みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

今こそ「スクラム」のように

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

その目にどう映るかは、そのときの気持ち次第。

マッシモ体制での初陣となった広島戦。そしてホームでの大分戦。個人的なことをお話しすると、まさに目の前の現実と、それを受け止める己の気持ちで葛藤した二試合でした。

突然に迎えた風間体制の終焉。登っていた梯子を外されたようで、どう今のチームと向き合えばいいか、そんな迷路に急に迷い込んだ気分とでも言いましょうか。なんだかんだ応援する気持ちは変わらないのに、正直に言えば、どこかで素直に応援出来ない自分もいて。率直に、複雑でした、とても。

今回は、そんなことを少し振り返ろうと思います。

喪失感の理由は、監督にあったのか

風間八宏に「契約解除」という名の解任劇が起きてからというもの、それはもう様々な方とお話しをしました。同じようなスタンスで応援してきた方は、先日の一連の出来事に対し当然似た意見を持っていたし、風間八宏自体には否定的な意見だった方も、不思議と今は似通った感想を抱いていたり。

彼が解任されて今日に至るまでに改めて確信したんです。この行き場のない感情は、決して風間八宏の解任だけが全てではない、と。彼一人に想いを乗せていたわけではなかった。彼は僕がこのクラブに抱いていた希望の、あくまで「監督」の立ち位置、役割を担う人物で、それ以上にはなり得ません。では結局その「希望」が何だったのかと言えば、三シーズン前に降格し、そこから生まれ変わろうとするクラブに抱いたあの想い、だったんだと。もう一度作り上げよう、そんなあの新鮮な空気感。あれこそがまさに希望そのものだった。その空気が不穏なものになりつつあると自覚したその事実こそが、この行き場のない感情の正体ではないか。彼が解任されてからのこの数週間は、それを痛感する日々でした。

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

思い起こせば、考えうる中でも最悪の落ち方をしたあのシーズン。クラブの内部事情は散々で、チームは半ば解散寸前のような形で解体。僕にとってあの降格で残ったものは「虚しさ」だけでした。やりきれない想い、あの何とも重苦しい閉塞感。そこから毎日繰り返した自問自答。「やっぱり俺はこのクラブ以外応援出来ないんだ」そう自覚したとき、クラブは動き始めた。社長が変わり、監督に風間八宏が就任。佐藤寿人が加入し、玉田圭司が帰ってきた。楢さんが、泰士が残留した。自身の気持ちに呼応するように、クラブも「一からやり直すんだ」そんな意思表示をしているようで、新体制初日の練習場でその空気を肌で感じたときに確信したんです。このチームは、生まれ変わると。それ以降、僕自身もTwitterを始め、ブログまで書き始める始末。「作っている」この実感が、なにより幸せだったんですね。そのベクトルはチームも、それこそ僕のような存在でも同じでした。賛否両論あっても風間八宏フットボールを全面的に理解しようと思えたのは、彼自身の哲学である「唯一無二のものを作る」この想いが、あの頃の我々のクラブにはぴったりだと思えたからです。目の前にあるものではなくて、半歩先、一歩先、二歩先....見えないものに向かって皆で突き進む感覚に、僕は希望とか未来みたいなものを感じていたんだと思います。

「速さ」の定義が変わり、自覚した現実

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

その文脈においていえば、もちろん風間体制が終焉を迎えた事実は残念です。ただ一方で考えてみると、そもそも順調にいってもこの体制は今シーズン限りで終わっていた可能性もあります。丸三年、それがずっと続くものではないことくらい重々承知していました。その前提でいえば、半年早いか遅いかの違い。だから最初に「梯子を外された」と表現したのは、決して風間体制が終わった事実を指しているわけではありません。その終わり方、が歯痒かった。

より速くなりますよね。今日の練習を見ていても、やはり速い攻撃にはなっていくし、グランパスのサッカーでここのところ低調だったところは、スピードも上がらない、遅くてフィニッシュまでいけない、無駄なボール回しも多かった

風間八宏の契約解除、そして後任となるマッシモの初日練習を終えインタビューに答えた大森スポーツダイレクター。この言葉を目にした時、「風間体制が終わった」そんなありふれた監督人事の話ではなく、このクラブがあの日から積み上げてきたものを否定されたような、その夢の終わりを否が応でも突きつけられた気がしました。もう終わったんだ、と。

何故なら我々にとっての「速さ」とは、スペースを使わず、相手を剥がし、正確に速くボールを届ける技術のことであったはずだから。決してスペースありきのカウンターの速さではなかったはず。梯子を外されたとは、家を建てる中で、その完成を見ることなく工事の中止を告げられた感覚を覚えたからです。まあ、全ては勝てなかったから悪いんだ。

感傷に浸る間もなく、マッシモ体制はスタートしました。広島戦と大分戦の二試合、皆さんはどんな感想を抱いたでしょうか。僕個人としては、少なくともチームが表現しようとしていることに、もはや「風間色」の気配は感じませんでした。たった二試合で、それは殆ど失われた。ただプレーするのは選手だから、時折、崩しの局面であったり、パス交換での選手間の関係性においてはその香りも感じるんです。それはただひたすらに選手にフォーカスする監督だったからこそ残すことが出来た遺産。選手達に与えられた型自体はもはや全くの別物でも、ボールを持ったときに選手と選手を繋ぐ技術や感性の中に、紛れもなくそれは生きていると感じます。

今、マッシモが全精力をあげて取り組んでいることも、試合中の采配も、やはりこれまでとは全く違います。正反対、そう言ってもいい。ただマッシモはマッシモであり、それが風間八宏と同じである必要性は全くありません。とはいえチームの方向性の観点で、これまでの文脈が殆ど感じられないことに、我々は別の道を歩きだしたんだと改めて自覚させられる。案の定、マッシモの言葉は象徴的でした。

私が就任する前に16試合で勝ち点を「11」しか獲得していなかった状況でしたので、「こういうサッカーをやりたい」という理想を言っている場合ではないと選手には伝えています。(中略)今は勝ち点を積み上げることでチームとしてやりたいことにフォーカスをする。とにかく泥臭いサッカーになったとしても、勝ち点を獲得することにこだわらなければいけない。瞬間瞬間で「こういう試合をしたい」ではなく「こういう試合をするべき」と状況を読んで判断しようと

今更書くまでもなく、僕は「ただ目の前の試合に勝てばいい」、そんな風に思えるタチではありません。あのとき絶望を味わったからこそ、新たにこのクラブが紡ぎだしたストーリーに惹かれていたし、それがどんなフットボールでも最大限の支持と、応援、そして夢を見ていました。マッシモのこの発言は至極真っ当で、それに対して文句なんて何もない。だけれども、おそらく多くのファミリーがここ数年、心を動かされていた最大の要因はこの「理想」なんです。だから、チームを強化する大森スポーツダイレクターに始まり、現場を指揮するマッシモと、その文脈を真っ向から否定するようなその言葉に、これが現実なんだと感じざるを得なかった。皮肉にも、彼らの目はしっかり揃っていました。

「与えられる側」から「与える側」へ

ただあれから少しだけ時間が経ち、改めて現実に目を向け、今のありのままの姿を理解したいと思う自分がいるのも事実です。恥ずかしい話ですが、今回ばかりは結構ショックでした。あからさまに落ち込むことはなくとも、時折「あぁ監督代わったんだよな」「あのまま進んでいたら、果たしてどうなっていたんだろう」なんて。それだけの期待値と、この約二年半、いや降格したシーズンも含めれば約三年半の間で起こったストーリーに心を動かされた一人だったから。鼻で笑われるようなぶっ飛んだフットボールも、この期に及んで理想ばかり振りかざす言葉の数々も、これらの月日で起きていたことは紛れもなく我々だけのストーリーでした。だから、その日々は楽しく、そしてなにより誇らしかった。

2016年シーズンのあの最終節、湘南に敗れ降格が決定した瑞穂のスタンドに、希望の光などなかったように思います。

あれから約二年半。

フロントと現場が我々に与えてくれたもの。それはスタジアムに来る醍醐味であり、ピッチ上から感じられる興奮や喜び、なにより楽しさ、ではなかったでしょうか。風間さんの最大の功績も、やはりここにあったように思います。

別れた彼女を惜しむような女々しい話はこれで最後。仮にそのストーリーがここで幕を閉じようとも、クラブの歴史は続いていきます。そんなとき、ふと考えることがありました。我々はただの傍観者にしか成り得ないのか。「我々がクラブに与えられるもの」は何もないのか、と。

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

話は逸れますが、最近ラグビーのワールドカップが盛り上がっています。恥ずかしながらルールは全く分かりませんが、その中でもとりわけ「スクラム」が印象的です。チームスポーツが強調されるラグビーにおいて、このプレーほど「チーム力」や「仲間の存在」を感じられる場面はありません。こじつけだと思われるかもしれませんが、あのスクラムにおけるフォワードとバックスの関係性は、我々でいう選手とサポーターの関係性にも当てはまる気がします。

「選手達」バックス陣が前に進めるように、我々「サポーター(ここではそう呼ぶこととします)」が身体を張って道を開く。もちろん試合の見方は様々で、ゴール裏で声をあげ、ともに戦おうとする人達もいれば、例えば僕のように指定席で座って応援している人達もいます。いくらスクラムといえ、それぞれが担えるポジションはあるでしょう。ただそのポジションこそ違えど、応援する、戦う想いが同じならそれはもうスクラムの一員ではないでしょうか。そのスクラムが一人でも多く繋がれば、チームがどれだけ揺らごうとも、そのパワーだけは絶対に揺るぎない。どれだけ後ろから走り込む選手達が変わろうとも、我々がこのクラブを応援し、ともに戦う限りは、少なくともスクラムを組むこのフォワード陣だけは不変である。大袈裟な例えですが、「クラブとともに歩む」とは、「クラブの歴史とともに歩む」と同義であり、我々サポーターがそんな存在であれば、クラブの魅力は損なわれないのではないか。そう感じました。常にそこにあるのはマスコットだけではありません。我々も同様です。

あえてこう表現したい。『脱』風間八宏、と

おそらく、この約二年半における名古屋グランパスのブランドは「風間八宏」でした(異論はあるかもしれませんが)。名古屋に加入した選手達は、この場所を選ぶ理由として口々に彼の名を挙げていたのは事実です。その彼が我々に残したものがあるとすれば。それは今の瑞穂や豊スタのあの「一体感」ではないでしょうか。だからこそ試されている気がしたんです。彼がいなくとも、次は我々名古屋を応援する者達がブランドになる時ではないかと。「あのスタジアムでプレーしたい」そう思ってもらえるような場所の一員として。

[http://Embed from Getty Images :embed:cite]

我々の目標は、まずは目先の結果といえる「残留」に変わりました。例えそこに派手さが失われても、ロマンがなくとも、こうなればしがみついてでも残留を勝ち取りたい。次にもし落ちることがあれば、それこそこれまでのピッチ上の遺産は、選手流出という形で今度こそ全て失われます。これまでの歩みを無駄にしないためには、我々はこのステージに残らなければいけない。絶対に、です。そのために、マッシモはマッシモのやり方でこのチームを鍛え直しています。その行為を否定するつもりなど一切ありません。このクラブのために必死なのは、彼もまた同じなのだから。

そして最後に。もし少しだけ未来に目を向けることが許されるならば、どうか現在のアカデミーとトップチームの連携だけはクラブの財産として大切にして欲しい。結果、そしてスタイル。この数年間、積み上げてきたのは決してトップチームだけではありません。先日、成瀬がこうインタビューに答えています。「僕は前のチームのコンセプトが、ユースからも染みついていたものでした」と。アカデミーの位置付け、トップチームとの融合。この点だけは、トップチームの方針に左右されることなく、「クラブの文化」として、その役割をしっかり定義して欲しい。どう選手を育て、どうトップチームに繋げるのか。彼らが示し続けるその結果に、クラブは真摯に向き合う必要があるのではないでしょうか。「クラブの文化」に成り得る、そこまで昇華出来る可能性でいえば、今ポールポジションにいるのは、他でもない彼らです。

与えられる側から、与える側へ。貫きましょう。