と丸山のライン間が狙われているなら、立ち位置を3-4-3に変え、最初からラインを埋める方法もあります。前からの圧力が足りないなら、リベロに千葉を置いてプレッシング時はアンカーとして前に出してもいい。その分ジョアンやヨネはより前を意識出来るでしょう。あとそうだ、型にはまらないという意味でいえば、我々にはエドゥアルドネットという存在もいます。もしかしたらまた補強で解決するのかもしれない。この2年間であった「もっとシンプルにやろうよ」とは次元が違います。あのときは、そもそも土台がないからもっと楽をしろという指摘だった。ただ今回は次のフェーズです。J1クラスのチームが対策を取った時、我々に何が出来るか。もしかしたらまだピースが足りないのかもしれません。答えは分からない。分かったら、面白くない。

「結局個に帰結するのか」いいじゃないですか。だって風間監督のフットボールは「個人が主役」なのでは?とことんやればいい。今のフットボールを志向する限り、この壁は必ず乗り越えないといけません。おそらくここが最大の壁です。

ボールを持って自分たちからアクションを起こそうとするチームにとって、いつかはぶち当たる壁。そして風間八宏が提唱するフットボールの本質にもう一度向き合う必要があるのではないか。選手はロボットではなく個性の塊です。それぞれの個性って何なんでしょうか。どうしたら、それが個性として際立ちますか。試されているのは選手達です。

チームを後押ししましょう。選手たちを、信じましょう。