みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

徳島の地に拘り、そして涙した

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

求められるのは、理屈か、それとも感情か。

報道から正式なリリースに至るまで、きっと多くの者がこの狭間で揺れ動いたに違いない。いつまでも留まって欲しいと願う気持ちも、更なる高みを目指して欲しいと背中を押すその想いも、どれも全て正しい。だってそうだろう、彼は一サッカー選手の枠を超えていたのだ。

岩尾憲は、徳島の地に別れを告げた。

12月4日、場所は鳴門・大塚スポーツパークポカリスエットスタジアム。降格が決定した後、スタジアムではシーズンの感謝を述べる場が設けられていた。

岩尾は、泣いた。

人目も憚らず、涙を止めることが出来なかった。


www.youtube.com

道半ばだったのだ。チームが崩壊したわけでもない。新しい監督のもと、やっと形も出来てきた。ただ、間に合わなかった。前年に悲願の昇格を達成し、しかし監督がチームを去り、加えて新監督の入国が遅れる。不慣れなトップカテゴリーで試行錯誤をしなければならないジレンマを抱え、それでも尚、最後まで残留の切符に手を伸ばし続けた。このクラブで、このメンバーでJ1の舞台に執着するだけの理由が、きっと岩尾にはあったのだ。

なにより残念なのは彼がこの舞台から去ることだった。

『人にかまっている余裕がない』と溢しながら、それでもJ1の舞台で躍動するその姿は圧巻だった。誰にも真似のできないリズムと圧倒的な存在感。優雅なプレースタイルはJ1であろうが何ら変わることなく、下のカテゴリーでの評判が過大評価でなかったことを自ら証明した。

www.targma.jp

最終節のマッチデープログラムでは、クラブとしてJ1の舞台で戦う意義を岩尾自身がインタビューで語っている。彼は手応えを掴んでいた。クラブも、そして自身もこの環境で成長していると。だからこそ徳島をJ1から落としてなるものかと必死だったろう。降格という事実以上の重い荷物を彼は背負い続け、しかし目的地まで運びきれなかった己の未熟さに涙した。私にはそう映った。

そう、彼が愛するクラブは、一年で降格したのだ。

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

34歳になる年でJ2の舞台に戻らざるをえない現実。覆ることのないこの事実が気を重くさせた。プレー面において彼がJ2の舞台に戻る理由は見当たらなかったのだ。

そこにJ2という舞台を蔑む意図は当然ない。

例えば岩尾が尊敬する遠藤保仁は、既にトップカテゴリーで華々しい功績を残したうえで、J2という環境に活路を見出した。しかし岩尾は違う。キャリアのほとんどをJ2で過ごし、満を辞して上のカテゴリーに臨んだのだ。まだまだやれることはあったはずで、逆にいえば、もう下のカテゴリーでやり残したことはないように思えた。

或いは『また一年頑張ればいいじゃないか』と声をかけるのは。いや、無理だ。サッカー人生とは何故こうも短いのか。この年齢になれば一年一年が貴重で、重い。その貴重な一年を下のカテゴリーで費やし、仮に一年で戻れたとしてもその時には35歳。岩尾には一年でも長くJ1でのキャリアを築いて欲しい。そう願う気持ちに反して、この重苦しい現実が岩尾の置かれた状況を物語る。

若手と呼ばれる選手の一年とは違うのだ。何もかも。

そこに突如として舞い込んだオファーは、ある意味では納得の、しかしあまりに究極で、残酷なものだった。

hochi.news

33歳の選手に対し、天皇杯王者にしてACL出場権を得た国内最大のビッグクラブから届いたオファー。この状況でもし断る人間がいるとすれば、それはおそらく岩尾憲くらいのものだろう。ただ、今回ばかりは勝手が違った。酸いも甘いも知り尽くした男が辿り着いたJ1の舞台。そこには我々の想像を超えた手応え、やりがいがきっとあったに違いない。一サッカー選手として、『もっと上の世界を知りたい』そう思える何かが、きっと。

とはいえ、何処のクラブでも良かったとは思わない。

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

浦和レッズ。一人のサッカー選手の枠におさまらず、『チーム』と『街』に拘り続けた男にとって、浦和というクラブの歴史、街、スタジアムの熱気から感じ取れるものは多々あるに違いない。そう思うと、『岩尾、残ってくれ』という想いも、気づけば『岩尾のためには移籍という選択も有りなのではないか』と揺れ動き始めるのだから悩ましい。どちらも正解で、そこには不正解など絶対にないのだから。決めるのは、岩尾自身だ。

しかしまあ、そんな究極の選択を強いる相手にリカルドロドリゲスがいるという構図の残酷さたるや。岩尾憲を徳島の地から引き剥がすだけのオファーが出来るクラブが他にあるか。いや、おそらく浦和レッズ以外にはないと断言できる。岩尾憲自身に流れる文脈に加え、受け皿となる相手側のクラブに流れる文脈。それだけではまだ足りなかったと私は思う。最後の決め手となるダメ押しの要素があるのなら、それは彼に関わる『人』だ。

そして、岩尾は浦和レッズの一員になることを選んだ。

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

堂々と浦和へ旅立ってほしい。長い間J2の舞台で苦しみ、一人、また一人と仲間たちがJ1の舞台に活躍の場を移していった。その姿を横目で眺めながら、岩尾憲はずっと徳島のために戦ってきたのだ。『J1ってどう?』そう後輩たちに問い続けた男が、そのJ1の舞台で自ら掴んだ切符。それは、33歳という大台で舞い込んだ、かつて誰も掴み取れなかったような最大級のオファーだった。

遅咲きも遅咲き33歳でのビッグクラブ挑戦。代表歴どころかJ1の実績すら乏しかった男が今、誰も見たことのない道を歩み始めた。誰かが敷いた道でなく岩尾自身が作った道。いや、岩尾と徳島の人達で作り上げた道だ。

愛するクラブと共に歩み続けた先に、こんな未来が待っていると誰が想像しただろう。浦和からのオファーも、それを受け入れた決断も、必然。唯一の誤算は、自身の人生をかけたクラブの降格がそのトリガーとなったことだ。消せることのないその痛みと共に、それでも岩尾は次なる道を歩み始める。徳島ヴォルティスでの日々があったからこそ、歩むことが可能となった新たな道を。

終わってない。これは、互いが前に進むための決断だ。

徳島のために涙したあの姿を、忘れることはない。

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]