みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

失った自信を取り戻すために

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「J2に落ちてやり直せ!」

試合後、あるサポーターは挨拶に回る選手達に向かってこう叫んだそうだ。

「お前それでもサポーターか!!」

ユニフォームを着用した年配のサポーターがこう反応し、メインスタンドでは言い争いが始まった。

七連敗。これが今私達に突き付けられた現実である。我らが名古屋グランパスは、10試合を終え2勝1分7敗、最下位。開幕から2勝1分の好スタートで発進したものの、リーグではそこから勝利に見放されてしまっている。特に3月31日、鳥栖戦から始まった毎週2試合の過密日程に耐えうる力がなかったことは明白で、そこから全て歯車が狂ってしまったように思う。怪我人、コンディション不良。満足な選手層とは言えないこのチームにおいて、この二つの足枷が想像以上に重いものであったのは事実だ。

一度狂った歯車は簡単には戻らないもので、なにより「攻撃」からアプローチしているチームである。崩せない、ミスが起きる、奪われ、走られる。ジャブの如く毎試合積み重なるこの現象に選手達は疲弊し、風間サッカーの生命線である「距離感」は失われてしまった。

そしてもう一つ失ったものが「自信」。己のミスが相手のカウンターに繋がり、失点に直結する。リスクのあるサッカーは魅力的である反面、非常に脆いものだ。そのリスクに見合うだけの成果が得られなければ、取ったリスクの分だけ跳ね返ってくるのが世の常。繰り返される相手のカウンター、失点。それが選手の自信を奪い、風間サッカーの肝である「チャレンジする」意欲すら奪ってしまっているように思う。

上手くいかないチームに残されたのは「味方任せのパス」。風間サッカーの代名詞である相手に仕掛ける行為は、本来ボールに近いゾーンで複数人が絡み合い生まれるもの。いるべき場所に仲間がいなければ当然成立はしないし、仲間を頼る以外に意図のないパスには、何かが起こる可能性も、観衆を魅了する力も存在しない。

この連戦の内容を戦術的な要素のみにフォーカスし語るのは難しいだろう。今このチームが抱えている問題はそれよりもっと根深く、戦術の根幹を成すものであると考えるからだ。

風間監督は言う。「自信とは技術だ」と。

ではその自信を失ったとき、チームは何が出来るのだろうか。

「サッカーはテクニックだけではない」

以前とあるインタビューでジョーはこう語っている。

サッカーはテクニックだけでは出来ない。試合によっては気持ちで勝つことも必要だと思う。テクニックが使えない試合だと思ったならば、気持ちで負けるのがすごく良くない。逆に気持ちさえ負けていなければ、気持ちだけは最初から最後まで負けないことが大事なんだ

この連戦で唯一勝利した試合、ルヴァン杯の広島戦を思い出す。

決勝点になったジョーのゴール。ワシントンのクロスは決して美しいものではなかった。シュートを放ったアーリアは相手とぶつかり合いながら執念でシュートまでこぎつけた。ゴールが決まった瞬間、誰もがガッツポーズをし、ベンチから選手達が飛び出した。リードしてから内田が、押谷が、球際で相手と戦い、懸命に走った。

サポーターはあの日、決して美しい試合を見たわけではない。ただピッチの中に吸い寄せられたのは、選手達から「勝ちたい」という気持ちがプレーを通して痛いほど伝わったからだ。選手の気持ちはサポーターに乗り移る。だからこそ共に戦い、勝って欲しいと願った。サポーターの声が、選手を奮い立たせ、走らせた。勝利を告げるホイッスルが鳴った瞬間、誰もが心の底から喜んだ。たかだかルヴァンの一勝である。ただあの試合は、紛れもなく選手とサポーター。共に掴んだ勝利だった。

初めて鳴り響いたブーイング

気持ちとは、相手に勝ちたいという想いだ。相手に勝ちたいという想いは、球際でのプレーに表れる。広島戦の後に行われた二試合、神戸戦と清水戦でサポーターに暗い影を落としたのは、こういった想いがプレーを通して伝わってこなかったからではないだろうか。清水戦後、誰もがシャビエルとホーシャを称賛したのは、決して彼等が喜怒哀楽を前面に表すからではない。彼らのプレーそのものに、絶対に勝ちたいという想いが満ちていたからだ。

当然ピッチに立つ選手全員が勝ちたいだろう。それぞれがそれぞれのやり方で負けたくないという想いは持っていたに違いない。ただプロの世界はそれが当たり前ではないだろうか。その上で、自分がなんとかしてやろうと自身の力を信じて戦っていた人間があのピッチに何人いたか。断言する。その想いは必ずプレーに表れ、プレーを通してサポーターに伝わる。

試合後、スタジアムには今季初めての痛烈なブーイングが鳴り響いた。

私のようなメインでまったり見るようなサポーターとは違う。ゴール裏にいるサポーター達は選手と共に戦っているのだ。ボールを蹴ることも、シュートを打つことも出来ない。だからこそ声をあげ、90分間飛び続け、声援を送ることで勝って欲しいという願いをそこに込める。

失点をすると下を向いてしまう。出来ていたことが途端に出来なくなる。そのまま為す術なく時間のみがむなしく経過する。サポーターにとってはそれが何より耐え難く、悔しいのである。

決して美しくなくてもいい。それが出来なくても、せめて最後まで相手と泥臭く戦って、ゴールを、勝利を目指してほしいのだ。

サポーターは無力である。どれだけ応援しても、毎試合スタジアムに足を運んでも、ピッチで実際に戦うことは出来ない。だからこそピッチで戦える選手達が、サポーターの為に戦わないといけない。その想いを背負って、目の前にいる敵に勝ちたいと強く思わなければいけない。そういう対象だからこそ、選手は憧れと尊敬を集めるのだ。

華麗なサッカーは観衆を魅了する。ただ観衆を熱く出来るのは勇敢なサッカーなのだ。

清水戦のロスタイム、名古屋のゴール裏からはいつもの圧倒的な声が消えていた。あれはサポーターの責任ではない。声を出す意欲を削いだのは、他でもないチーム、選手である。

あの光景は、今の名古屋そのものだった。

無抵抗のまま終わるのか

中断期間までリーグ戦は残り5試合残されている。全ての試合が中二日、ないしは三日では出来ることも限られる。せいぜいコンディショニングの調整くらいだろう。当然プレーに関するアプローチはするにしても、普通に考えれば劇的にサッカーの質が向上するとは考えづらい。なにせそこはブレない風間八宏である。組織ではなく個の成長に拘るからこそ、一日二日で技術が急に向上することはない。

ただ風間監督なりに少々の手は施しているようにも見える。相手を崩しきれないチームの状態を考慮してか、奪われたら闇雲に前から奪いに行く戦術に見切りをつけ、まずブロックを形成する形にマイナーチェンジしている。風間八宏の代名詞である「相手コートでサッカーを繰り広げる」理想から微調整をかけたことは、彼なりの勝利への意地だろう。ここ最近、ことさらに「自信」「チャレンジ」という言葉を繰り返すのも、選手への彼なりのメッセージであると窺える。

技術があるのだから自信を持ってチャレンジして欲しい。チャレンジしなければ成功はなく、成功しなければ自信は確信に変わらない。それを実現するために、風間監督も戦っている。様々なアプローチとヒントを与えることで。

リーグが中断するまでなす術なく12連敗を喫するか、勝ち点を一でも二でも積み上げるか。

最後にある女性サポーターの声を紹介したい。

「私は今、クラブが進めていこうとしていることがいつか花を咲かせるのを見たい。そのためには寒い冬にも耐えます。深い理由なんてありません。ただただ、楽しみなんです」

賛否両論ある。踏ん張ろうと声を出す人もいれば、必死だからこそ心が折れかけている人もいる。あまりにも愚直で、極端で、ブレない風間八宏のやり方に疑問を持つ者も当然いる。他のサポーターから見ていても不思議だろう。いつまで支持しているのかと。

ただそんな中できっと多くの人に共通する想い、それがこの言葉ではないだろうか。

二年前の降格。思い出したくない過去をもってしても尚、支えたい、支えようと思えるのはこの想いがあるからこそだ。そしてこのクラブを信じる気持ちこそが私達の支えである。

冒頭で紹介したサポーター同士の言い争い。一見相反するようで、彼等の根底にあるものは同じである。勝ちたい、勝つ姿を見たい。

風間八宏と、選手達の力が試されている。

 

 

 ※このブログで使用した画像は名古屋グランパス公式サイトより引用したものです