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最近、徳島ヴォルティス界隈で面白い議論を見つけた。
それは、「徳島が『スペイン路線』にこだわる必要は果たしてあるのか」との問い。徳島を好きな自分とすれば、これを茶化す気などさらさらなく、純粋にいい議論だと思った。いやむしろとても大切な問題提起である。
読んでいると、さまざまな意見を目にした。
そこに魅力を感じていたから今の姿は残念だ
他のクラブとの差別化がこの地には必要だ
そもそもあの時代のフットボールが好きなんだ
いや徳島が勝てるのならスタイル等なんだっていい
どうだろう。めちゃくちゃいい議論だと思いませんか。
自分自身、最近食事を共にした方とまさにこの類の話題になった。「なぜ魅力的なフットボールである必要があるのか」とか、あるいは「勝つことの意義」について。
そもそもだが、ここでいう「魅力的」はどう定義すればいいのか。難しいことに、それもまた多種多様である。パスを繋いでいく、人と人とが有機的に絡みあうフットボールが好みの人(自分だ)もいれば、徹底した堅守に美しさを覚える人だっているだろう。フットボールというスポーツ一つとっても、各々が魅力を感じるポイントは違うわけで、その個人差が面白いなと改めて思う。
つまり結論などでないんですよ....(でんのかい)。意見は割れるの。割れて当たり前。しかも、どれも間違いではないときた。フットボールに、というか応援するクラブに何を求めるかは人それぞれ。だから間違いはない。
そのうえで、まずは自分の感想(結論)から述べてスタートしますが、率直に羨ましい議論だった。(完)
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きっと、「スペイン路線」を支持する人の多くは、もちろん単純に自身の好みもあるのでしょうが、なにより愛するクラブがその路線を歩んでいたことがもはや〝誇り〟だったのだと思うのですよ。誇りであり、自慢。
ピッチ上に何か明確に描きたいもの、理想が感じられ、またそのストーリーを共有できると、語弊を恐れずいえば勝とうが負けようが面白いもの。成長ストーリーを追いかけるのは、一つのクラブをウォッチし続ける醍醐味ですしね。その気持ちは、痛いほど分かる。分かるよ。
そもそもの話、クラブが推し進めてきた野望が、それほどまでにファンサポーターに受け入れられる、あるいはクラブのアイデンティティにまで昇華すること自体、相当稀有だ。例えばね、「貴方のクラブの特徴はなんですか」と聞かれた際に、端的に即答でき、かつ、それで相手に納得感を抱かせる答えを持った人って、果たしてどれくらいいるだろうか。え、お前は自信あるかって?
ないです(そこ即答)。おそらく、皆そうでしょうよ。
先日、名古屋で飲み会やりましたけどね。「名古屋といえば」なんて自分たちでお題を出して、「んー....しいていえばゴールキーパーだな」で皆納得です(おい)。
まあそれは半分冗談だとしても、クラブのイメージやスタイルを他サポまで共有できているのは稀有なことで。
ただ、その裏返しできっとしんどさもあると思うんだ。
そこまで強い自負があると、その路線から外れたときの反動もきっと大きいはずだから。ハシゴを外されたようで、どうしても納得できない。食わず嫌いではないけれど、他(の道)が受け入れられない。もちろん、そこまでの夢や理想を提示できたという点において、当時のクラブが推し進めたことは評価に値するでしょう。しかしながら、皮肉にも「だからこそ」罪深さも感じる次第。
ただ、ずーっと同じ道を辿るのって、相当な難度だ。結局、監督が代われば志向も変わるし、似たような監督(かつ、招聘できる人材)が果たして何人いるのかと。
手前味噌ですけどね、私なんかは風間八宏からマッシモフィッカデンティにバトンが渡った瞬間に、もはや悟りの境地に達しましたよ。誰だよそのリレーの走者と順番決めたやつは。お?大森さんかそうかそうか(脱線)。
畜生!我々の思い通りになんてこれっぽっちも進まねえ!だから、いまはむしろ「変わっていく様、その歴史を観察する生き証人」と自分自身を捉えた方が、「俺はこの時代のクラブを見続けたきたぞ!」と、なんだか価値を持つ気すらしているから諦めの慣れは恐ろしい。
そう考えると、むしろ「変わること」は当然なのか。
しかしながら、「どう変わるか」、いや「どう変わっていけるか」の道中が大きなキモだとも思うわけです。
そうだ、今季はサガン鳥栖のことで揉めましてね....。
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志はあるのだけれど、負けっぱなしのチーム。結果が一向に伴わず、一部の層からは散々な叩かれようだった。
でも、結果は結果として、評価できるポイントはある。全てをなかったことにするのではなく、そこは是々非々で語らないかと。そんな気持ちで、ある日「ポジティブ」な側面に言及したところ、意図せず一部のコア層の気持ちを逆撫でしてしまい、軽い炎上騒動に発展。それはもう....ボコボコに言われました。「所詮は他サポ」「俺たちの歴史を知らない奴が偉そうに語るな」と。
今思うと、ある面においてはその通りなんですよね。
その通りというのは、ここでキレた方々にとって、当時の鳥栖の姿は「自分たちの誇り」がきっと許さなかったのだと感じていて。自分たちの(というより「監督の」)理想ばかりで、目の前の相手に対してやれることを全てやっていない。やりきれていない。泥臭く走ってぶつかり、目の前の一戦に全てを賭ける姿勢。別に華麗じゃなくたっていい。出来ないことに固執するな。今出来ることを全力でやれ。きっとそういう姿こそが、彼らが築いてきた「鳥栖の誇り」だったはず。そうやって、あの舞台に必死にしがみついてきた強い自負がある。そして、その一つの象徴が「アカデミー」でもあった。
だからこそ、きっと(毎度同じような姿で無様にやられるチームには)納得がいかなかったのだろうし、認められなかったのではないか。残念なことに、アカデミー卒の選手たちも多くがレンタルされていた。ゆえに、あのチームを先導した者も、あるいは、どういう形であれ、当時の監督やチームを肯定した私に対しても、その〝誇り〟が決して許さなかったのだろうと思うのだ。
「変わろうとする」鳥栖の志に惹かれ、応援したいと感じていた自分のような者に対し、「変わってしまった」鳥栖を許せなかった人たちがいた。いや、違うな。その「変わり方」に納得が出来なかった人たちがいたのだ。
それはそれで、決して間違ってはいないし尊重すべきだと思う。それだけの〝愛〟や〝誇り〟がそこにはある。
そしてシーズンが終わる今、改めてこう思うのだ。
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異なることをやるのなら、あるいは、築いてきた文化を上書きするほどのロマンをそこに描こうとするのなら、やっぱり『勝たなきゃ』駄目なのだと。勝って、黙らせないといけない。勝って、認めさせないといけない。
もちろんどのクラブも優勝目指せなんて意味ではない。
愛するクラブが勝てばなんでもいいって人も、その路線は納得いかねーぞって人も、あるいはその路線を支持するからこそ「続いて欲しい」と願う人のためにも、やはりクラブの規模ごとでの納得感ある結果は必要なのだ。勝つことで、それを積み重ねることで、きっと新しい文化はそこに築かれるのだと自分は思う。勝てない理想は、認められない。〝誇り〟が、それを許さないのだ。
せめて、それが〝文化〟になるまでは。その地の〝誇り〟となるまでは。皆が納得できるだけの〝結果〟を。
「勝つこと」の意義は、きっとそんなところにもある。
難しい。だって、そういった「目先の勝敗」だけを追求した過去から脱皮しようと試みたのが、ここ数年の鳥栖だったと自分は思うから。しかし、皮肉にもその〝志〟が一部のファンサポーターの〝誇り〟と摩擦を起こし、結果的にその「目先の勝敗」が運命を決めたのだ。
これは、今季の鳥栖に限らず、振り返れば風間時代の名古屋グランパスだって同じだった。勝てないから、終わったのだ。そこは、なんら変わらない真理だと思う。
この文脈をもって、話を冒頭の徳島の話題に戻そう。
あれは、詰まるところ勝つための「手段」の話ともいえるわけで、互いの主張において共通しているのは「なんにしたって今の体制じゃ勝てねーよ」そんな嘆きなのかもしれない(元も子もないが)。そもそも、お互いが納得していないもんね。そこのコンセンサスは取れてる。
スタイルも失った。しかし勝つことも出来ていない。たしかに、これはシンドイぜおい(なあ徳島界隈よ)。
でも矛盾するようだが一つだけ強く主張させてほしい。
自分は「勝ちゃなんでもいい」なんて発想は、愛するクラブを持った人だけがいえる特権でしかないとも思う。
自分のような人間が徳島や鳥栖に興味を抱けたのは、彼らのフットボールから「目指したい理想」や「揺らぐことのない哲学」を感じたからに他ならない。それがその地に縁もゆかりもない私の目を奪い、そして虜にした。
だからこそ、ぶり返すが鳥栖のことは悔しかったんよ。
「所詮は他サポだろ」も「お前は俺たちの歴史を知らないだろ」もさ、くっそ全部その通りじゃねえかって。 ひとつも否定できない。「そのフットボールが好きなだけで、鳥栖のことが好きで応援しているわけではない」みたいなさ、「私たちの大切なもの(このテリトリー)にもう触れないで、踏み込まないで」と。そんな『絶対に超えられない境界線』を引かれて。畜生。悔しかった。
だって、所詮は「余所者」だもん。そこは否定できん。
惹かれていたストーリーが潰えたとき、「地元」として無条件に応援できるだけの必然性、あるいはそこに関連した様々な動機があった人たちに対して、自分とそのクラブを結んでいたものは、結局その「ストーリー」しかないのか。探しても探しても、その地に縁もゆかりもない自分には、明確な『応援する理由』がないのか、と。
でもさ、それって裏返して考えたら凄いことなんだよ。
その地に縁もゆかりもない、普通に暮らしていたら「絶対に」接点を持つことがなかったであろう人間が、ピッチにあるフットボールたったそれだけで好きになってしまう。その地で応援する人たちと繋がり、喜びをともに共有できる。見方を変えれば奇跡だよそんなことは。
そうだ、せっかくだから恥ずかしい話をひとつします。
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グランパスが降格した年、目にもしたくないような報道に毎日晒される中、一瞬、「もう他のクラブ応援しようかな」って本気で考えたことがあって。そうなれたら、どれだけ楽だろうと。情けないけど、そう思った。
でも、結局は無理で。考えたよ。岐阜はどうだろうとか、いっそ名古屋勢が多数移籍した京都はどうだとか。でも、無理だった。好きになろうと思って好きになるのは、自分には出来なかった。でも、面白いものでそれが分かった途端、名古屋への愛が一段と強まってね。不思議なものです。ただ、普通はきっとそういうものなのだと思う。「好きになる」ことは簡単じゃない。それは、ともすれば「地元」であろうと同じかもしれなくて。
だからこそ、「自然と好きにさせる」のは凄い。尊い。
フットボールの内容でも、応援の格好良さでもいい。
もともとそのクラブを好きな人や、その地に縁がある人以外を巻き込むには、「ただ勝つだけ」では足りない。
そんな魅力や志(こころざし)をもったクラブが一つでも増えたらいいなと、自分のような「フットボール愛」で動いている人間は本気で思うのです。そして、そのサクセスストーリーがいつか成功して欲しい。自分がこれまで惹かれたクラブのファンサポーターは、どこもその道中(過程)を嬉しそうに、そして自慢げに語っていたから。その空気感が「楽しそう」だと他者に伝わり、自分のような余所者が導かれていく。それ最高じゃんね。
ファンサポーターが増える循環は、絶対コレ、なのだ。楽しそうな場所に人は集まる。縁もゆかりもなかろうと。そういう〝誇り〟こそが眩く、自分は羨ましい。
徳島も鳥栖も、自分にとっては今も大切なクラブだ。
余所者だけど、出逢えたことに感謝してます。ずっと、魅力的なクラブであって欲しいと願ってやみません。
それぞれの地で、来季もともに楽しみましょうね。
とりあえず徳島界隈元気出してこーぜ(枯れた声で)。