みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

ちょっと今の気持ちを

前回のブログを書いた際、こんな声を戴きました。

「もう試合の内容書かねーのな」

勿論その声は皮肉の為に存在したわけですが、一方で「確かに」と冷静に受け止める自分がいたのも正直なところです。

直近15試合で1勝5分9敗ですか。改めて酷い結果ですけれど、特にここ数試合、自分自身興味があったのは試合内容ではありませんでした。この期に及んで我々サポーター(ファミリー)に出来ること、目の前の結果をどう受け止めるべきか。そんな率直な心境を、今の自分自身に問いながら必死に考えていたのが事実です。今だからこそ感じられることを、出来るだけ逃げずに向き合う。そこに大きな意味がある気がして、ここ何回かはその手のブログをいくつか書いていたことは、ご存知の方からすれば見ての通りです。

では試合内容に関してはどうだったかという話ですが、改めて考えると、結局「目新しい発見がなかった」ですね。

というのも、流石に2年半もの月日があれば、ある程度、風間監督の哲学であったり、それをピッチにどう落とし込もうとしているのか。見えている部分でいえば、語り尽くしてきた想いはあって。見方を変えれば、そのベースの部分は既にそれなりの形が出来上がりつつあると感じています。

では何故勝てないんだとなるんですが、これは風間監督の言葉を借りれば「我々には見えていない部分」、この解像度が未だ低いからでしょう。見えてないまんまです。以前サッカーダイジェストのコラムで清水英斗さんも言及されていましたが、名古屋の攻撃力は間違いない。ただ当然ながら相手も勝手知ったる事実なわけで、中を固める。結果奪われる、カウンター。その繰り返しです。選手達の体力は徐々に削がれ、生命線であるチームの距離感は間延びしていく。こういった負のループは誰の目にも明らかで、その袋小路に永遠ハマっているのが今の名古屋です。つまり落とし穴はここにあるぞあるぞと忠告されて尚、それに挑んでいるわけです。案の定落ちますよね。なのに何回落ちても挑むし、そのリアクションにも変化がないなんて地獄ループ。

ここで僕のことを棚に上げますと、そもそもがサッカーオタクで、不勉強ながらも最近のトレンドはそれなりに抑えているつもりです。現代のフットボールを牽引するペップグアルディオラを仮に正義だとするならば、あえて狭い場所に突っ込む、選手が寄って意図して密集を作る。その前提で、場所ではなく個を攻略する。風間監督の思考するそれは正反対ですよね。異端児といえば聞こえはいいですが、多くのフットボールフリークにとってそれは理解し難いものでしょう。そして案の定、行き詰まった。その結果起きている悲惨な光景は、「ボール非保持を前提としないチーム作り」を徹底するこのチームにおいては仕方のないことであり、語るにも足りないというのが偽らざる本音です。「出来なかったから起きてしまったこと」に風間監督はさして興味がないはずで、そこに目が向けば、もう少し楽に戦っていたことでしょう。

さて、ではこれでthe endか。いや、我々がそれでも懲りず、期待しているのは、「このフットボールにまだ進む先があるのか」なんです。我々には今見えていないその先に、何か大きな驚きがあるのか。常識を覆す何かが生まれるのか。それは、言い換えれば狭く、密集し、個を攻略するというある種時代と逆行した道の先に、風間監督にしか見えていない何かが存在するのかという意味です。残り8試合でその片鱗を見せることが出来るか。はたまたこの流れのまま、皆の想像通り行き詰まって終わっていくのか。前回のブログでも言及しましたが、仮に後者が現実となれば、来期は別の監督の選択肢が検討されるのは仕方のないことです。その結果に対する責任というものは、ひとえに監督に託されていますから。当初のシーズン目標である今シーズンでのACL出場圏内は、現状は残念ながら遥か彼方のものとなっています。一方でこの2年半愚直に積み重ねてきたものをどう総括するか。これは残り8試合で魅せるフットボール次第ではないでしょうか。

少し気は早いですが、仮にこれまでの戦いを総括しようと考えると、僕は風間監督のフットボールに文句は一つもないんです。あれが彼の思い描くフットボールでしょうし、これは以前にも指摘しましたが、それが変わるようではもはや「彼らしさ」は失われてしまうと思うから。

では彼は何もかもが完璧で、修正点など何一つないかと言えば、勿論そんなこともなくて。僕個人の意見を言わせて貰えば「マネジメント」の部分です。競争原理を働かせた実力主義的なマネジメントを否定するつもりはないのですが、一方でレギュラークラスでない選手達が次々にこのチームを後にしてしまう。ただでさえ「個人」をベースにしたサイクルで回っているこのチームにおいて、それで代わりが獲れないと死活問題となる事実は、それこそこの15試合の中で嫌という程見せつけられたのは紛れもない事実です。出場の機会が乏しい選手達にどんなアプローチをし、このチームの中で競争したいと思わせるか。もし望んだ結果を得られなかったという結論に達するなら、僕とすればそのフットボールの中身ではなく、まずはこの部分こそテコ入れしなければ話にならないのではないか。そんな印象は受けています。

ちなみに今、楽しいですよ。

これだけ負けがこむと、例えばSNSでも他クラブのサポーターの方々はこう言います。「もう風間も終わりだな」とか、「強がるなよ」と。内輪で揉めることもありますよね。

僕も最近はSNSの居心地が悪くなっている自分に気づいていました。なんでだろうって、強がらずに考えてみたんです。意外に心が参ってるのかなあとか。でも結局のところ、こうやって今、目の前にあるものを純粋に楽しむこと自体が、案外と難しいことなんだろうなと思ったんですよね。例えばこのブログにしたって、今あるものを出来るだけ楽しむために自分なりの形で発信してきたわけですが、一方でチームの負けが込んでくると、そもそもこのチーム(それは監督も含めて)を応援していること自体が悪というか、まあ信者だ支持派だいろんな言葉がありますけど、そういう構図が知らず知らずの内に生まれてしまう。望まなくとも、自分もその一員の扱いになってしまう。それを明確に自覚出来ればいいんですが、無意識的にそれに首を突っ込んでると、すごく疲れるんです。だってそこには常に争いがあって、よく分からない勝ち負けが存在して、嫉妬や妬みがあって。例えばこうやって風間監督のフットボールを理解した上で応援し、結果がついてこなかった。その場合、応援していた者は「負け」なのか。いや、当然ながらそんなことはありません。ただ少なくともそれを「負け」だと言わせたい方はいるのかもしれない。そういう空気感って、なんだか楽しくないなとか、疲れるなって感じる時にはっきりと自覚するものです。

当然負けが続けば悔しい。腹も立つ。試合を観ながら「今日は面白くないな」と思うこと、これまで何度あったか。特に風間監督が率いる内は、この感覚がなくなることはないでしょう。上手くやれていない試合なんて殆どがその対象ですから。そこに相手との戦略戦みたいなものは存在しません。

でもこの船が最終的にどこに辿り着くのか。これは興味深いし、楽しいですよ。例えそれが望む場所でも、そうでなくとも。現在の名古屋が歩む歴史を目の当たりにし、そこにどんな絵を描くことが出来るのか。それを一人のサポーター(ファミリー)として応援するのは、楽しい。以前にも書きましたが、そこを望む通りに我々がコントロールすることは出来ませんから。その前提に立った際、では今をどうやって楽しむかと考えると、やはり「今目の前にあるものを受け入れる」しかなくて。その上で応援して、勝った負けたと喜んで悲しんで、最後にその道を総括していく。少なくとも僕にとってはそれが一番楽しいサポーターライフだし、その過程で誰かと争うことって本当に無意味だなって。無意味とは、クラブにそれが何ら反映されないという意味において無意味です。結局、それはただの自己満足にしかなり得ません。

さて、我々が観ているこの先に、新たな道は存在するのか。はたまた明るい未来など存在しないのか。

本日は、殴り書きにて失礼致します。