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今回は「私の」フットボールの見方、を話します。
なんでいきなり、と思われますよね。キッカケは、先日「らいかーるとさん」が書かれたこちらのブログです。
まず言いたいのですが、めっちゃくちゃ参考になりますありがとうございます。ブログに要する時間45分はさすがに嫌味かと思いましたが、たぶんあのお方はマジなので仕方ないです。影響を受けた皆さんには、心から「あの記述だけは無視しようぜ」と、まずお伝え致します。
さて、そのうえで私がどう触発され、何を書きたいか。
もう少し掘り下げたいんですね。フットボールの見方、或いは「好きなこと」を楽しむ方法を。
さっそくで申し訳ないのですが、私の話をします。
まず大前提として、私もいわゆる「戦術分析」と呼ばれる類のものは大好きです。ずーっとそういったものを読み、考え、育ってきました。どうでもいい話ですが、小学二年生で初めてフットボールと出会い、実際にプレーをし、しかし気づけば私はフットボールを「する」のと同じくらい、「みる」ことが好きなのだと自覚したんです。私にとって、フットボールは勝った負けたで興奮するだけのものでなく、「考察」することにおいても、大変に魅力のあるものでした。まあ、オタク、です。
その意味で、先ほど紹介したらいかーるとさんのブログは、いわゆる「マッチレポート」における、より正確で、より緻密なアウトプットを目指す指標です。実際にピッチで起きている事象を、いかに正確に汲み取れるかが問われるからこそ、必然的に、そこには「答え」或いは「間違い」といったモノの見方が生まれます。
昨今、sns文化が当たり前のものとなり、こういった戦術分析が広く認知されたことでニーズが高まり、書き手も増えました。素人や指導者の垣根を越え、フットボールに詳しい方が増えましたよね。実際にそれを生業にしている方と、純粋なフットボールフリークが入り混じる時代です。誰もが高度なアウトプットを目標とし、試合を観る解像度は上がっているのだと感じます。
先に断っておくと、その風潮自体は素晴らしいことです。繰り返しますが、なにより私自身それが好きです。
ただ一方で相反する気持ちがないわけではありません。
可能な限り「正しさ」を求め、常に正解不正解が問われるのなら、それはそれで少なからず息苦しさもある。
もちろん私にもあります。もっとフットボールのことを理解したい、戦術的な視点の解像度を高めたい、そんな欲が。ありますよ。あるに決まってます。だって、ずっとそうやってフットボールを楽しんできたのだから。
でも他方では、そんな自分の(育んだ)見方が、正しい間違ってるなんて土俵の上にあると自覚すると、(例えそういうものだとしても)多少なりとも息苦しさも感じるんです。「戦術を考察する」ことが当たり前の環境になったことで、その「知識」を過信し、武器と履き違えて他者(対象)を叩くことが目的になるケースもあります。稀にそんな場面に遭遇すると正直辟易することも。そう、取扱いを間違えると、「戦術」は良くも悪くも「分かった気にさせてくれる」麻薬にもなるんです。
とはいえ、実際のところ書き手としての腕を磨くには、自分の「見落とし」「間違い」を自覚することはやっぱり必須だから悩ましい。つまり「感覚」に逃げることは出来ません。向き合わないといけない。でも、誰だって間違いはしたくないじゃないですか。では、「正しさ」を追求してドツボにハマるパターンを見ていきます。
せっかくなので、私の恥ずかしい話を例としましょう。
ここ数年、ありがたいことに「書く」行為において、お仕事をいただく機会が何度かありました。それはもう必死でした。何故なら、「正しい」アウトプットをだすことに躍起だったからです。そこに金銭が発生する以上は、誰が読んでも正しいと思えるものを。少しでも難解な、それでいて人様に伝わるものを書かなければならない。よく言えば持って生まれた責任感ですが、まあ実際は気負い過ぎです。あえて身の丈に合わない場所に自分を置いて、「読み応えのあるもの=高難度な『解釈』と『言い回し』」だと規定し書いていたように思います。
振り返ると依頼を受けた際こんなやり取りをしました。
「あの....僕なんかでいいんですか?」「この内容なら、指導者の方とか、プロの方に書いていただいた方が説得力あるんじゃないですか?」「何を求められてます?」
つまり、どれだけ他者が私のことを評価してくれたとしても、肝心の私自身が誰よりも己に懐疑的だったんです。自分より適任は他にどれだけでもいるだろうと。だって、仮に「正しさ」が問われるのなら、若い優秀な指導者だって次々と出現しているじゃないですか。なんで俺!?そう思いながらも、引き受けた以上はその期待に応えたいと必死に肩肘張り、空回りしてしまう現実。
すると、どうなると思いますか。
普段、自分が書く文章とは似ても似つかぬモノが出来るんです。リズムも言い回しもやっぱり変わってしまう。
もう....散々直しをうけました。厳しい編集者の方だと、ズバズバ指摘が入るのでメンタルもぐったり。「いつも通り書きなよ」....はい。「すごく分かりづらいよ」....分かってます外の風浴びてきます。フットボールの解像度を上げることで、読んでくれる方に「分かりやすさ」を提供するはずが、戦術という波に溺れむしろ分かりづらくなっていくこの悪循環。実際は、もはや読者のため、ではないんです。「自分との格闘」です笑ってくれ。
試合で起きたことを正確に文字に起こす。理想です。そういったアウトプットを最大の目標とし、切磋琢磨しスキルを追求する。そのうえで、書き手同士の違いに目を向け、分かること(気づくこと)を増やしていく。その「目的」は、全く否定されるものではありません。
ただ、一方でそれが足枷となり、罠に嵌ることもある。
自身が観た対象を拡大解釈し、ありったけの知識を注ぎ込もうとしたり、テクニカルな要素を追求した結果、誰に何を伝えたいのかよく分からない成果物が出来たり。皮肉な話ですが、小難しく書けば書くほどに、不思議にも中身は空虚で薄っぺらいものに仕上がるのです。
結局のところ、最後に問われることは一体何なのか。
いかに等身大の姿でピッチに向き合い、それを「誰に」「どう伝えるか」「どう伝えたいか」ではないか。
「観たもの」を「観たまま」に伝えることは難しい。何故なら、そこに沢山のバイアスがかかるからです。人様に読まれる以上は、凄いと思われたい。あの人のように書き上げたい。そういう〝欲〟が邪魔するのです。
こんなことを書いて結構恥ずかしいと今気づきました。
でも、読んでいただいた通り、私はそういったジレンマに悪戦苦闘していた過去があります。書いているときは気づきません。後で気づく。この土俵で筆を走らせている限り、自分より「分かっている人」は必ずいて、「自分がそれをする意義」が見出せないんです。テクニカルな方向に目が向けば向くほど、それは感じていました。所詮は素人で指導者の説得力には敵わないと。お笑いのモノマネ芸人のように、そこに「笑い」の付加価値がつくなら意味はあるでしょう。ただ、モノマネがただのモノマネで終わるのなら、いつまで経ってもホンモノには敵いません。読者だって、ホンモノを選ぶ。書き手が溢れる時代だからこそ、誰だって「選択」はするのです。
だからこそ、改めて問うべきだと思うんですね。
そもそも自分はフットボールを通して何に喜びや楽しみを覚え、そのうえで何を表現したかったのだろうかと。
そもそも、私にとっての「いつも通り」とは何なのか。
「自分がトキめいたことを誰かと話したい、誰かに伝えたい」これが、私にとって想いを言葉にする動機です。
そう思うと、あの時かけられた「いつも通りの貴方でいい」との言葉は、つまり「貴方自身がどう解釈し、どんな感想を抱き、そこにどんな興奮を覚えるか、それを素直に表現すればいい」と伝えていたのかもしれません。
求められているアウトプットは一つではないのです。
ピッチ上の解釈は様々でしょう。ただ、解釈をするうえでは、まずもって起きている現象を「正しく」把握する必要がある。正しい認識のもとに、それぞれの解釈が生まれる。らいかーるとさんが伝えたい本質は、そういうことなのかもしれません。だから、これだけ長々書いているこのコラムも、決して正反対の話がしたいわけでなく、読んでいただいた通り、同じ話の延長線上にあります。つまり、解釈を磨くためには、結局のところ「正しい認識」を磨く道からは逃れられない。そのためには、やはりフットボールの勉強をしなければならない。
結論一緒じゃねえかと思ったそこの貴方、待ちなさい。
(どの立場から言ってるのか自分でも分かりませんが)私が伝えたかったのは、だからといって表現方法は一つではなく、縛られる必要はない、ということです。貴方の解釈も、そのアウトプットの方法も自由で、そこに「答え」はありません。目を向けるべきことは、小手先のテクニカルな部分ではなく、それをどう「自分の言葉にするか」。そう、言葉を模索しなければいけません。
私の場合は、誰かに伝えたいと感じるくらいの興奮を、やっぱり「自分の言葉」で表現したい。ああいいな、この人がここまで言うなら観てみたいな。そう思ってもらえるくらいには、その表現方法を磨きたい。試合を沢山観て、戦術分析も磨きたいと思うのはそのためです。
それなら少しくらいは存在意義があるのかもしれない。
ここまで読んでくださった御礼に、私が尊敬してやまない指導者の方にかけていただいた言葉を共有します。
あれこれ考えて、作って、試合をしても、「つまらない」と思われたら、それ以上もそれ以下もありません。だから、観ている側の抱いた気持ちや感想こそが『正解』なんじゃないかと思います。観ている人が深く考えて、考察し、文章にすることは、プレーする側にとっても大きなことです。
そう、結局はどちらも間違いではないんです。マッチレポートを必死に作り続ける書き手の皆さんも、そこからこぼれ落ちてしまいそうな人や、表現方法に悩む人も。
必死で考え、アウトプットしたことは、必ず届きます。
貴方にとって、好きなことを「好きであり続けられる」接し方、距離感を大切にして欲しい。そして、貴方が魅力を感じたフットボールを、どう解釈し、どんな言葉を使って、どう人に伝えるか。そこに〝個性〟が表れると。これからも、一緒に磨いていきましょうよ。
この歳(どの歳)になり、「好きなことがある」尊さに加え、「それとどう付き合っていくか」が、自分の人生において重要なことだと感じるようになりました。何度も書きますが、好きなことを好きなように言葉にするのなら、やはり勉強は必要です。ただ、一方でフットボールの魅力をどう伝えるかは多様で、答えはありません。
私の「標的」はそうだなあ....細江克弥さんですかね(すいません畏れ多いです....)。ただ、アレくらい「好きだ」と表現したい、ウザがられるくらいには(笑)。
何歳になっても、「好き」を全開で解放しましょう。