みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

あの日の名古屋。そして横浜と、川崎

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横浜が先制した試合は18勝1分2敗。

先日の川崎対横浜戦を中継したNHKのテロップに、こんなデータが表示されていました。

なるほどなあと、唸りました。

先制点を獲る。これは即ち、相手が前に出ざるを得ないことを意味します。つまり相手がボールを奪いに来る状況さえ出来上がれば、とりわけビルドアップから(後方から)ボールを丁寧に繋ぐことで、前線に向けて時間とスペースの貯金を作っていくチームにとっては好都合である、と。

これは裏を返せば、その前線に時間とスペースを与えない対策を施せば、相手にとっては勝機を見出せるチャンスです。その意味でも、アタッキングフットボールを志向するチームにとって、先制点を奪うことは、一種の至上命題とも言えます。先制点を許し、相手が引きこもってしまえば、それはたちまち相手の土俵に様変わりしてしまうことでしょう。

さて、そこで一つの疑問を抱きます。何故、同じアタッキングフットボールでも、以前の名古屋は先制点を獲ることにあれほど苦労し、一方で横浜は先制点が奪えているのか。

ここに、同じアタッキングフットボールでも両者のスタイルの違いが顕著に影響しています。

攻略すべきは“人”か“場所”か

それは“人”を攻略するか、“場所”を攻略するかの違いです。

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当時の名古屋の攻撃力は凄まじいものでした。なにかと賛否両論呼ぶ“風間理論”ですが、相手がボールを奪いに来る前提さえあれば、どのチームにも負けない破壊力を兼ね備えていました。それは例えば前半戦の名古屋や、また現在のユースが証明するように。いま首位を争う横浜にしろ川崎にしろ、名古屋は彼らと互角の戦いを演じています。また、今季リーグの話題をさらった大分の片野坂監督、ルヴァン杯でタイトルまであと一歩に迫った札幌のミシャ監督は、試合後に名古屋の力を認めるほど、そのインパクトは強烈なものでした。

ただし、“人”を攻略する発想は、かなり特殊なものです。

相手の立場からすると、ボールを奪いに行く、つまり自らアクションを起こしても、名古屋の技術とそのスピードを上回らない限りボールは奪えません。むしろ自ら動くことで、名古屋に“相手の逆を取る”きっかけを与える可能性すらある。

ここで生まれたのが、“名古屋対策”です。

理論は至ってシンプルです。動くことにリスクがある。であれば動かず、ゴール前の密度さえ保てばいい。動くこと、スペースを少しでも与えることは、対名古屋戦では致命的です。そのため多くの相手がシーズン中盤以降、自陣ゴール前に“バスを置く”ことを選びました。ここでもポイントとなるのは、名古屋が場所ではなく、人に狙いを定めていることです。つまり相手からすれば、ゴールに直結する自陣のペナ幅さえ密度濃く守ってしまえば、ゴールを奪いたい名古屋は黙っていてもそこにいる“人”を崩しにかかるでしょう。

“動かない”からこそ“動く”

“人”に狙いを定める理論を、更に深掘りしていきます。

ではゴール前に張りつき動かない相手に対し、“人”を攻略したい名古屋はその相手をどう動かそうとするでしょうか。

自分たちが活発に動く(ポジションチェンジする)ことで崩しにかかります。ここが横浜との大きな違いです。場所で(立ち位置で)相手を動かそうとする横浜に対し、人を攻略したい名古屋は必然的にその密集に向かい、自らがアクションを起こすことで相手を攻略する選択を取るのです。

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その一方で、“配置”での優位性を重視する横浜は、自分達だけにフォーカスを当てることはありません。配置で優位性を得るためには、当然ながら相手との噛み合わせが重要な要素になります。人に狙いを定める分、結果としてピッチを狭く、密集して活用する名古屋に対し、彼らはピッチを広く、一定の距離感を保ったまま活用する。一点突破の名古屋ほどの破壊力はないまでも、彼らの場合は両ワイドにも選手を配置しています。相手からすれば一点突破でないが故に、ピッチを広く監視する必要に迫られるでしょう。

つまり同じボール保持、“止める蹴る”でも、名古屋はそれを人を攻略する為の味方同士の合図、コンビネーションのスピードを上げるために活用し、横浜はその配置に意味を持たせる為、速く的確にパスを届けるために活用する。それが時間とスペースを生み出すからです。だから名古屋の主語はいつも自分達であり、横浜は自分達と相手になるわけです。

名古屋にとっては“非再現性”こそが最大の魅力であり、横浜にとってはその高い再現性こそが最大の強みです。

近年、国内でもボールを出した選手は、一定の距離感を保つことが良しとされています。ただここで重要なのは、何故距離感を保つ必要があるのか、です。名古屋の場合、彼らが攻略したかったのは“人”なわけですから、その理論から考えれば「ボールを出したら寄れ」この発想は正しい。どちらが良い悪いではなく、あくまで目的の違いなのです。

また、その文脈でいえば、止める蹴るの活用法の違いに加え、“外す”の概念の違いにも注目する必要があります。人を攻略するために、名古屋は狭いエリアでもボールを受けられるよう“外す”ことが求められます。一方で横浜は、配置で相手を攻略するために相手が“外れている”ことが重要になる。“外す”ためには技術が必要であるし、“外れている”ためにはチームとしての戦術理解力、そして相手を個ではなく盤面で見る視点が必要になります。

このように名古屋が目指した“止める蹴る”の技術、その目的は、常識の範疇に収まる単純な理論ではありませんでした。

動くことで生じる、ミスが許されない状況

ただしこの名古屋の発想には大きな弱点が潜んでいます。

守備を顧みず、攻守においてあくまで相手を崩すことを大前提としたその理論自体が、彼らの最大の足枷です。

ポイントは“ポジションバランス”。

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相手の守備ブロックを崩せずボールを失うと、待っているのは相手のカウンターです。相手を崩すために自らポジションバランスを崩す名古屋は、相手からすればカウンターの格好の餌食。その守備ブロックを崩せず奪われたら最後です。ハイプレスが出来る状況はそこには存在しません。

そして“ピッチを狭く活用する”弊害はもう一つ存在します。

攻守において相手を崩す前提で設計されたその理論は、裏を返せば、崩せず相手の狙い通りボールを奪われると、その先にカウンターの広大なスペースを自ら与えることに繋がります。攻守においてこの広いピッチをいかに理詰めで活用するか、そんな横浜の発想とはまさに対極です。これだけのハイリスクを抱えた中で、自ら相手に対してアクションを起こさない限り、このアタッキングフットボールは成立しません。

だからこそ何より求められたのは“自信”でした。

とはいえ現実は残酷なものです。奪われてはカウンターを喰らい、その都度ロングスプリントで背走を強いられる。

ハーフコート仕様で、徹底して相手陣地の狭いエリアでフットボールを試みる名古屋としては、このロングスプリントは回数を重ねるごとにボディブローのように効き始めます。

ここが最大の急所と言っていいでしょう。この攻撃特化型の発想(ハーフコート仕様)において、そもそも彼らにはロングスプリントに耐えうる身体は必要がない。この前提こそが、当時の名古屋に隠された最大のボトルネックでした。

“名古屋対策”に隠された最大の罠

今季シーズン途中でマッシモが就任し、彼がまず始めたことは、驚くことに本来はシーズン前に行うような”身体作り”でした。前体制では、狭いエリアを攻略し、ハーフコートを前提とした必要な強度、つまり短い距離のダッシュを素早く繰り返すクイックネスが求められていました。

しかしそれこそが落とし穴であったと言えます。つまり一見すると名古屋の高い攻撃力を阻害する為に設けられたあの防波堤(名古屋対策)が、実際にはそこからのカウンターを繰り返すことで、名古屋にロングスプリントを強いることに繋がった。そしてその繰り返しがボディブローとなり、名古屋の生命線だった“距離感”を破壊しました。

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それは言い換えると、「ハーフコートからフルコートでの戦いを強制する」、つまり名古屋を彼らの土俵から引き摺り下ろす術になっていた、そう考えて間違いありません。

風間八宏解任後、対極ともいえる監督を招聘したことで改めて浮き彫りとなった事実と言えるでしょう。

この勝てない日々が続いた時期、事あるごとに指摘されたのは「何故守備をしないのか」でした。ただこれは誤解です。守備をしなかったのではなく、出来なかった。

彼らが思い描く守備。つまり攻守が目まぐるしく入れ替わりながら、高い強度で相手に対し常に網を張る為には、少なくとも“自分達の土俵”で試合を進めることが大前提でした。この理論で、アタッキングフットボールを追求する限り。

だからこそ名古屋対策が進んだ中盤戦以降、彼らがこの理論で生き延びる術は、もはや一つしかありませんでした。“相手を崩しきることで、こちらの土俵に引き摺り込む”ことです。

そのロマンに我々は夢を見て、そしてその夢は破れました。

アタッキングフットボールに、正解はない

何故、人は見えないものに不安を覚えるんでしょうね。ロジカルで、目に見えるものこそ信頼を覚え、これこそが正しいものに違いない、そう感じる。その文脈からして、以前の名古屋は完全に常識外れでした。起きていたことも、結果的には全てにロジックが存在します。ただ彼らは、グーでくると相手にバレていながら、それでも殴る選択をした。いや、これまで記した通り、その選択以外に道はありませんでした。

私は、だからといってこの風間理論を否定するつもりはありません。例え常識外れであっても、そのグーで殴り切れる圧倒的な力さえ存在すれば、それは常識外れではなくなるからです。欠点こそあるものの、その欠点が圧倒的な長所と共に内包するからこそ魅力と、そしてロマンがあった。

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また全てのベクトルを自分達に向けることで、当然ながら選手達は大きく成長しました。我々サポーターの立場から見ても、その選手達の成長が手に取るように伝わった。この魅力は、もしかすると応援する者にしか分からないのかもしれません。進化の先に、未来がある。未だ見ぬ未来だからこそ、期待と不安が入り混じり、そこには興奮と緊張があった。

ただ残念ながら最後で仕留めきることが出来ず、負のループは始まりました。業を煮やした強化部は、このやり方に見切りをつけ、必要な補強(端的に言えば最後に仕留めるストライカー)を怠った。我々には、狭いエリアでもものともしない、このフットボールを突き詰めた先に必要となる、そんな“身体を使う技術”に秀でたストライカーが必要でした。

その願いは叶うことなく、この冒険は幕を閉じました。

新たにこの土俵の主役に躍り出た横浜

一方で、同じアタッキングフットボールでも、“配置”を基調とした横浜が優勝まであと一歩のところまできています。

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ミドルサードでの戦いになれば、当時の名古屋も、彼らや川崎に全く引けを取らなかった。明暗を分けたのは、そのアタッキングフットボールが、どれほど自分達自身に依存したものか、その違いに他なりません。その結果が、相手の極端なまでの対策に繋がり、それを攻略する難易度も、何より攻略出来なかったときに起こるリスクの度合いも、両者に圧倒的な差を生んだ。名古屋のアタッキングフットボールは、あまりにピーキーでした。全てのベクトルが、良くも悪くも自分達に傾きすぎていた。その結果、殻を破りきれなかった名古屋は、この土俵から引き摺り下ろされてしまいました。

これまでこの土俵で圧倒的な力を発揮していたのは川崎です。その結果が、近年の二連覇の実績でした。ただ今回の等々力での直接対決をもって、この土俵での立ち位置は塗り替えられました。横浜こそが、最強であると。

では、今後彼らの牙城を打ち崩すチームは現れるでしょうか。個人的には、彼らと同じスタイルでそれを上回るか、異なるスタイルで真っ向勝負を挑めるチームが現れないと厳しいと考えます。例えばマンチェスターシティにおける、リバプールのような存在が現れる、とか。川崎もここからどう進化するか楽しみでなりません。むしろこの状況は、ここからどう変化すれば横浜を上回ることが出来るのか、そんなチャレンジになる。同じアタッキングフットボールの観点で言えば、彼らこそがそのポールポジションに存在します。

そして、名古屋です。この土俵を徹底的に破壊する、これまで我々の前に立ちはだかったようなチームを目指すのか、それとももう一度この土俵に返り咲くアプローチを取るのか。

今、我々は、大きな岐路に立っています。