みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

クソリプ、時々、妬み。

cakes.mu

この記事、素晴らしかったですね(無料期間は既に終了)。

最近もTwitterで悩む若者を見ながら、僕自身も「自分にとってのSNSって、そもそも何のためにあったんだっけ」なんて時々ですが考えたりしてました。今更SNS論、厨二病ですねごめんなさい。でもSNS、意外と難しいよね(共感をください)。なんか悩む方の気持ち、分かる気がしていて。

今回はSNS(てかTwitter)の難しさを、これまで僕自身体験してきた苦い経験も交えつつ考えてみたい、そんなお話。

「好き」を発信したい

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そもそも僕自身も始めたきっかけは、「好きなことを、好きなときに、(同じ対象を)好きな人達と語りたい、共有したい」これだけです。ご存知の通り、好きな対象とはサッカークラブの名古屋グランパス。2016年に初の降格を経験し、ある意味一からの出直しを迫られた我々のクラブ。その這い上がっていく様を皆さんと共有したい、何故かそう思ってしまった2年前の春。恥ずかしながら初めてでした、そんな気持ち(恋じゃないです)。なので当時はドがつくSNS初心者。デジタルな人間ではない僕がこの世界に入っていくのは、少しばかり勇気が必要だったのを覚えています。

ありがたいことに認知だけは少しずつされるようになりました。感じた想いを吐き出したい、それでキャッチボールが出来たらいいな。その程度の願望が、あれよあれよと共通の「好き」が人を繋いで仲間がちょっとは出来たり、予想だにもしなかった書きごとなんか始めまして、気づいたら定期購読してた媒体(webですが)に寄稿したり、面識のなかった方と予期せぬ出会いがあったり。正直恵まれていたと思いますし、勿論そう思えるのは周りの皆さんのおかげです。わざわざ長いブログに時間を割いて読んでくれる。しかもコメントまで時に貰えたりする。控えめに貴方達は神です。Twitterで少しばかりは自分を取り巻く環境も変わった気がします。というか現代におけるSNSの認識が不足していました。あぁもはやバーチャルの世界だけではないのだなと。

皆さんにもそれぞれにSNSを始めたきっかけはおそらくあって、その動機をもって今の運用方法が自然と決まってると思うんですね。僕の場合は先程書いた通り、あくまで「好きなことの発信、共有」です。だから無意識にもそれ以外のことは殆どツイートしてないことに気づきます。おそらくそういった欲をSNSに求めていなかったんでしょう。

開かれた場所であるからこその難しさ

ただどんな気持ちでやっていようが、不思議と足を引っ張りたい人は必ずいます。これ、相手を人選出来ない環境である限り逃れられません。僕はとりわけサッカー界隈におけるツールとしてのTwitterの価値、物凄くあると思ってるんです。気軽に言葉を紡げるし、そこには必ず共通の「好き」を持った仲間が存在し、時に異なるクラブの応援者とも横の繋がりが出来る。そこにマスコミ関連のいわゆるプロの方々の情報も転がっていて、ある意味カオスで、でもこれほど様々な繋がりが持てるツールはないんじゃないかって。

ただ同時に経験年数を重ね、自身への認知が少なからずとも上がると、もう一つ気づくんですよ。それは「誰でも参加出来るが故に発生する妬み、不要な繋がり」が存在することにです。これが楽しく使いたかったツールの邪魔をします。

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例えば今の名古屋も悲しいかな一つの例です。指揮をとる風間監督への賛否、いや単純に好き嫌い。極端なほど分かれます。それ全部風間監督が悪いんですけど、そもそも別に好きなら好き、嫌いなら嫌いでいいんです。もっといえば、その対象を「理解したい層」だっている。理由は様々です。好きなクラブが選んだ監督だから、好きなクラブが進もうとする道を深く掘り下げたいから。ただ残念ながら、そんなのお構いなしでどうしても己の感情を人にぶつけないと気が済まない人も中にはいます。いや、ぶつけるだけならまだ良し。異なる意見を持つ者をとにかくねじ伏せたい人がいる。そういった方は、一見理論武装してるように見えても、実際にあたられる側は伝わるじゃないですか、向かってくる動機なんて。これ、例えば異性の容姿に対する趣味を、他人に強要してるのと変わらないわけですよ。黒木華が好きな僕に土屋アンナ押しつけるのは無理があるでしょそうでしょう。

よしではミュートしましょう。でもこの機能、相手からすればその扱いだと知る由もないわけでして、気にせずクソリプなる「足跡」が残せます。正直それも勝手にやっててくれれば構わないんですが、ただ足跡が残ると周りはそのク◯(この例えしか思いつかん)に気づくわけで、その臭いを話題にしちゃうと結局はクソリプ主の思うツボ。利用される余地があるのも考えものです。やはりブロック機能は必要だ。

すると次はこれ。「◯◯にブロックされた」報告。なにあれ。振られた人間が振ってやったみたいに強がるアレよ。あの報告誰向けですか。分かりました、百歩譲っていいでしょう。どうぞ皆様にご報告ください。そうしないとやるせないんでしょう。その代わりもうそっとしといておくれよ。これ単刀直入にク◯迷惑(こうしか表現出来ん)なんだから。

相手に突っかかってブロックされると、それを言い負かしたと勝ち誇った気になる方。違います。それはきっと突然言葉を投げられた相手が、貴方の言葉から「敵意」を感じたからです。議論ではなく、(自分限定の)ロジックをもって打ち負かしたい。そんな気持ちが透けて見えるから、そもそも関わられたくないだけです。都合良く受け取りすぎです。

「妬み」

でも実はこんな方々は可愛いものでして、ほんとに拗らせると永遠粘着してる方もいます。凄いですよ、その執念は。基本的に自分が目立ちたくない、悪者になりたくないので、直接は絡んできません。常にエアリプの嵐。妻にだって(おそらく)ここまで妬まれてないです。ここで冒頭のブログと話が噛み合うのですが、やはりちょっとでも目立ち始めると妬みは必ず起きます。最近、「好きの反対は無関心だ」なんて読みましたがとんでもない。それはまだ平和な世界です。おそらくこういった経験をしたことがないのでは。妬みの力は凄いです。何か貴方にしました?って考えてみても、こういったケースはしてないんです往々にして。ただ気に食わない、その相手にとって面白くない存在だった。実は理由なんてそんなもの。もはや学校のイジメと一緒です。

何故こういったことが起きるか。相手を徹底的に下に見るからです。その相手が周りからチヤホヤされ始めるとどうしても許せない。「ここでは俺が一番だったのに」、そんな自分にとってあるべき理想、暗黙のルールなるものが存在し、それに沿って行動しない人間が現れると我慢ならない。心底自尊心が強い方はやるせなくなってこう言います。「もうTwitterやめます」。こんなの俺の理想じゃないと。ただまずやめません。そんな簡単にやめれたら、そもそもここまで拗らせませんから。仮にブロックしても、この手の方は複数アカウント所持が当たり前。あらゆる手で貶めようとするから無意味です。その場合、悪趣味ですがミュートという名の壁打ちをしてもらいましょう(実際にそうしてます)。

操作一つで出来てしまう壁

ここまで読んでいただくと分かる通り、楽しくやりたいと思って始めたものでも、SNSはどうしたって人と人との関係から逃れられません。よほど気心知れた人だけで形成されていれば別ですが、オープンであるが故にこういった気苦労が消えることはない。これは僕に限った話でもなく、大なり小なりこの手の話、相談を受けたことは何度かあります。

でも僕思うんですけど、本当にツライ瞬間ってこれじゃないですよね。最も堪えるのは、全く予期せぬタイミングで、予想だにしない方にブロック対応されるときです。これは僕も落ち込みます。自分に何か問題があったのか、そう自問自答することもある。でもこれだけあらゆる方と繋がれる場では、きっと起こり得ることなんでしょうね。だって30人程度のクラスでも仲の良いグループとそうでないグループって自然と出来てしまうから。皆と仲良くやろうなんて、物凄く図々しいことなのかもしれません。普段の実生活において、面と向かって「貴方のことが嫌いです」と直接言われることはまずありません。自然と疎遠になって終わり。でもSNSは違います。明確に「ブロック」なる手段をもって、縁を切られたと可視化されます。こればかりは自分の言動も反省しつつ、とはいえ割り切るしかありません。詮索しても真実が分かることはない。つまり相手に理由を求めても仕方ないわけで、気に障ったならごめんなさいとしか言えないわけです。

逆にいえば、それだけ「ブロック」という行為は相手にとって辛い場合もあると理解する必要があります。例えば直接的な実害はなく、単純に気に入らないだけ。そんな相手には、そこまでする必要がない方も必ずいます。これは自戒も込めて記しますが、やはり相手の人となりは可能な範囲で考慮した方が良いです。一度それをして拗れてしまえば、なかなか元の形に戻ることは出来ません。後で気づいても遅い。

大事なのは「どう付き合うか」

youtu.be

最近この動画をたまたま見ました(フル動画は終了)。

この場で語られていることは、つまるところこれまで書いた内容に通ずる話です。つまりこういった煩わしい人間関係に生産性などあるわけもなく、であればハナからクローズドの世界で集まる方が有意義であると。オープンな場の難しさは最近痛感しています。だから気持ちは痛いほど理解出来る。

「好き」を発信し続ける。これ意外と難しいことだと最近感じています。楽しむことを目的として始めたものが、気づけば人間関係のあれこれで気を揉んだり悩むこと、やはりゼロではないんです。だから時々思ってしまう。「あれ、なんのためにSNSやってたんだ?」と。どこかでこのツールが自分にとって消耗型になってないかって。仮にそうだとしたら、わざわざ何のためにその世界に足を突っ込んでるのかと。画面の先になんだか見えない世界があって、そこには沢山の住人がいて、暗黙のルールやマナーも存在する。例えば僕のようにサポーターとしてTwitterをやっている人間には、その世界でのタブーみたいなものも勿論ある。僕自身、初めの頃はそれでかなり悩みましたし、実際に失敗したことも多々あったと思います。良かれと思ってやることも、実は自身に未熟な点があったなんて当たり前のように起こりえます。

大切なことは、このツールとの「付き合い方」です。どういった特性があるか理解した上で、ある程度割り切って使うことが最も楽しく使えるコツなのかな、最近はそう感じています。当然ながら全能ではないんです。だからこそ、良いところと悪いところを理解した上で使用するべきなのだと。

沢山のご縁に恵まれ、僕自身はこのツールに飛び込んだことを後悔していませんし、やめるつもりも今のところありません。同時に人間関係で苦労している、嫌なことがあった、煩わしくなりつつある。そんな方には、改めて自分にとっての使いやすい付き合い方を考えていただいて、無理なく使ってもらいたいなと何目線か分かりませんが願っております。

「人気者ですね」最近そう声をかけていただくことがあります。でもこうも思うんです。いや画面の中にある世界って、そこまで広大ではないよって。例えばフォロワーが五千人いる、一万人いる。それで僕のステータスが何か上がるか、勿論そんなことはありません。それこそ豊田スタジアムって四万人集まるんです。少なく見積もっても三万五千人は僕のブログ読んでないわけです。ちっぽけすぎるやろ自分。

確かに時々錯覚します。画面越しのこの空間も一つの世界として成立しているから、そこでの人間関係がなんだか物凄く生活の大半を占めているような気持ちになるときが。でも画面を閉じれば多くの場合、そこに画面の中の方達は誰もいません。自分の家族や恋人、友人や同僚がいる。「だから画面の中なんて大した存在ではない」、決してそんなことが言いたいわけではありません。指の操作一つで閉じることが可能な世界なんだと、それくらいの心持ちで常にいることが何より大切ではないでしょうか。ただそうは言っても、その世界にも良いことは沢山あります。数々の素敵な出会いもそこにはある(サポ同士の結婚とかはアカンぞ)。え?何今更なこと言ってんだ?いや娘にこう言われて反省したんですよ。移籍の動向毎時間追っかけてキャーキャーやってたらですね、

「パパ、携帯ばっかりいじりすぎ」って。