みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

豊田の地に、カテナチオ到来

イタリアの風、遂に豊田に吹きました。

風の香りは随分と変わったものの、名古屋に風が吹いたことに違いはありません。長かった。まず一言感想を。

試合後の足取りが、とても軽かったです。

見事なまでにハマった「マッシモスタイル」

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端的に言ってしまえば、これまで我々が苦労したシチュエーションと、見事に立場が逆転した。そう考えれば話は早いかと思います。皮肉なものですね。あれだけ苦労して勝ち星を落とし続けた相手の戦法を、今度は我々が行い、そして白星を掴んだわけですから。カウンターが決まる様を眺めつつ、不思議な気持ちになったのは言うまでもありません。

神戸を批判するつもりは全くありませんが、彼らは名古屋に対してあまりに無策すぎた。これもまた皮肉な話ですが。J屈指のタレント力を存分に活かすため、ボール保持を前提に各選手が高い位置取りで相手陣地を占領しようとする彼らのフットボール。但し、名古屋のように徹底的に引いてブロック形成する相手に対し、その崩しのアイデアは物足りず、突っ込んでは奪われカウンターを浴びる機会が目立ちました。

起きている現象は以前の名古屋と同様。違いと言えば「何故それが起きるか」だけ。崩しのアイデアはあるものの、結果崩しきれず、乱れたポジションバランスが仇となった名古屋。固定された配置はあるものの、崩しの構造が未完成で、不用意に突っ込んではカウンターのスペースを与え続けた神戸。意図しない形でボールロストし、そのリスク管理は不十分。結果、名古屋の「守ってカウンター」がハマりました。

ただ浮かれてばかりもいられません。

この試合のスコアが象徴するように、マッシモ体制での課題は「攻撃における特定の選手への依存」です。例えば相手が前田に複数人マークをつけた場合どうだったか、他に手立てがあったのか。そこには疑問が残ります。逆サイドに位置する和泉が攻守にフル稼働していたものの、現在の彼の役割は決して「攻撃の主役」ではない。前田直輝という圧倒的な個を活かすためのバランサーと捉えた方がしっくりきます。それほどまでに、マッシモ流は「ストロング特化型」。

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それでも和泉が我々にインパクトを残したのは、ひとえに彼の個人能力が求める役割をも上回っていたからに他なりません。どのポジションでもそつなくこなす、ある意味器用貧乏な印象すらあった和泉。気づけばどのポジションでも、「どのスタイルでも」、置かれた環境で彼らしさを発揮できる稀有な存在になったことを、この試合で見事に証明しました。

風間、マッシモ....あまりに極端なその志向

さて、この試合を見れば分かる通り、マッシモは古き良きイタリア流のフットボールです。ブロックは低く構え、故にロングカウンターでは個人の圧倒的なスキルが問われるフルコートスタイル。相手を引き込み網をかけ、ボールを奪えばシンプルに。なんとも分かりやすいフットボールです。

一方でこの2年半、我々が観てきた風間氏のフットボールは出来るだけラインは高く設定し、狭い局面を技術の掛け合わせで凌駕しようとするハーフコート前提のスタイル。技術で相手を上回れるか、この「上回れるか」という観点において、期待と驚きがあったフットボールであったと思います。その分、出来なかった時の反動は想像以上、まあ悲惨でした。

お互いに共通するのは、攻撃にしろ守備にしろ、その発想の偏りが極端であるが故に、「自分達の土俵」でなければ途端に脆さを露呈することです。風間氏のフットボールは「自分達次第」、マッシモのフットボールは「相手次第」。例えば神戸があれほどまでに前掛かりでなければ、試合のテンポはもっと緩やかに進んだはず。その意味で、神戸のやり方が今の名古屋にとっては好都合だったことは間違いありません。

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ではどちらがより欧州の主流に近かったか。私は風間体制だったと考えます。少なくとも自分達の土俵にさえ持ち込めば、その展開は目まぐるしく、また球際の寄せのスピード、時間とスペースが限られる強度の高い環境での止める蹴るの基本的な技術レベルにおいて、彼のフットボールは国内のレベルをワンランク上げるものだった。但し玉に瑕だったのは、相手ゴールから逆算した発想で考案された「ポジションの流動性×止める蹴る外すの基本技術の追求」を前提とする彼の理論そのものであったことも事実です。何故なら求める土俵を生み出すには、相手が自らその土俵に立つことを選ぶか、そうでなければ「相手を崩しきる」ことでしかそれが得られなかったからです。全てのベクトルを自分達に向けるそのフットボールは魅力的である一方、そこへの依存度が高く、失うものも多かった。出来ない時に起きるカウンターのスペースもそう、その結果得られない目先の勝ち点もそう。

最大の魅力が、最大の欠点にもなり得る。自分達次第で、試合の状況すら一変する、まさに表裏一体のフットボール

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その点、マッシモのフットボールは対照的です。起きることに意外性はなく、攻撃にリスクをかけない分、万が一それで行き詰まっても最悪引き分けの手段がある。「勝つフットボール」いや、まさにイタリアの象徴「負けないフットボール」。試合展開を決めるのは自分達ではなく、相手次第。「分かっていても止められない武器」を一つでも多く持てれば、手堅く勝ち点を積めるフットボールかもしれません。あの整然とした守備ブロック、無駄のないカウンター....彼のフットボールを観ていると、イタリアの伝統、文化で育まれたそれだと思わずにはいられません。それはそれで興味深いフットボールであることに違いはない。

そう考えると、我々はシーズンを通し、まさに両極端なフットボールをこの目で観ていると言えます。皮肉なのは、崩し切れず、意図せぬフルコート仕様の背走を毎度余儀なくされ無惨に散った前体制も、ハナからフルコートありきで前線までのロングスプリントが必要な現体制も、起きている現象それ自体に変わりはないこと。前体制時は何より「コンパクトさ」が生命線でした。しかし自分達の土俵に相手を引き摺り込めず、その結果、長い距離を背走してはチームが間延びする試合も多々あった。その点、「長い距離を走る」その前提に立ち、予めチーム作りを進めるマッシモの方が手堅いことは言うまでもありません。必要なトレーニングを課し、それを可能とするメンバーでチーム構成する。前か後ろ、走る方向に違いこそあれど、長い距離を走っているその事実は、以前も今も変わりありません。ここで何より重要な違いは、それを「求めていなかった」か「求めていた」か、です。

熱狂から結果至上主義の世界へ

外に目を向ければ、よりハイテンポで、攻守が目まぐるしく入れ替わるインテンシティの高いフットボールが、世界を席巻しています。限られた時間とスペースの奪い合いの中で、各々が抱える戦力にマッチした戦法で凌ぎを削っている。

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我々名古屋も「攻守一体の攻撃的サッカー」そんなテーマを掲げ、この2年半突き進んできました。風間氏といえば、やれ攻撃サッカーだと目に見える派手な部分ばかり強調されますが、そのフットボールの特徴もまた、ハイテンポで高いインテンシティを誇るものであったことが挙げられます。惜しむらくは、「自分達」この主語が強すぎるが故に、コンスタントにそれを発揮出来なかったことです。ただし圧倒的な攻撃志向をベースに、自分達の土俵に相手を引き摺り込んだ時のクオリティは素晴らしかった。今季だけで言っても、ホームでの札幌戦や川崎戦、アウェーでの横浜戦、大分戦。狭いエリアで求められる技術、プレー強度だけでいえば、何処も太刀打ち出来ないレベルにありました。彼もまた、欧州の第一線からインスパイアされたものがあったはずです。

そしてマッシモ。彼のフットボールはまさに「攻守分業型」です。ピッチをフル活用する前提で、7〜8人が低い位置にブロックを構え、奪ったら前線の3〜4枚で素早くフィニッシュまで持ち込む。攻撃が終われば長い距離を移動し、再度ブロックを形成する。行って守っての繰り返し。常に攻守のターンが一定のリズムで行き来するフットボールは、世界のトレンドからすれば「攻守一体」とは言い難いでしょう。

ポゼッションもカウンターも相手や状況によって使い分けるハイブリッドなフットボール、これこそが現代のトレンドです。その一方で今季の名古屋に関して言えば、まさに二項対立の如く、その対極のフットボールをそれぞれ体感していると言っても過言ではありません。どちらも極端であるが故に、ワンパターンしか選択できない点が大きな問題です。

結果を追い求める中で覆い隠されたもの

神戸戦での我々は、殆どの時間で相手にボールを明け渡し、そのボールを追いかけ回す時間が続きました。「ボールを『持たせる』発想自体がおかしい」風間氏が真っ向から否定したフットボールで、我々は見事に勝ち点3を奪い取った。

もちろん、この限られた時間と差し迫った状況下だからこそ、マッシモはこのフットボールをチョイスしているのかもしれません。これが今だけなのか、この先もなのかは分からない。但しこの5試合に限っていえば、マッシモが魅せた撤退したブロックからの個人能力に特化したカウンタースタイルは、まさに一昔前、世界を席巻していたイタリアのフットボールそのものでした。では現在もそれが世界を牛耳っているかと問われれば、イタリアのフットボールは世界レベルでは勝てなくなり、観客動員も壊滅的な状況に追い込まれ、遂には他国のスタイルを追随する立場に追いやられてしまった。

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ただひたすらにボールを追いかけるフットボールで、観ている者が楽しめるのか。選手達に成長する実感があるのか。それは魅力的に映るのか。このフットボールに伸び代が存在するのか。数年前、カルチョがぶち当たった壁に、近い将来我々が遭遇しないか。そう危惧するほどには、豊田に吹いたカルチョの風は、あまりに古めかしいものでした。

私自身も、神戸戦では一つ一つのゴールに歓喜し、勝利の事実に安堵したことは言うまでもありません。マッシモのフットボールに関心もあれば、彼の美学を尊重する気持ちもある。ただ、それでも尚、こう思うのです。結局のところ、我々の応援するクラブは一体何処に向かっているのか、と。

良くも悪くも先鋭的で、常識外れ。ハイテンポ且つ、高い強度と技術を駆使したフットボールでJの頂を目指した我々は、その道に頓挫し、今、驚くほど対極にある懐古的なフットボールに結果として行き着いた。世界がポジショナルプレーとストーミング、二つの手段で対峙するこの時代に。

スタイルを追い求め、固執し、迷走した末に辿り着いた勝ち点3。我々が飢えに飢えた「結果」をもたらしたそれは、結果至上主義の国が生んだ、現実的で、手堅く、無駄も、そして驚きもない、恐ろしく合理的なフットボールでした。

まるでこれまでのスタイルを、真っ向から否定するように。