みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

飽くなき理想の追求と、勝敗への執着と

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2019年5月17日。場所は等々力陸上競技場

あの壮絶な試合を観た多くの人は、試合後きっとこう思ったでしょう。「今年のJリーグを盛り上げるのは川崎、そして名古屋だ」と。我々だって信じて疑わなかった、あの時は。

川崎戦含め10戦勝ちなし。これが我々名古屋に待っていた現実。川崎戦に至るまで7勝2分3敗で快走していたことを思えば、この現実を予想出来た人がどれだけいたことか。あの試合以降、他チームの名古屋を見る目は間違いなく変わりました。ほぼ全てのチームが、自陣のスペースを埋め、前掛かりになる名古屋の陣地をカウンターで狙い始めた。それになす術なくやられ続けた様は、我々ファミリーを大きく揺るがすものでした。そして遂に報じられた風間八宏解任報道。

思えば昨シーズンも同じように勝てない日々が続きました。前半戦を終えて断トツの最下位。あのときのチーム状態もそれはそれは酷いものでしたが、とはいえそもそもチームとして未熟だったことも確か。まだまだ向上の余地があるはずだと、それでも前向きになれたのも正直なところです。では今年がどうだったかと言えば、ある程度戦力も揃い、開幕から怒涛の快進撃。風間体制3年目にして遂に覚醒の時を迎えたのだと我々は信じて疑わなかった。だからこそ、この大失速は予想外で、堪えるものがあったのは事実です。

今思えば何も見えていなかったのかもしれませんね。我々は未熟だったし、そもそも風間八宏という監督のことも、自分達の置かれた現状も、よく理解していなかった。

見えてきた「監督 風間八宏」の本質

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このチームの一番の問題点、どんなときに起きると思いますか。それは「相手に対策されたとき」です。悲しいかなこのチームは戦い方に変化がつけられない。ただしこれは多分に風間八宏のチーム作りが及ぼした影響でもあります。

改めて彼が絶対に譲らないものを挙げてみましょう。まず個々の絶対的な技術。次にチームで一番速い選手に残りの選手達が「目を揃える」こと。最後に常に自分たちが主体となり、相手陣地を支配すること。つまるところこの三つ。それぞれの選手のスケールを最大化しつつ、各々がこのチームのコンセプトを理解した上で繋がることが出来れば、やっていて楽しいと感じられるフットボールが出来るはず。これが彼にとっての「プロでの戦い方」です。よって彼は選手たちを必要以上には縛りません。具体的に言えば、どれだけ相手に対策されても、それで選手たちが苦しんでも、対抗する策を授けない。言ったことをやらせる、その言葉は彼の辞書にはありません。手助けするとしたら、せいぜい選手達の立ち位置を変え、目に見える風景に変化を与えることくらいです。

そもそも何故、技術をこれほどまでに重視するのか考えてみましょう。おそらくですが、彼は日本のフットボールに対して、特に個々が持つ技術、いわゆる個人戦術に大きな不満があるはずです。小手先の戦術を与え勝ったところで、所詮そんなものは井の中の蛙なのだと。欧州の真似事をしたところで、いざ世界に出れば手も足もでない。海外のリーグに身を置けば、日本とは別の競技だと驚嘆する。ポジショナルプレー?いや、まずは技術。立ち位置とは、その技術があって初めて効くのだと。悲しいかな、先進的なチームが結果を出しているかといえば、決してそうでもない。結局は守って守りきれるチームがいつも優位なのがこのJリーグです。

彼はおそらくその点に大きな危惧を抱いています。つまり「チーム戦術を遂行する上での必要最低限の技術、強度、戦術理解(思考)が、そもそもこの国には全く足りていない」と。どれだけ高級なブランド品で着飾っても、それを着る人間そのものに魅力がなければ何の価値もないように、彼もフットボールの世界において本質にとことん拘る。「あくまでも個人の集合体こそがチームなのだ」と。

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では何故ピッチで選手達が楽しんでやる必要があるのか。その想いを彼の中で絶対的なものとした原体験。それは力をセーブし、タイトルを獲得してもピッチ上での喜びを得られなかった広島での現役時代。その苦い記憶は、彼が指導者として初めてチームを率いた際に確信に変わります。相手を想定しパターンを仕込んだ結果、簡単に相手を凌駕する選手達を見て彼はこう思った。「これでは選手は成長しない」と。

その結果行き着いた結論は、「出力の枠を設けず全員が限界を作らないシステム」。これこそがなにより選手のスケールを最大化し、且つ楽しみ、喜びを与えることになると。それが「目の速い選手に基準を置く」ことに繋がり、必然的にプロとしての競争社会、またチームとして成長が止まらない構造となった。速い選手はより速さを追求し、それ以外の選手達はそれに遅れまいと努力する。彼にとって自身が与えた戦術でチームが勝つことには大きな価値がないのでしょう。それは本質的には選手の喜びに繋がらない。限界までプレー出来る環境、その結果、己の成長を実感できる事こそが、喜びであり楽しみに繋がるのだと。彼の口癖、「主役は選手達です」はここから生まれた。根本的に、プロの世界におけるフットボールに対する発想が我々とは全く違うのです。

その結果、今の名古屋がどうなったか。起こる問題に対して選手達が対応出来なければ無残に敗れ去るしかなかった。何故なら想定外の事が起きた際、選手達がすがれるものは「自分自身」しかなかったからです。また今回勝てなかった日々にしても、風間八宏からすれば「そもそもやるべき(目を揃える)ことがまだまだ出来ていないから」これこそが本質的な問題だと捉えているでしょう。あらゆる手を駆使して目の前の試合を獲りに行く、風間八宏は残念ながらそういった監督ではありません。我々はこの事実を勝てなかった10試合で意識的にも無意識的にも感じ、「こんな人間を監督と言ってはいけない」「無責任だ」「早く辞めろ」こう罵ったわけです。監督ではなく、所詮は指導者だと。そしてこれは決して否定出来るものでもなかった。彼にとってプロの世界とは、ただ勝つだけのものではなく、そこに「楽しさ、喜び」がないといけなかった。我々は「プロとはどうあるべきか、そこに何を望むのか」この迷路に彷徨い込んだのです。

ただしそんな彼と相通ずる思考を持った、彼との出会いによって己の歩む道を確信した選手が存在します。それが次に対戦する彼の古巣、川崎フロンターレバンディエラです。

確信、変化、迷い。中村憲剛が歩んだ7年間

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中村憲剛。彼にとって、5年間続いた風間八宏との日々、また彼と別れてからの鬼木達との2年間。この7年間こそが彼のサッカー観を決定づける重要な時期だったのかもしれません。彼の言葉の数々を見聞きすると、現在の川崎、また中村憲剛自身が一体何によって成り立っているのか。その言葉の端々にそれが宿っているように感じます。

首位決戦となった第19節FC東京戦。この試合は、現在の彼らが何を最も重要視しているか、よく伝わるゲームでした。

「いかに相手からボールを奪うか」

これが現在の彼らの最大のキーワードです。つまりこの時点で、もはや風間八宏が提唱した「いかに相手陣地にボールを運ぶか」とはそもそものコンセプトが異なることに気づきます。この変遷を見ていくと、一つの仮説を立てることも可能でしょう。振り返れば、結局風間八宏のもとでは5年間で一度もタイトルが獲れなかった。ではそこに何が不足していたか。「目先の結果に執着する姿勢」が足りなかった。具体的に言えば「相手を対策し、それに合わせる姿勢」が足りなかったとも言えます。そこに着目した鬼木達について行った結果が二連覇という実績。だからこそ、タイトルにこだわり続けた中村からすれば、その結果とともにきっとそこへの面白さ、やりがいを知ったはずです。つまりいかに相手に勝つか、ある種ゲームの攻略法のように、目の前の試合(ゲーム)に対する相手との駆け引きの妙、この面白さに気づいた。だからこそ彼らの意識は変わりました。まずやるべきことは、相手を研究し、「そのボールを奪うこと」だと。

ただし一方で彼が変わらなかったものも存在します。

この試合、圧倒的なカウンターをもつ東京に対し、いかに押し込むか、どのタイミングで仕掛けるか、どうすればカウンターを喰らわないか。これらをボランチの下田や田中に指示し続けたのは誰か。他でもない、ピッチ上にいる中村です。

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また中断期間を利用し開催されたチェルシーとの一戦。彼が痛感した世界との差。それは彼が新たに楽しさを見出した奪う術ではなく、風間八宏に毎日教え込まれた術でした。

止める蹴るは絶対だなと改めて

彼が挙げたのは三つ。まずは止める蹴る、次にパススピード、最後にポジショニング。大事なのはこの順序です。止まるから相手のプレッシャーを感じない。早く届けるから相手は追いつけない。しっかり止めて蹴れるから、ポジショニングに無駄がなく立てる。

もっと緻密なパスワークを、世界より止める蹴るで勝らないと話にならない

確かにこの2年間、彼が勝つために必要としたのは鬼木達が提示した「相手を研究しボールを奪うこと」だったのでしょう。ただ仮に彼がどれだけ否定しようとも、時間が経てば経つほど、また対峙する相手が大きくなればなるほど、彼が自覚するのは勝てなかった5年間で磨き続けたあの日々だったのではないか。彼は気づいていたはずです。目が少しずつ揃わなくなってきたこと、その速さに陰りが見えてきたことに。

自主性と絶え間ない思考が生む「臨機応変

さて、話を冒頭に戻しましょう。今回、名古屋の前に立ちはだかった大きな壁。「想定外の事態に陥った際、自分達でどう臨機応変に対応するか」。これは決して名古屋だけの問題とも言えません。用意していないと出来ない、用意したもの以上のことが起こると対応出来ない。これこそが現在の日本サッカー界、いや、これまでの日本サッカー界にずっと横たわる最大の問題ではないでしょうか。

先日発売されたフットボール批評で、イビツァ・オシムがこんなことを言っていました。

日本の選手にはもう少し視野を広げる教育が必要だ。いろんなことに興味を持つこと。自分で思考する習慣をつけること。監督が事前に教えてくれないことを解決することが日本の選手にとって最も困難なことなのだ。そして監督もピッチの上で起こるすべてのことを予測して教えることはできない。だから、自分で筋道を立てて考えるという教育をすること

試合前に周到に準備したとしても、試合では何十、何百通りのイレギュラーなシチュエーションが起きます。思い通りに試合が運ばない、相手と想定以上に力の差があった。そんなとき問われるのは、個々の思考力、そしてそれを繋げるコミュニケーション力に他なりません。

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先日、ブラジルのインタビューにジョーが応えました。

grapo.net

私は、日本人のプレースタイルが速いにもかかわらず、ハイラインを設定して試合に臨み、あまりにも多くの失点をしているので、あまりスペースを与えてはならないと何人かのチームメイトに言ったが、彼らはこのことを監督に言うことに対してはあまり乗り気ではありませんでした。監督の指示に従うこと、監督が指示したこと以外は行わない。それがここの文化なのでしょうね。私は感じていること、思っていることを監督と話してみると、「わかった、試してみるよ」との返答を得ることができたが、いざ次の試合を迎えると何も変わっておらず、ハイラインのままでした。変わらないのが日本らしさ、日本のやり方なんだなと

風間八宏フットボールを実現する上でこれこそが最大の障壁です。何故ならこの状況もまた、選手の力量を伸ばすうえで避けては通れない壁だと彼自身考え、あえてそう振る舞っている可能性があるからです。案の定、川崎戦後8試合目にしてやっと重い腰を上げ始めた選手たちを、彼は否定することなくむしろ歓迎しました。時間帯によっては後方に引く、そんな彼のコンセプトとは真逆の結果だったとしても、彼は「一歩前進した」こう表現することで選手を讃えた。

一番大事なのは彼らが自分の意思でやろうとすること。試合の90分というのは彼らのものなので(中略)それは自分たちでやる、状況というのはその中で起きることだから。それを自分たちで判断していく。そして強いチームになっていくということです

migiright8.hatenablog.com

ではその点、川崎はどうでしょうか。ここでも存在感を発揮するのはやはり中村憲剛です。第20節の大分戦。大分のビルドアップを前から潰そうとゲームプランを立てた川崎は、前半20分頃までそれが全くハマらない感覚を覚えます。そこでどうしたか。その後の給水タイムで、彼を中心として選手たち自身で相談し、自主的に戦い方を変化させました。前から行くのはやめようと。ボランチにも強く要求したそうです。行けないなら止めろ、それがお前達の役割だと。

自分達で思考し、自分達の意思を持って臨機応変に戦う。この最大のハードルに対し、監督の立場から選手にアプローチする風間八宏。対して選手でありながら、監督のようなアプローチで仲間を導いていく中村憲剛

出会ったからこそすれ違った「喜び」

もしかすると中村憲剛風間八宏以上の「監督」になるのかもしれません。彼が本質的に持っていた能力を最大限引き出し、その歩んできた道のりが正しいものだと確信させたのは間違いなく風間八宏だったはずです。そして目を揃える必要性、そこから生まれるセッションの面白さも体感した。一方ここ数年で彼は目の前の試合にいかに勝つか、このアプローチにも喜びを見出した。風間八宏が去った後も、川崎がチームとしてそのクオリティを極端に落とさず済んだのは中村憲剛、彼の存在が常にそこに在り続けたからでしょう。彼がピッチ上で止める蹴るの重要性を説き、目を揃える努力を惜しまず、いかに相手を崩すか絶えず考え、それを発信し続けているからこそ、その文化が未だ脈々とそこに生き続けている。だからこそ鬼木達は彼らのモチベーターとなり、勝つための「監督らしい振る舞い」をするだけで良かった。ピッチに彼と目が揃う人材さえいれば、そこに風間八宏がいなくとも築き上げた技術が消えることはなかったからです。

そう、風間八宏も、そして中村憲剛もお互いに絶対に譲れない、彼らの血肉となっている共通した思想が存在します。

「止める蹴るを突き詰めた先に、世界がある」

そんな彼らは監督、そして選手というお互いの立場を持って半ば運命的な出会いを果たした。ただ出会ったからこそ、唯一決定的にすれ違ってしまった部分があります。それは「優勝という結果と引き換えに自身の楽しさを犠牲にした後悔があるからこそ、力をセーブするサッカーだけはさせたくない」と中村に接した風間八宏の想いと、「楽しさはあったのに、何年経っても優勝という結果だけが手に出来なかった」中村の想いです。結果的にこの皮肉な結末が、強烈なインパクトを持って彼らのサッカー観を似て非なるものとした。二人の間にある「ピッチ上の楽しさ」は、ここで分裂した。

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「技術だけは完璧がない」これは風間八宏の言葉です。つまりそこには常に伸びしろが存在し、それを最も大切な要素と位置づければ、チームは常にアップデート出来る。これが彼の信条のはずです。だからこそ、そんな彼が去りそこから舵をきった川崎は今、「自分達は進化を遂げているのか」この疑念と直面しているはずです。ボールを奪るチームと化し、彼らは二連覇を達成した。しかし3年目、得たことの代わりに、あれほど大切にしていた絶対的な指標が薄れつつあることに気づき始めた。ピッチに立つ選手が入れ替わる度に、それは少なくない違和感となって彼らに押し寄せています。つまり彼らが戦っているのは、「二連覇をして尚、チームとして進化、成長出来るか」この三連覇への最大の壁です。それは鬼木達が過去の遺産に頼らずとも、異なるスパイスでチームをブラッシュアップ出来るか。その試練でもある。

では彼らの自信を鼻っぱしからへし折ることが出来るのは。それは彼らのフィールドで真っ向から叩きのめすことが出来るチームだけです。おそらくその相手は我々である、あの日の等々力での姿はそう信じさせるものでした。

何があろうと貫く。だからこそ伴わない結果

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あれから3ヶ月。「土俵際寸前」、これが今の我々の姿です。

浦和戦でも試合のクロージングに失敗し、またもこのトンネル脱出から失敗しました。そのマネジメントですら、風間八宏は選手達の自主性に委ねた。また丸山、米本という中心選手を怪我で欠こうとも、彼は何一つ変わりませんでした。このメンバーをどう料理するかではなく、今のチームの前提でもう一度目を揃える道を選んだ。その差は第11節、第21節の浦和戦を比較すれば一目瞭然です。前線の4人でパスコースをきり、奪取力のあるボランチ2枚でボールを狩り取る。前半戦の副産物ともいえたあのプレッシングはなりを潜め、「どうボールを運び、どれだけ相手陣地を占有出来るか」この最難度のフットボールと改めて向き合うことになった。守備の問題、いや、このチームにおいてそれは所詮副次的な域を出ません。出来ていないから起きている、それだけのことなのです。例えそれが多くの人にとって非常識なことでも。

確かに彼はブレません。それでまた選手は学びがあるのかもしれない。ただ10戦勝ちなしの今、こんな気持ちにもなる。

これ以上それで結果が出なければ、プロの世界では本末転倒ではないかと。選手に期待し続けては裏切られ、その結果として自身の進退が決まる。少なくとも彼がやりたいことを必死で理解し、応援してきた我々からすれば、もしそれで彼が去ることになってしまえばこれほど虚しいこともない。

こんな状況でも彼のサッカー観、問題意識、見えているもの。それを否定する気はありません。無能と散々叩かれても、本当は彼が一番分かっているはずであると。ただ同時に見誤っていた部分もある。それは我々の想像など遥かに超えるほどに、彼の「貫く」その信念が、あまりに頑なであること。プロなんだから勝たなくては、このままではクビが飛ぶのでは。そんな危惧などアホらしくなるほどに。彼にとってピッチ上の主役、そして90分という時間は、彼のためではなく、まさしく選手達のためにあるものだった。だからこそ、彼から発せられる言葉はいつも選手に向けられました。

そしてもう一つ。チームとして求められる基準、コンセプトに対する理解力。これさえクリア出来れば、彼ほど自由を許容する監督もいないでしょう。ただし選手達がその自由を謳歌できない。皮肉にもその自由こそ苦悩になってしまう。本来非常識ともいえる「戦術で縛りつけない」行為の先に、我々は決してそれが全て正しくなくとも、何か新たな常識、見たことのない景色を生んで欲しいと期待した。ただこのままではその期待も、「結局は具体的な戦術がそこになければ話にならない」そんな慣れ親しんだ結論で幕を閉じてしまうかもしれない。自己表現が苦手で、言われたことしか出来ない。いかに個と戦術を両立するか、そんな日本サッカーに対する本質的な問いもこのままおざなりになる。個は磨けてもチームとしては形にすらならない。話にならなかったと。

理想の追求の先に、未来はあるか

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風間八宏が作り出すフットボールは、勝負の世界では決して全能ではありません。弱者が強者に勝つ、そんなロマンに溢れたものでもない。だからこそ理屈ではなく、勝つためには相手を力で上回るしかない。そして証明すべきです。「速いサッカーがしたい」この想いとともに名古屋を選び、2年半で積み上げてきたそのフットボールで勝てることを。

これだけ勝利から遠のいても、彼がブレなかったことで少しずつチームは変化しています。前半戦の時ですら相手の対策でバグが起こるとなす術がなかった彼らが、例え主力が抜けベースは変わろうとも、不器用ながらにも90分の戦い方をデザインし始めている。それは側から見れば鼻で笑ってしまうようなことかもしれない。ただ攻められているだけじゃないかと。いやそれでいいのです。思い通りにいかないとき、我々に何が出来るか。それが最大の課題だったんですから。このチームにとっては、選手達が自力で変わろうとしている確かな一歩です。何も積み上げがないわけではない。

我々の冒険はいつまで続くでしょうか。「風間八宏が信じ貫いてきたものなど、所詮はアマチュア仕様だった」。仮にこの結論でいつか幕を閉じることがあれば、それは彼自身にとっても、今後プロの世界でこの道を貫くのは難しくなることを意味します。今の名古屋を変えられなければ、一体どこを変えられるというのか。彼自身もまた、土俵際にいる。

姿を変えた古巣を倒すことで己の道が正しいと証明するか。それとも彼らに敗れ、こんな道は淡い夢だったと最も悲惨な形で息の根を止められるか。もはや今望むのは、あの日の等々力で魅せたスペクタクルなどではない。

絶対に負けたくない、そんな意地と意地のぶつかり合い。