みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

私達が、過去と決別する日

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最終節の残留がかかる試合で、相手は湘南。場所は瑞穂。

ドラマでも敬遠するような出来過ぎた展開が、今私達に起きている。

二年前の2016年11月3日、私達はこの瑞穂で、湘南を相手に敗北し、降格した。スタジアムにいるサポーターたちが悲しみに暮れる中、ピッチでは当時の指揮官、ボスコがサポーターに熱く語りかけていた。

これは私個人の意見だけれど、火中の栗を拾う形で名古屋に帰ってきてくれたボスコへの感謝こそあれど、「来年もこのチームで」、その気持ちにはどうしてもなれなかったことを覚えている。それはもちろん、目の前にいる選手達に愛想を尽かしていたわけではない。ただどうしても、当時のチームから感じる閉塞感みたいなものが、私の気持ちをどんよりさせた。あの日90分を通して、希望というか、光みたいなものは感じなかった。ゴール裏で見ていた私は、ただ茫然と、ピッチを見つめることしか出来なかった。

その後、私達の選手の多くはチームを去っていった。もしかしたら、チームが降格した以上の悲しみがあったのは、あの時期だっただろうか。毎朝、目が覚める度に飛び込んでくる移籍話は、まさにチームが解体されていく姿そのものだった。

それでもサポーターは、そんな悲しみと正面から向き合い、前を向くことを決意した。そしてそれに応えるように、チームは大きく生まれ変わった。

思い出してもこの二年、様々な苦難があった。

想像以上に厳しい戦いが続いたJ2での日々。おそらく誰もが忘れることのない、プレーオフ決勝。今年、サポーターが一つになった試合として、鹿島戦がクローズアップされたりもしたけれど、あの日のプレーオフ決勝の豊田スタジアムの光景、そして雰囲気を私達は忘れることはないだろう。スタンド中からピッチに声援が飛び、誰もが名古屋の昇格を願ったあの日。

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念願のJ1の舞台。そして悪夢の15戦勝ちなし。そこから怒濤の7連勝。J1でも、このチームはジェットコースターのような日々を送ってきた。特に前半戦の連戦は、正直に言ってあまり記憶がない。休みなく続く試合、勝てない日々。今の状況では勝利は遠い、そう自覚するほど、待ってくれない試合がなんだか消化試合のようで、ある意味で負け慣れてしまっている自分がいたのかもしれない。辛抱の時期。中断期間までそう覚悟は出来たものの、改めて振り返っても、その時期にいい思い出は何一つなかったような気もする。

一年中、風間監督への批判、もっといえば解任論みたいなものも、尽きることはなかった。争う必要のないサポーター同士が、どこにも吐き出せないこの暗闇の痛みや、苦しみを、お互いにぶつけてしまうこともあった。その行為に意味はなくとも、そうすることでしか、あのときの感情はコントロール出来なかったのだと思う。形こそ違えど、皆、このチームのことで必至だった。

そうやって、この一年も、おそらくどこのチームも味わっていないようなどん底の状況を私達は見てきたし、チームと同じように苦しんできて、今がある。

そんなシーズンも、気づけば最終節を残すのみ。そして今、私達は16位。J1参入プレーオフ出場の位置にいる。

まさに決戦前夜。

べたにかつ丼を食らうもの。お酒を飲んでいい気分になっているもの。願掛けに行くもの。決意を新たにするもの。なんだかそわそわするもの。

皆、思い思いにこの決戦前夜を過ごしている。

名古屋公式は、最後の最後でこの男のインタビューを敢行した。

このタイミングで小林裕紀という人物にこだわった公式、そしておそらく嫌々ながらも、カメラの前で話すことを決意した小林にも、なんだか胸が熱くなった。

そんな小林は、広島戦の後、珍しくこんなコメントを残している。普段は本当に口を開かない男だけれど、誰よりも責任感が強く、そして、私たちと想いは一つだった。

このクラブは二度とJ2で戦ってはいけないと思っているので。そこの責任感は一年を通して自分なりに考えてやってきました

風間監督が、どれだけ「特別ではない」「試合に大きいも小さいもない」と言おうが、私達にとって、この最終節はやはり特別な試合だった。この決戦を控えるサポーターの様子、そして実際にプレーする選手の言葉に耳を傾ければ、それはもう明らかだった。どれだけ過去のことだと切り離しても、この状況で湘南と瑞穂で対峙するのは、あまりに出来すぎた話なのだと思う。あの日を思い出さないなんて、言えるはずかない。

ただ一つだけ、降格した時とは違う感覚がある。

それは、こんな状況でも、どこか希望みたいなものを感じられることだ。明日負けたら、また降格の現実が私達に近づいてくるだろう。その恐怖がないとは言えない。ただ、不思議とそれ以上に、明日の決戦を待ち望んでいる自分達がいる気もするのだ。

それは、この二年間でこのチームが私達に与えてくれたものであり、この二年間で私達とチームが築いてきた信頼でもある。このチームともっと前に進みたい、未来に向かいたい。とてもクサい表現だけど、心からそう思うのだ。

残留争い真っ只中の状況でこんなことを言うのもなんだかおかしいけれど、あの状況から、二年でよくここまで来たのだと思う。確かに置かれたシチュエーションは笑ってしまうくらい変化がないけれど、決戦を控える私達の気持ちは、あのときとは全く違うのだから。

皆口には出さないけれど、きっと決戦を控えた夜に改めて感じていると思う。「このチームが心から好きだ」と。私達は選手でも何でもない。サポーター以上でも、以下でもない。ただこれだけそわそわして、かつ丼食べて、願掛けして、お酒で誤魔化して、抑えきれない感情をSNSで吐き出して。日々の暮らしの中で、これだけの「好き」を表現出来る存在は、きっとこれしかない。また、その「好き」が人と人を繋げるのだから、本当に信じられないような存在だと思う。

誰もが他人事ではなく、自分事だ。そしてそれを同じ瞬間に共に共有することが出来る。その力の大きさ、凄さを、あろうことか残留のかかった大切な試合の前日に感じるのだから、不思議である。私達の人生にはそれがある、グランパスが私達を繋げているのだと思うと、なんだか嬉しくなるのだ。

さて、今更ながらこのブログはまさに決戦前夜に書いている。

勝ってから想いを綴るより、今この瞬間の気持ちこそが、このチームへの想いの全てである気がして、フライングながら書いてしまった。負けたらきっとこの文章はゴミ箱行きだし、負けた瞬間、更新ボタンは解除するだろう(チキンだから)。

結果更新されたとしても、よっぽど恥ずかしい文章を書いている気もするが、いいのだこれで。

きっと来年は、もっと楽しくなる。愚直なまでに一歩ずつ進んできたチームである。どれだけ批判されようとも、馬鹿にされようとも、ブレずに、一つずつ積み重ねてきたチーム。だからこそ多くの別れもあった。そして多くの出会いがあった。一年目で昇格、二年目で残留。では三年目は。そう考えるだけで、来シーズンが待ち遠しいではないか。

明日の瑞穂は、二年前のあの日とは、きっと違うはず。私達には希望がある。

私達は2018年12月1日、過去と決別し、未来に進む。

 

 

小さな我が子にJリーグはどう映っただろうか

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子どもとサッカーを観に行くのは、もっと先になると思っていた。

理由?こんなことを書くと怒られそうだが、子供を連れていけば、きっと純粋にサッカー観戦を楽しむことは難しいと思えたから。試合中にトイレに行きたいと言われたらどうだろう。90分間じっとしていてくれる保証なんて勿論ない。試合前にしても、例えばビールを飲んだり、スタグルを楽しむ余裕なんて奪われてしまう気がした。情けないが、一言でいえば私自身が楽しめなくなるなら連れていきたくないと、きっと心のどこかで考えていたのだと思う。改めて書いてみると、なんて無責任な父親なんだとちょっとひいているが、そこは自覚しているのでどうか突っ込まないでいただきたい。

また、私の妻はサッカーが好きではない。回りくどいので言い方を改める。私の妻はサッカーが嫌いだ(この流れで理由など語るまい)。それが何を意味するかといえば、「子どもを連れていく=私一人で連れていく」ということ。はっきり言って荷が重い。子どもが小学生くらいになって、自分でトイレに行けて、なんとなくルールが分かって。それからでもいいのではないか。そう決めていた。

ただ人生の予定など本当にアテにならない。

10月7日。名古屋グランパス豊田スタジアムFC東京との試合を控えていた。事前にチケットを購入したものの、諸事情で観戦を諦めていた試合だ。その後予定が変わり、子どもを連れていけば急遽参戦できることが分かった私は、悩みに悩んだ末、思い切って子供と観戦することを決めた(観たいという動機に勝るものは私の人生になかった)。

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試合当日。前日から支度を完璧に済ませ私は、いつも一緒に観戦する友人と、そして遂に我が子と3人で豊田スタジアムを訪れた。

スタジアムに着くやいなや洗礼が待ち受けていた。急に子どもが鼻血をだすアクシデント。高い気温のせいだろうか。よりにもよって最も懸念し、恐れていた流れである。豊田スタジアムの外には芝生のエリアがいくつかあり(これが助かった)、多くの人たちがピクニックさながらのんびり座ったり寝転がっている。たまたまその近くだったこともあり、急いでそこに子どもを寝かせ、止血をする。頭の中はずっと「N(何故)S(そこで)H(鼻血)」が駆け巡る。そういえば鼻血を出す直前、子どもが自慢げに私に見せてきた指についたあの物体はなんだったんだろう。あの粘り気のありそうな淀んだ色のあれはなんだ。ハ!!気温じゃない。ほじったのか。コイツここぞとばかりに鼻をほじって鼻血を出したのではないか...

そうこうするうちに鼻血は止まり、スタジアムの中からは選手が登場した歓声が聞こえてきた。スタグル堪能、嫁の呪いか予定通り大失敗(失言)。

子どもでも理解できた三つのこと

スタジアムに入ってまずトイレを済まそうと考えた。ここで行かなければ、試合中に「トイレ!!」と掛け声が入るのは間違いなく、まさにラストチャンスである。

それにしても豊田スタジアム、トイレが綺麗で良かった(歓喜)。全くストレスがない。トイレに安心して駆け込める。小さな子供を持つ親にとって、それがどれだけ重要なことか伝わるだろうか。パンツを下して、身体を拭く。要は大人はその場に屈まなければならない。当然その行為をしている最中の子どもの動きなど予測不可能だ。

そんなときにもしトイレが汚かったら?和式しか選択肢がなかったら?きっと大人たちは、そもそもその場所に行くことすら選ばないかもしれない。それは新たな新規顧客(子どもという名の)だけでなく、既存顧客の足すら遠のける決定的な要因となり得る。スタジアム問題が一筋縄でいかないことは重々承知の上で、やはりこの要素は見逃せないものだと改めて痛感した出来事だった。

さて、遂にピッチを見下ろせる観客席に到着した。ここからが本題である(前フリが長いのは仕様)。この日はバックスタンド二階、ホーム寄りの席だった。

何故本題がここからなのか。ここまで書いておいて今更感しかないが、私はこのブログで決して我が子との観戦記を残したかったわけではない。伝えたかったのはここからだ。

私はこの日、サッカーのルールなど分かるはずもなく、せいぜいボールを蹴っていることくらいしか理解できない子どもでも、スタジアムで認識できることが「三つ」あると気がついた。

ゴール裏から響くサポーターによるチャント

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「目を輝かせる」とは、あの日初めて「ゴール裏」という存在を見た瞬間の我が子の表情のことを言うのだろう。じっと、ゴール裏から聞こえる凄まじい音圧の声とともに、その声の主たちを見つめる我が子のその目は、誇張するでもなくまさにキラキラ輝いているように見えた。あれはそう、初めてアンパンマンミュージアムに足を踏み入れた時のそれに近い。身動きもせず、食い入るように見つめるその姿。初めて見るものに対する好奇心と興奮。さすがDA PUMPと荻野目ちゃんにハマっていた我が子である。歌、そう、子どもは歌が大好きだ。

よく日本のサポーターは海外の、いわゆる本場のサポーターと比較される。何故、大の大人が揃いも揃って同じことをするのかと。自然発生するわけでもなく、皆が皆それぞれのリアクションをするでもない。意図的に声を合わせ、フリを揃える。それがときに窮屈で、いかにも日本人的なものだと揶揄されることもある。

ただおそらくバラバラの歓声を聞いても、私の子どもはここまで目を奪われることはなかったと思う。それがどれだけ大きな歓声でも、子どもの目を奪うことは出来なかっただろう。だから日本が優れていると言うつもりはない。ただ何もわからない子どもをワクワクさせる日本のゴール裏文化の凄さを、私は子どもから教えられた気がしたのだ。男性でも女性でも安心してそこに存在することが出来、歌を通して一つになれる。素敵な文化だと心から思えた。我が子よ、そんなこと言ってるパパはゴール裏に生息しないシャイな指定席住人だが許してほしい。あのゴール裏が生み出すパワーに全く貢献していないパパだけど、あれはパパの誇りなのだ。

可愛すぎるマスコット

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チャントに目を奪われていた娘が急にピッチに大声を出し始めたのは、選手入場の直前。グランパスくんファミリーのグララが登場したからだ。

「グラのパコちゃーん」

耳を疑う父。何故グララはグラのパコちゃんと化したのか。少し考えたらすぐに答えは導き出された。我が子はグランパスくんのことを「グラ」と呼んでいる。生まれてすぐにおやすみグランパスくんを買い与えてからというもの、我が子にとってグランパスくんはグラとなった(呼びやすいから)。脱線するが、早めに買い与えて洗脳しておくのは有効、お勧め。

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 そして冒頭の写真である。これは嫁に相談もせず、「子供へのお土産」という大義名分で買ったグランパコちゃんだ。なるほど。我が子の中で、グラの女の子versionは「グラのパコ」なのか(言い易いからパコと呼ばせていた)。赤けりゃ女の子でみんなグラのパコさん認定。

それにしてもマスコットの力は偉大だ。いや、グランパスファミリーの可愛さこそ偉大。華麗な舞を魅せるグラのパコちゃんにすっかり我が子は夢中である。「グラのパコちゃんに会いたかったの」。おぉ...そんな小さな身体で、実は今日叶えたいことがあったのか(父、涙)。やはり日本のマスコット文化は素晴らしい。大人も子どもも同じように可愛いと共感できる存在、尊い以外に適切な言葉が見当たらない。「グラのパコちゃん、知らない間に身体が真っ赤になったんだね」、パパはそんな大人気ないことは言わないよ。

試合中ずっと鳴りやまない野次

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ここからは試合中。「いい?赤を応援するんだよ?」との教えを聞かされた我が子。その純粋さも相まって、「あーか、がんばれ!あーか、がんばれ!」と、まるで幼稚園の運動会さながらの斬新な応援を大声で叫び続ける。想像以上に通るその声に困惑する父。しかしそこはさすがに子どもである。前半10分程度で明らかにピッチへの集中力は削がれていく。ここまでか。最後の武器、ユーチューブに頼るときがきたのではないか。いや、まだだ。ここは事前に購入しておいたコグミとリンゴジュース漬けにしておけばまだ勝機があるかもしれない。初めて購入したコグミのコスパに感動しつつ、まだなんとかなりそうだと思われた矢先、子どもが興味を持つ最後の出来事が起こった。

センスの悪い野次だ。

通称「ハズれ席」。私の界隈ではそう呼んでいる。何がハズれか。近くで試合中ずっとヤジを飛ばしている観客がいる場合、今日選んだ席はハズれだという意味である。

この日、私の席の後方では、試合中ずっと大声でピッチ上に叫び続ける男性が存在した。おそらく決して悪い人間ではない。グランパスのことも好きなのだろう。野次といっても、決してずっとそればかり言っているわけではない。

ただ試合中、サポーターの心の声代表と言わんばかりに実況を永遠続け、何か気に喰わないことが起きれば躊躇なく罵った声を上げるその男性に、自然と我が子の視線は注がれるようになった。私の膝の上で、どれだけ私が邪魔でも必死で振り返ってその男性がいるであろう方向を凝視する我が子。何の脚色でもなく、その目は試合前に初めてゴール裏のサポーターを見たときのそれとは明らかに異なるものだった。勿論我が子の目に、それがどう映っていたかなんて本当のところは分からない。ただ少なくとも、それが子どもにとって楽しいものだったかどうか、親の私にはわかった気がしたのだ。決して野次が全て悪いとは思わない。ただ周りが不快に思うような野次を気にも留めず永遠続けるのは少々趣味が悪い。そこのセンスは大事だ。ときにクスっと笑えるユーモアでもあればまた違うのかもしれない。まあそうは言っても、我が子も途中から父の影響で「黄色の(ゴールドユニの東京のこと)11番なんかしたの!?」と事あるごとに聞いてきたけれど(なんかしたんだよアイツは)。

 後日談だが、あれほどサッカーに行きたいと言ってくれていた我が子は、最近「またサッカー行きたい!?」と聞くと、「行かない。怖いの嫌い」と答えるようになった。その真意は分からない。ただパパは、何故娘が「怖い」という言葉を急に使うようになったのか、どうしても引っかかっているのだ。怖いという感情にとりわけ敏感な年頃である。なんだろう、はっきり言って寂しい(とりあえず豊スタの傾斜が怖かったんだと己に言い聞かせてる)。

Jリーグにしか作り出せない空間を

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もちろんスタジアムは子どものためだけのものではない。怖がるなら連れてくるな、もしかしたらそんなことを言う大人もいるかもしれない。それもスポーツ観戦の魅力で、お金を払っているプロの興行なのだから、野次の一つくらいで文句を言うな。そんな意見もあるだろう。

ただ今回改めて感じたのは、日本のスタジアムにはサッカーのことなど到底理解できない小さな子どもですら驚いたり、ワクワクしたり、楽しめる要素が間違いなく存在するということだ。よく日本を語る際に言われることだが、誰もが安心して訪れることができ、誰もが楽しめるスタジアムがここには存在する。これは紛れもなく、Jリーグが誇るべき文化だ。

歴史が浅いから、日本が本場ではないから、全てを海外が正しいとし、彼らのようになることこそが本当に正しいのか。私達の国には、私達の国でしか作ることのできない空間があるのではないか。全てが同じじゃなくたっていいじゃないか。JリーグにはJリーグだけしか持ち得ない魅力が必ずあるのだと、子どもが教えてくれた気がするのだ。

大人が子どもから学ぶことは沢山ある。子どもは美味しければ美味しいというし、不味ければ不味いと言ってくれる。大人にとって当たり前の景色が、子どもにとっては全てが新鮮で、発見なのだ。願わくば、子どもにサッカー観戦の魅力が少しでも伝わってくれていればいいな、パパはそう思っている(そしてママを取り込め我が子よ)。

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そうだ、試合後は大変だった。なぜならスタジアムから20分程度かかる最寄りの駅まで、ずっと抱っこを強要される鬼ロードになったのだから。疲れて歩けない、そりゃそうだ。よく二時間耐え忍んだ。私は我が子に感謝しつつ、腕の血管が切れるんじゃないかと本気で心配しながら、必死で子供を抱えて帰路に着いた。

帰ってからは、嫁にこの日スタジアムで行われていたガールズフェスタの戦利品(限定商品)を紹介。俺が買ってやったんだと得意げな私。

「初めての観戦だからね、買ってあげたよ。◯◯◯◯円」

「は!?!?!?!?!?!?」

子どもがこの日の想い出をいつまでも覚えてくれているかは分からないが、私に限っていえば、この瞬間の妻の表情と声だけは、消し去りたくてもずっと消えることはないだろう。

 

風間八宏でも女にすがった過去はある

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「プロフェッショナル・サッカー」という本を御存じだろうか。

1998年に勁文社から発行され、今では既に絶版となっている本である(版元も倒産)。著者は風間八宏。彼が自身の現役生活、いや生い立ちも含め赤裸々に語ったおそらく唯一の本。

誰に媚びるでもないその強烈なキャラクターと、それをも凌ぐ振り切れたサッカー観で川崎と名古屋のサポーターを悩ませ続けいや唯一無二のポジションを確立したのが風間八宏だ。これまでもそのサッカー観を垣間見れる本は数多く出版されてきたわけだが、そもそも何故現在のような考えに至ったのか、どんな道程を歩んできたのか知ることが出来る本は少なかった。風間八宏のルーツ、である。

私自身も勉強不足でこの本の存在を知らなかった。きっかけはこの御二方の会話だ。

この本には、彼の生き様が詰まっている。それを知ることは、彼が今率いているチームをより深く理解する上でも役に立つのではないかと考え、このブログで紹介したいと考えた。

今回はこのネタを書きたい、ではない。伝えなければいけないとの勝手な使命感によるものだ。現在も販売しているものであれば買ってくださいと宣伝するだけだが、もう世に出回っていないとなるとこのまま埋もれて終わってしまう。それではあまりにもったいない。こうなったら私がまとめて今に残そうと思った次第だ。おそらく最初で最後、このブログでは風間八宏をこう呼びたいと思う。八宏、と(恥)。

母・洋子との強い絆

風間八宏の母といえば、言わずと知れた「磯料理 八宏の店 まる八」の女将である。年一でアウェー清水戦の際に立ち寄る聖地巡礼スポットのはずが、あまりに美味くて静岡に立ち寄れば必ず足を運ぶ不届き者もいる危険スポット。脱線するが、とにかく旬の食材がこれでもかと提供される隠れた名店。店内には風間氏の写真がありとあらゆる場所に飾ってある。もちろんおばあちゃんだから孫の宏希と宏矢のポスターも飾る。広島時代の同僚が書き連ねたサインの中に、広島繋がりで山本浩二のサインまでぶっこむお茶目っぷり。なお知った風に語っているが、私はまだ行けていない。不届き者からの情報だ(憧れの眼差し)。そんなこんなで今となっては「名物ママ」母、洋子である。

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実は八宏の両親は、彼が小学5年生の時に離婚している(彼の生い立ちは既に知られた話ではあるが)。理由は父親の酒乱癖。酒が入ると暴力を振るう父親に怯えながら、八宏は幼いながらに自身が母親を守らなければと強く感じるようになった。時には恐怖に震えながら、それでも母親を守るために泣きながら父親に体当たりした日もあったそうだ。

「もっと強い男になりたい」。幼い頃から、彼はこう強く願い続けた。彼の自立心は、このときから既に芽生えていた。

離婚後の母親といえば、三人兄弟を育てるために、早朝から鮮魚店に勤め、昼はスーパー、夜は居酒屋を開店して生計を立てた。そんな強い母親を見て、八宏は成長した。

中学二年生の時にはこんなエピソードがある。全清水がドイツ、英国に遠征することに。八宏は当初メンバー外だったものの、その後辞退者が出て追加メンバーに選ばれる。ただし遠征費用は50万円。「いかない」と諦めた八宏に、母は銀行から50万円を引き出してきて、一枚一枚本人に数えさせたそうだ。まるでお金のありがたみを教えるように。その件以来、八宏は母のことを「ひとりの人間」として尊敬するようになった。

その後、高校、大学を経てプロの世界に飛び込もうとする八宏には、当時の日本リーグ1部の全10チームからオファーがあった。元々筑波大学在学中から海外に対する憧れ、挑戦したいとの想いをもっていた彼ではあったが、同時に「苦労している母親を助けたい」と気持ちが揺らぐこともあった。日本でプレーした方が金銭面を考慮しても良いのではないか。ただこのとき進路の相談を受けた母は八宏にこう答えた。

「お前のやりたいものは、そんなものだったのか。安い考えだよ」

自分の道をしっかり探すこと、やりたいこと以上に金銭を優先するような考えではいけないのだと、八宏は心に強く刻んだ(名古屋で云億円稼いでいることは内緒だ)。

また彼のファミリーが今でも仲が良いのは周知の事実だ。オフになれば家族総出で海外旅行へ行ったり、例えば名古屋の試合があれば息子たちが応援に来ている姿も私自身見たことがある。彼が家族を大切にするのは、自身が味わった過去の想いからきているのかもしれない。

 いざドイツへ

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彼のドイツ時代の話を始める際に、まず何が驚きかといえば、当時レバークーゼンにコーチ研修として滞在していた現日本サッカー協会会長、田嶋幸三を頼りにドイツに向かったという事実である。いまやサラリーマンの鑑とはみ出し者の両者。まさに水と油な組み合わせだが、実は筑波大学の先輩後輩の間柄。といっても大学では入れ違いで、実際は日本代表で同じ釜の飯を食った仲だそうだ(代表での田嶋氏は「神様」と尊敬される立場だった。もちろん今は知りません)。

無事テストにも合格した八宏だったが、当時チームには外国籍枠として許可される二名の選手が既に在籍していたため、アマチュア契約としてレバークーゼンに加入した。彼らが所属することとなるレバークーゼンのセカンドチームはドイツ3部リーグ所属。ただし相手によっては1万5千人程度の集客を誇るチームもあったほど、当時そのレベルは高かった。世界とのレベルの差を痛感した八宏だったが、徐々に彼自身は活躍できる試合も増えていった。

ただ当時の八宏にとって、その舞台で試合を続けることはプライドが許さなかった。早くプロに上がりたい、もっと高いレベルのチームでプレーがしたい。時々トップチームで怪我人が出ると、セカンドから繰り上げで選手が召集されることもあったが、外国籍枠の問題で八宏に声がかかることはなかった。

「プロは自分さえ良ければいい。金が稼げればいい」

チームメイトを馬鹿にして、自身の境遇に問題があるのだと現実逃避する日々。毎日酒に溺れた。ドイツ語も全く覚える気がないから、監督やチームメイトに何かを伝えようとする意識も皆無だった。気づけばこのチームに加入してから半年が経ち、彼の相手をする人間は誰もいなくなっていたそうだ。まさに若気の至り。私たちにもあった天狗のような時代が、実は風間八宏にも存在した。親近感、である。

妻・みゆきからの一言

当時八宏には恋人がいた。筑波大学の同期で、現在の妻みゆきである。日本の高校で保健体育教師をしていたみゆきに、八宏はドイツに来てほしいと初めての泣き言を言った。ここは重要なところなのでもう一度。女性に泣き言を言った(あの八宏が)。

そう、男はつらくなると女にすがる。風間八宏もやはり人の子だったのだ。どうでもいい話だが、こういったアドバイスを例えば三好や杉森にしたのだろうか。「つらいときは女にすがれ」と。止める蹴るしか教えていないのは、ちょっとズルいのではなかろうか。だって八宏の分岐点、間違いなくここじゃないか。

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さて、ドイツに来たみゆきは、そのときの八宏のありのままの姿を見て、こう伝えたそうだ。

「日本に帰ってもどうしようもない。ドイツでも、日本でも、どこにいても今の状態では貴方のサッカーなら通じない」

八宏はその言葉に頷くしかなかったそうだ。自覚はしていたものの、逃げ道を探していた八宏にとって、その言葉から目を背けることは出来なかった。

その後正式にみゆきとの結婚を決めた八宏は、一年間在籍したレバークーゼンから離れることを決意する。

レムシャイトへ移籍

次なる移籍先は、同じ3部リーグに所属するレムシャイトである。前所属元であるレバークーゼンのトップマネージャーだったフーベルト・シートが、自身が来季レムシャイトを率いるにあたり、「1年間面倒見るから、一緒に来い。私と一から勉強して、やり直そう」と八宏を引っ張ったのがきっかけだ。この時みゆきとも結婚する運びとなり、八宏は一から出直すことを決めた。

必死にドイツ語を勉強した。監督に求められることもひたむきにこなした。またこのとき八宏はプロ生活を送る上で、もう一つ重要なことを学んだ。それはシート氏からの一言がきっかけだった。

「サッカーで一流になろうとするなら、まず紳士になれ」

日頃から周囲にも気遣いのできる人間でないと、サッカーのグラウンドに立ってもいいプレーはできない。自分さえ良ければ他人など関係ないと考えていた八宏にとって、それは目がさめる想いだった。

レムシャイトでは1年目こそ2部昇格を逃したものの、2年目で悲願の昇格を達成。夢にまで見たプロ選手となり、八宏は2部での戦いを始めた。

ただ初の2部での戦いは厳しいものだった。敗戦に次ぐ敗戦。チームも真っ二つに分裂した。八宏はそのとき既にレムシャイトの中心選手だった。練習後や試合後のミーティングでは、いつも最後に意見を言うのが彼の役目。片言のドイツ語で容赦なく考えを伝えれば、翌日の練習で必ず仕返しの厳しいパスの洗礼が待ち受けていた。彼がいたドイツでは、練習は闘いの場なのだ。技術への挑戦だけではなく、対人関係も学んだ一年。

チームは最終的に一年で3部に降格。彼はレムシャイトを離れる決断をした。

ウーベ・ラインダースとの出会い

八宏にオファーしたのは3チーム。その選択肢の中から、彼は2部に所属するブラウンシュバイクを選ぶ。これまでとは比べ物にならないほどの恵まれた環境。ただ順風満帆な出だしとはいかなかった。リーグ開幕前、バイエルンとの練習試合で怪我をし、その後のリーグ3試合まではプレーしたものの、結果的には同じ箇所を痛めることとなる。内側じん帯断裂。完治まで4ヶ月を要した。

懸命のリハビリを重ねチームに戻ったものの、その頃にはポジションはなくなっていた。練習でもとにかく削られた。そのとき彼が学んだことは、プロは仲良しではなく、大切なのは自分。倒すか倒されるかであるということ。それはドイツに来た当初に貫いた、他人に興味を示さない我儘とは異なるものだ。自身のベストは、最後にはチームのためにあるものだと八宏は理解していた。ただピッチに立つまでは、仲間はあくまでライバルなのだ。

また自信など簡単になくなるものだと悟った。同時に自信は歯を食いしばって頑張れば取り戻すことができることも知った。自信とは、自分で見つけていくものなのだと八宏はこの経験を通して気づいたのだ。例えば「抜けなかったらどうしよう」ではなく、「止められても、ボールを奪い返せば相手を抜いたことと同じ」なのだ。今ではお馴染みの言葉だが、風間八宏にとってこの「自信」という言葉は、大切な、本当に大切なキーワードである。

もう一つ、風間八宏に多大な影響を及ぼした出会いがブラウンシュバイクにはあった。ウーベ・ラインダース。当時チームを率いていた監督だ。

とにかく感情の起伏が激しく、練習もさながら軍隊。ミスに対しても取り立てて厳しい監督だった。八宏は彼と何度も衝突したが、同時に彼から多くのことを学んだ。

「勝ちたいことを倍思え。望むことを倍思え。いい選手になりたいと倍思え」

「勝つか負けるかがすべてなんだ。『絶対勝つ』という強い気持ちを持った選手が何人いるかが勝負だ。11人の中に、ひとりでも『勝ちたい』と思う選手がいたら、チームはダメになる」

怪我をした時も八宏にとってラインダースは天敵だった。「お前は一年契約だからな」、約半年間を棒にふる選手に対して、病院の見舞いの席で言い放ったこの一言で八宏は奮起し、見事カムバックしてみせた。その後、契約延長の話を勝ち取ったものの、そのときには日本のマツダ入りを決意していた八宏は、どれだけ説得されても頑なに首を縦には振らなかった。最後まで彼との契約延長を口説こうとしていたのが他でもないラインダースだったのは皮肉な話である。誰よりも八宏を買っていたのはラインダースだった。

風間八宏にとっての「プロ」とは

これまで彼の半生を簡単にではあるが紹介してきた。ご存知の通り、この後日本に戻りサンフレッチェ広島を優勝まで導く活躍をするわけだが(マツダ加入時は2部だった)、その章はここでは割愛する。ドイツで培ったそのプロ魂で、鬼軍曹の如くチームメイトに厳しくあたり、高みへ引き上げようとする風間八宏については、是非下記の本を読んでほしい。

何故「今西和男」なのか。八宏がドイツから日本に戻ろうと決断できたのは、彼の存在があったからである。現役時代から変わらないポリシー、「大切なのはお金ではなく、自身が惹かれる魅力的な何かがそこにあるか。相手の熱意や誠実さはどうか。そしてなによりプロフェッショナルであるかどうか」。そこだけを指標としてきた男にとって、今西和男とはそれだけ偉大な人物だった。

徳は孤ならず 日本サッカーの育将 今西和男

徳は孤ならず 日本サッカーの育将 今西和男

 

さて、このブログで紹介してきた「プロフェッショナル・サッカー」を通してなにより伝わるのは、圧倒的ともいえるそのプロ意識の高さである。プロとしてのこだわり、失ってはいけないものがこれでもかと語られている。もちろんそれはドイツでの経験で培われたものだ。ドイツの環境こそが彼を作り出した。彼にとってのプロとは、

「貪欲にサッカーの全てを追い求め、努力すること」

である。

彼の持論で「21対1」という話がある。11人に入るためには、まず仲間に一目置かれること。選手は誰もが生活がかかっていて、試合に使われなければ脱落していく世界。だからこそ彼らは仲間であり、敵でもある。新顔が加われば、まず挨拶がわりに2、3本の厳しいパスが飛んでくる。そんな世界で仲間に認められてこそ、初めて「11対11」になれる。

試合でも同様だ。ミス一つすれば仲間から罵られる。だからミスを恐れるようになる。試合に使われても、他の仲間たちに信頼され、納得させないとパスはこない。彼はそんな過酷な世界を生き抜いてきた。余談だが、そう割り切れた彼のメンタルは強靭だった。広島時代、新しい外国籍選手が加入すると、彼は毎回彼らを試した。意地悪なほど強いパスで彼らに挨拶するのが彼の楽しみであり、彼なりの洗礼だった。

ドイツのチームでは全てがライバル。そのライバルを倒し続けて掴んだ技術を出し合って、味方を助け合う。勝利にだけ挑み続ける素晴らしい11人の集団こそが理想なのだ。厳しい環境に耐えてこそ、「怖さ」は「楽しさ」になる。強くなればなるほど「楽しさ」はいっそう膨らむ。それが彼がドイツで学んだ哲学であり、今も彼を支え続ける持論である。「自信とは技術」「相手にビビるな、逃げるな」。名古屋の地を踏んでから、彼は何度この言葉を口にしてきただろうか。彼にとって、それは絶対なのだ。

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最近読んだ雑誌で、中田英寿が過去在籍したイタリアのクラブを訪問する企画があった(AbemaTVでも放送した為、ご存知の方も多いと思うが)。その中でパルマを訪れた際に、彼が口にした言葉が印象的だった。

 全力でいけるところまでいってプレーする。出来るだけ得点に近づけるようにプレーする。それが自分のスタイルだと思ってましたけど、日本代表で求められるようになったのは逆のことでしたからね。行かないで、バランスをとる。チームがそれを求めてるのは分かるんだけど、僕からすると自分の実力を抑えるということ。こんなことをやっていたら、伸びるものも伸びなくなっちゃうんじゃないか(引用元:ナンバー 中田英寿 20年目のイタリア)

これは風間八宏がチーム作りをする上で、なにより大切にしていることでもある。「チームに合わせる」のではなく、「100%の力を持ってチームに貢献する」。彼は日本に帰国後、ドイツ時代とのレベルの違いに苦しみ、自身がアジャストすることを選んだ。その結果、彼はキャリアの晩年をもう一度サッカーを純粋に楽しみたいとの理由でドイツに戻る決断をした。あのとき彼らが抱えていた苦悩は、時代こそ違えどもしかしたら同じ類のものだったのかもしれない。

プロとしての姿勢を説き、そのうえで選手達が持てる力を存分に発揮できる環境をピッチに作る。その手法の是非はともかく、彼が今監督としてやっていることは、結局のところ彼自身が最もサッカーを楽しめていた瞬間を、今度は監督の立場として、選手達に提供しているだけではないか。それこそが選手も、観客も楽しめる唯一の道なのだと強く信じているから。

彼が率いるチームは、もしかしたら彼の生き様そのものなのかもしれない。

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紛れもなく鬼木達のチームだった川崎フロンターレ

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似て非なる相手。名古屋にとって、川崎フロンターレはそんな相手だ。

風間八宏が礎を築いたチームは、鬼木達によって明らかに変化した。ジェットコースターのような驚きや興奮は薄れたかもしれないが、その分、夜のパレードの如く常に華やかで、安心して誰もが楽しめるチームに変貌した。

同じ理想を共有しているはずのチーム同士の対戦。ただそこには紛れもなく大きな差があった。

 

長崎とは異なる戦い方で真っ向から名古屋を潰しに来た川崎

7連勝中、怒涛の快進撃を続ける名古屋にストップをかけたのは最下位の長崎だった。

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 名古屋と真っ向勝負を臨むのではなく、いかに自分達の土俵で戦うか緻密に計算された長崎の術中に嵌った名古屋。その意味で名古屋が最も嵌りやすい相手だったことは事実で、噛み合わせの悪い相手だったことは否めない。

では今回の川崎がどうだったか。戦前の予想としては、名古屋同様おそらく前に出てくる川崎の方が名古屋は戦いやすいのではないか。ボールは握られても、むしろカウンターで刺す流れになれば名古屋も十分勝機があると踏んでいたのは私だけではないだろう。

川崎が狙っていた名古屋のウイークポイントは長崎と同様だった。

4-4-2のライン間に生まれる「縦の間」と「横の間」である。

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 名古屋の守備ブロックが「圧縮する」印象はほとんどない。中を締める意識は強いものの、ボールの動きに合わせて全体がスライドして守るオートマティズムを感じることはなく、均等に配置された選手達が個々の判断でボールにアタックしていく。

そのため「間」で受けようとする選手に滅法弱い。特に最もケアすべき「ボランチ脇」の守備が甘く、このスペースを簡単に相手に取られてしまうのはシーズン開幕時から続く大きな問題だ。

興味深い点として、長崎はこれらのスペースを「手数をかけず速く突き」、川崎は「時間をかけて正確に突く」選択をしたことだ。この選択は当然と言えば当然で、それぞれのチームスタイルがこの決断をさせたに過ぎない。前線に機動力のある選手を配置し、堅い守備をベースに名古屋をおびき寄せた上でカウンターを仕掛けた長崎。逆に技術に絶対の自信をもつ川崎は、ボールを回しながら名古屋陣地を占拠し、その急所を狙い続けた。

 

「時間」を味方にして止める蹴る外すの見本を見せ続けた川崎

「止める蹴るのレベルが違った」

試合後、名古屋サポーターの多くが同様の感想を抱いた。ただ果たして川崎との差はそれだけだったのか。

私が痛感したのは、彼等がボールを受ける際に全く急いでいないことだった。名古屋の選手と比較すると一目瞭然。常に相手のプレッシャーに晒され、ほぼトップスピードの状態で止めて蹴る動作に入る名古屋の選手達。対して川崎の選手は常にほぼフリーの状態で、スピードを緩めてボールを止める。何故それを可能にしたかと言えば、名古屋の守備ブロックの弱点を意識し、常にフリーで受けられるスペースを見つける目。そこに正確にボールを届ける技術と、止める技術、叩いては新たなスペースを見つけ貰い直す質の高い動きを擁していたからに他ならない。

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言い方を変えれば、現状名古屋の守備組織では、あのレベルの相手だと簡単に「時間」と「スペース」を活用されてしまうということだ。時間とスペースがあるからミスがでない。しかもその一連の動作のレベルが高ければ高いほどボールは速く回るし無駄もでない。名古屋とすれば、ボールが入ったタイミングで寄せたくても、その余地すら与えられない。どうやらその点川崎としてはスカウティング通りだったようだ。

名古屋の2トップが戻ってこないので。(中略)1点目の僚太が出したパスのところ、あんなところでは普通は僚太はフリーではいないので。そこはかなり回せるという話は試合中にしてたので(中村憲剛談) 

振り返れば、一点目の大島のパスも、二点目の阿部のシュートも全てフリーである。フリーで受けられる場所に立ち、そこを正確に使われ、無駄なく次の場所にボールを運ばれればなす術はない。この試合、どれだけの場面で中村や阿部、家長に名古屋の最終ライン前でボールを受けられたか。そのほとんどがフリーの状況だったこと、外さなくとも「そもそも外れている場所」を使われ続けた。

 

「ペナ幅」にこだわった名古屋、「ピッチ幅」も活用した川崎

「間」で受けることを手助けした術がもう一つある。それがピッチの横幅も意識したボール回しだ。風間八宏と言えば、「ゴールまで最短距離を目指す」「狭くても外せばフリー」「外は『空いているもの』」こんな名言の数々が示す通り、まず中央を意識させることをチームに課す。何故なら相手が最も警戒するエリアは中央だからだ。そこで相手を喰いつかせれば、必然的に外は「空くもの」。これは彼の理論を読み解くうえで、非常に重要な要素だ。

ただ川崎の場合、鬼木体制になってからそこに執着する意識は弱まったと感じる。中央から割れなければ一度外に広げる。その選択肢を良しとする傾向がある。相手を広げてから、タイミングを見て中央を攻略にかかる。その分名古屋よりスピード感は劣るものの、正対する相手守備陣の網に簡単にかかることはない。ということは、前がかりな状態でボールを奪われ即カウンターという場面も減少する。

同じ「止める、蹴る、外す」でも、その活用法が異なる。川崎はより合理的になったし、一人の選手への依存度が減るサッカーをしている。対して名古屋は圧倒的なスピード感、爆発力を擁するものの、より高いレベルで「外す」要素を求められるため、一人一人への依存度が高い。一つピースが欠けると、簡単には埋まらない。この違いは非常に興味深い点だ。この試合に関していえば、「間」がそもそも弱点の名古屋に対し、更に横幅を使って揺さぶることで名古屋守備陣に生まれるギャップもことごとく活用された。

フロンターレの崩し方はすごく勉強にもなったし、自分達も絶対にできると思う

金井もこんな感想を抱いたようだ。お互いが今後どんな道を歩むのか楽しみである。

 

名古屋の心臓を徹底的に潰した川崎のバンディエラ

では名古屋がボール保持した際はどうだったか。改めて川崎のメンバーを見ると、実は決して「速い」チームではない。小林、中村、家長、阿部、大島。このラインナップを見て、カウンター型のチームだと考えるサッカーファンはいないだろう。例えば長崎のように、ある程度自陣まで引いたうえで名古屋にボールを持たせ、網にかけて縦にカウンターを仕掛ける選択肢をこのチームは選ばない。ボールを支配し、相手陣地を支配するために彼等が選ぶ選択肢は「前から潰す」ことである。

狙われたのがネットだ。中断期間明け以降、名古屋のビルドアップが安定したのは彼の貢献度が非常に高い。

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 彼が後方で時間を生み出せるから他の選手達が良い形でボールを受けられる。名古屋の心臓は、紛れもなくネットだ。川崎はその心臓を徹底的に潰すことを選択した。

彼がボールを触ることから攻撃が始まることは映像を見ていても分かった。だからうちにネットがいたときに、やられて嫌なことをやってやろうと思った。つまりタイトにいこうと。とにかくネットにボールを触らせないように、意図的にポジションを取りました

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最終ラインに落ちるネットに対し、あそこまでぴったりついてきたチームは川崎が初めてだろう。しかもそのマークがとにかくタイトだった。対面の中村が寄せてネットが剥がせず苦労している隙に、二人目も襲いにかかる。あれほどネットが苦しめられた試合は初めてだったし、だからこそそれでも前をむこうとするネットの個人能力の高さに驚かされた試合でもあった。おそらくネットでなければ、もっと無残な形で名古屋の心臓は心肺停止していたはずだ。これで名古屋はほぼ完全に自陣コートを川崎に占領された。

名古屋としては、今回のようにネットが相手のターゲットになった際にどう状況を打開するか課題が残った。中断明け以降ネットの存在で蘇った小林に期待したいが、この試合に関していえば、ネットの調子と付随するように存在感を失ってしまった。彼自身、この点がなによりの課題ではないだろうか。「ネットが消されるなら自分が中心に」、その気概が欲しいと思ってしまうがどうだろうか。

それにしても皮肉だったのは、ネットが対戦相手である川崎から「輸入」した選手だったことだ。川崎のバンディエラには、彼を自由にすることがどれほど危険なことで、何をされると嫌がり、どんなボールの持ち方を好むのか、手に取る様に分かっていたようだ。

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苦しい時に痛感するシャビエルの不在

チームが苦しければ苦しいときほど力を発揮する選手はいるもので、名古屋にとってその存在になり得るのはシャビエルだ。前を向かせてもらえないチームにおいて、背中で相手を背負える選手がどれだけ貴重な存在か。前線のターゲットとなるジョーだけではなく、苦しい時に「繋ぎの起点役」としてターゲットになれるシャビエルの不在が、この試合では特に影響した。

しっかりボールを保持して、横に揺さぶりながら名古屋の網を緩めようとする川崎の攻撃に対し、自陣に押し込まれる分、ボールを奪うとどうしても縦に速く攻めてしまう名古屋。この傾向は前半戦、豊田スタジアムで川崎と戦った際も同様だった。後方でも、また前方でも時間を作る術を持たないから、必然的に縦に速くなる。だからこそ時間を生み出せるシャビエルの不在が大きく影響していたことは否めない。

シャビエルが欠場してからの名古屋の問題点はこれだけではない。彼がいなくなり、名古屋の配置は変わった。前田が前にでて、玉田のポジションが左右逆になった。代わりに左サイドに入っているのが和泉、そして青木。この試合、実は左サイドバックを務める金井のスプリント回数はたった「4回」。逆サイドの宮原が21回、相手の対面にいたエウシーニョが24回であることを考えれば、それがいかに異質な数値か理解出来る。決してそれが悪いと言っているわけではない。金井のプレースタイルは、そもそもサイドで縦に勝負する選手のそれではないのだから。問題は彼の代わりにサイドに張っている和泉や青木が、そこでどんな役割を果たすのか明確でないこと。この点は試合を通して非常に気になる点だった。

またジョーにしても、彼に活躍の機会を与えない最良の方法は、「そもそも彼にボールを持たせない。彼を潰すのではなく、彼に出るボールの出所を潰す」であることを証明され、試合を通してほぼ完璧な形で消されてしまった。その意味では、前述したネット潰しが、結果的にジョー潰しにもなった形だ。

余談だが、ジョーを消すという意味で、地味ながら車屋の存在は目を見張った。名古屋の決定機、ジョーを抑え込んでいた選手は実は左から絞ってくる車屋のケースが多々あった。ここ数試合センターバックとして出場した経験が非常に活きている。

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終わってみれば、風間八宏が理想とする「相手陣地を支配するサッカー」で、はっきりと力負けする形で川崎に屈した名古屋。長崎が名古屋を研究し、自分達の土俵に引きずり込むことで勝機を見出した前節とは違い、今回は同様に研究されたうえで、「自分達のやりたいサッカー」で真っ向から潰された形だ。前からの相手の圧力に屈し、自信を失ってしまった選手達は、さながら前半戦ずっと勝利から遠ざかっていたあの時の姿を彷彿とさせた。試合後、風間八宏はこう語った。

簡単に言うと、目に見えていないものを相手にしてしまった。矢印というものは、ボールを出して自分がもう一度動けばフリーの定義が変わるので簡単に崩せるはずなのですが、立ち上がり、それが出来ていたのは3人くらいでしたね。それ以外の選手は出して終わり、1対1を狙われてしまったということです。当たり前のものが当たり前に見えなければいけない。当たり前のものが当たり前じゃないものに、自分たちの中で錯覚してしまったというところはあったと思います

また川崎についても改めて言及したい。これまで見てきた通り、事前のスカウティングと戦略、チーム戦術としての守備の徹底、止める蹴る外すの活用法の違いなど、風間八宏が植え付けたチームのベースに、鬼木達が自身のカラーを見事に混ぜ合わせたチームに変貌していた。完全に似て非なるチーム。源流は同じでも、進んでいる先は異なるチームだった。

 

 もう一度彼等と戦い、今度こそ叩き潰したい

同じ志向をもって、相手を走らせたい、握りたいというチーム同士の戦いでは当たり前に上回りたい

二戦二敗。シーズンダブル。風間体制後、初対戦となった川崎フロンターレとの二試合は、名古屋にとって返り討ちにあう形で幕を閉じた。中村憲剛の言葉にある通り、力で徹底的にねじ伏せられた格好だ。それでも風間八宏はブレていない。問題点として挙げたのは、あくまでボール保持の場面だ。とにかくそこにこだわった。この試合でいえば、4対3、5対3のスコアで勝ち切るチームにならなければいけない。目指すべき姿は、殴られても殴り返せるチームだ。

名古屋サポーターにとっても、川崎サポーターにとってもこの試合は特別だった。

勿論そんなことはない、特別な相手なんかではないと言うサポーターがいることも承知している。オリジナル10のチームとして、長年Jリーグを盛り上げてきたのは名古屋だし、Jリーグで先にタイトルを取ったのも名古屋だ。逆に川崎としても、昨年のディフェンディングチャンピオンとしてのプライドもあっただろうし、風間八宏に特別な想いなどないと言い切るサポーターもいたことだろう。

ただそれ以上に多くのサポーターにとって、今の名古屋と川崎の試合は同じ理想を標榜するチーム同士の戦いであり、風間八宏が育てたチームという点でも関係のないチームとは言い難かった。「止める蹴る外す」を合言葉に鍛えられた両チーム。どこよりも攻撃的に、そして「魅せる」ことが出来るJ屈指の二チームだと私は思う。意識するのは当然といえば当然だった。

クラブとして見ても類似点はある。近年多くの観客をスタジアムへ呼ぶことに成功し、その街に根付いたクラブとして成長を遂げた川崎は、昨年から観客動員を増やし続ける名古屋にとってお手本のようなチームだ。勿論スタイルは違う。クラブの施策も、例えばゴール裏のチャント一つとっても違う。ただお互い目指す先は同じであろう。クラブレベルでも、現場(ピッチ)レベルでも共感の持てる相手が川崎フロンターレだ。

だからこそ、もう一度彼らに真っ向勝負を臨み、次こそは勝ちたい。そんな相手だからこそ、私達は叩き潰されて終わっていてはいけない。彼らは「乗り越えるべき壁」である。その差に圧倒されるのではなく、その差を今後の楽しみとしなければ。まだまだ強くなれる、そう思うのだ。だから残留しよう。残留して、来年こそは絶対に叩こう。残留が目的ではなく、来年また同じステージで彼らと戦うことをモチベーションに、絶対に残留しなければいけない。

試合後選手達は口々にこう発言した。「完敗だった」「相手が数段上だった」「勉強になった」と。

私達はここで終わるチームではないし、落ちていいチームでもない。この借りは、来年同じ舞台で必ず返さなければいけない。選手だけではない。サポーターも同じ気持ちなのだ。

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バクスターの血を受け継ぐ者と異端児の戦い

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「全てこの試合のために準備してきた」

1勝1分2敗。J1での成績、2戦2敗、3得点7失点。名古屋の対長崎戦における成績である。めっぽう苦手。風間八宏にとって長崎を率いる高木琢也は、マツダ出身の後輩という間柄だ。負けて笑って談笑とはいかないだろう。今シーズン、前半戦では完膚なきまでに叩き潰された(0-3)。迎えた今回は名古屋が7連勝中、かたや長崎はリーグ最下位と、誰もが名古屋の勝利を予想する中での4失点。目も当てられないとはこのことだ。

なるほど、冒頭の高木監督のコメントにも納得。

徹底的に分析された名古屋。そして風間八宏

代表ウィークを挟み、二週間ぶりのリーグ戦。どちらがその期間を有意義に使えたかといえば、おそらく高木琢也率いる長崎だったのではないだろうか。地道な積み上げをはかる名古屋と、その名古屋を叩くために二週間戦略・戦術を落とし込んできた長崎。高木琢也にとって、二週間の猶予は十分すぎたのかもしれない。

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長崎の布陣は前半戦と大きく変更はない。名古屋にとってまずネックだったのがシステムの噛み合わせ。4-4-2の名古屋に対して3-4-2-1の長崎では、名古屋に分が良い構図とはいえない。長崎のキーとなるのはツーシャドーの澤田、そして中村。名古屋とすれば、この二人を誰が見るかが問題となる。また名古屋の攻撃時に関していえば、ネットを含めた3プラス1(小林)でビルドアップを始める名古屋に対して、同数でプレスをかける長崎のプレス部隊が大きな問題となる。これは風間八宏にとっても苦手な形で、長崎同様、札幌相手でも同じような問題を抱え、返り討ちにあっている。

「間受け」に滅法弱い名古屋

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長崎の1点目のシーンである。最終的には長崎の右サイド、飯尾が全くのフリーの状態から折り返し、鈴木武蔵がゴールを決めるわけだが、私としてはこのシーンで勝負アリだったと考える。試合を通して、先ほど挙げた二人、澤田と中村に対する名古屋のマークは最後まで曖昧だった。その証拠に、長崎の3得点は全て彼ら二人が演出している。鈴木武蔵にとっては、完璧にデザインされたその崩しにおいて、最後のフィニッシャーの役目だけを務めれば良かった。このシーンでいえば、丸山の視野外にいた澤田が、ボールがでてくる瞬間に丸山の前に回り込んでボールを受けることに成功している。名古屋にとっては危険なエリアだったにも関わらず、完全フリー。例えばジョーがあの位置で受ける際、これだけフリーな状況が存在するかといえば勿論ない。丸山としても、鈴木と澤田の二枚を同時に見る状況で、ボールを受けた澤田に強くプレッシャーをかけることは出来なかった。

ただこの場面、丸山の様子を見ていると、そこまで慌てているようにも見えない。もしかすると、間受けされることもある程度許容している可能性がある。4-4-2のシステムにおいて、選手間に生まれるスペースは泣き所である。だからこそ各チーム、スライドの徹底や明確な約束事をチーム戦術として必死に取り組むわけだが、その点名古屋の場合は個人のセルフジャッジに依存しているフシがある。だからこそ最後で凌ぎきれば良いと。ただこの後で問題となるのが金井の絞りと、その背後をフォローすべき児玉の状況である。サイドバックがどれだけ絞るべきなのか、サイドハーフがどこまで戻ってくるべきなのか。仮にそこを各々のセルフジャッジで判断しているのであれば、これだけ右サイドが空いてしまった点も今後の反省材料となるのだろう。その証拠に、例えば丸山や金井の様子を見ていても、飯尾にボールが出た瞬間「何故フリーなんだ」と、その瞬間気づくようなそぶりを伺うことが出来る。

 

徹底していたビルドアップ封じ

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前述した通り、名古屋のビルドアップへの対処も準備していた。名古屋のビルドアップはネットが最終ラインに降りて、両センターバック(丸山・中谷)がワイドに開く。両サイドバックは高い位置を取り、小林を中継点とした3プラス1、菱形のような陣形が基本だ(図のようにネットと小林の位置が逆になるケースも有)。それに対して長崎は前線3枚が同数であたり、中盤の1枚が小林をケア。当然両ウイングバックが名古屋の両サイドバックにつく配置をとった。

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ただし前半戦に比べると名古屋のビルドアップも改善され、簡単にボールを失うことはない。長崎としてもそれは折り込み済みで、前から徹底して追いかけることはせず、状況が悪ければリトリートし5-4ブロックを形成(両ウイングバックと両シャドーが一列ずつ下がる)。ハーフウェーライン付近で構え、そこからパスコースを限定していく。名古屋のビルドアップ隊が前線めがけて蹴ったボールを、密度の濃いゾーンで追撃する形で回収する。

カギは「中央」をしっかり締めることである。このやり方は、昨年J2の舞台で初めて長崎と対戦した際(このときも瑞穂だった)に近いものがあった。鈴木武蔵を頂点に、両シャドーと二人のボランチの五角形で中央を封鎖する。名古屋のボールの流れを外に外に押し出していく。名古屋は時折ネットや金井が、上手くかいくぐってこの五角形の中でボールを受けることに成功していたが、この中央のエリアを使えなかったことが、試合の出来に大きく響いた。後述するが、長崎は奪った後のカウンターに備え、出来るだけ両シャドーを高い位置に置きたかったようだ。その影響で、例えば長崎のボランチ脇は狙い目であったし、対角線上からジョーにボールをつけられた際の応対にも苦慮していた。ただ試合全体を通してみれば、「中を使ってこそ外がある」名古屋にとって、肝心要の「中」を上手く活用出来なかった、いやさせてもらえなかったのは敗因の一つだろう。

振り返ると、前回対戦時は前から徹底的に潰しにきたことで、名古屋は窒息し失点を重ねた。では今回は何故このような形をベースとしたのか。

ショートカウンターではなくロングカウンター

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長崎2点目のシーン。この試合、予想通り名古屋のボール保持率は高い数値を誇った(60%)。ただしこれは長崎としても折り込み済みだっただろう。ここで長崎の立場になって考えてみたい。彼らにとって、名古屋がどの位置でボールを保持している時にチャンスを生み出せる可能性が高いか。仮に前から奪いに行くことをベースとすれば、自陣の背後には広大なスペースが生まれる。いまや名古屋には、J有数の「高速カウンター」という武器がある。逆に自陣深くまで追い込まれるとどうだろう。仮にボールを奪っても名古屋に自陣を支配され、セカンドボールを回収されつつ2次攻撃、3次攻撃と繋げられ、ジリ貧の可能性が高い。そう考えた時、もっとも名古屋に穴が生まれる瞬間は、ミドルサードのエリアでボールを奪った瞬間と考えていた可能性は高い。名古屋とすれば押し込みきれていない分、ボールを奪われると当然陣形は崩れている。その上で、もっともバランスが悪いエリアは、金井がいるべき名古屋の「左サイド」であることは誰の目にも明らかだ。あえて金井に高い位置を取らせることで、ボールを回収したらそのスペースを崩しの重要なポイントとしてチームで共有する。この試合、結果的に名古屋がミドルサードでプレーした割合は、実に53%という高い数値となった。

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長崎の3点目は、この試合の狙いが見事にハマった象徴的なシーンだ。ミドルサードでボールを奪回してからのミソは、とにかく「速く縦につけること」。ブロックを作ろうと戻る名古屋よりも速く名古屋ゴールまで辿り着く。それが彼らの重要なミッションである。長崎の中村慶太のコメントは以下の通りだ。

試合前にサワくん(澤田)と(鈴木)武蔵と3人で話をして、なるべく下げずに前にボールをつけていこうという意識をしていて、それが上手くいったと思います

何故ファンマではなく鈴木武蔵だったか。このゴールシーンにおける鈴木武蔵の一連の動き、名古屋ゴールへ向かうスピードがそれを証明している。またゴール前に飛び込む際も、必ず名古屋DF陣の「間」にポジショニングすることを徹底。中谷が見るのか、宮原が見るのか。深い位置からのクロスに対してマークの受け渡しに名古屋が問題を抱えていることも、おそらくスカウティング通りだっただろう。ただビルドアップを阻害するだけでなく、それを攻撃に繋がる術も明確に実装されていた。

最終的な両チームの走行距離は名古屋109.3㎞に対し、長崎112.0㎞。スプリント回数の比較でみると、名古屋106回に対して、長崎は脅威の141回。特に長崎の前線3人と両ウイングバックに至っては、全員が20回超えである。名古屋の最多が前田の15回だったことから考えても、それがいかに驚異的な数値であったかが理解出来る。試合を振り返れば分かることだが、そのスプリントの多くは矢印が「前向き」のものだ。8月の連戦、名古屋怒涛の快進撃を支えたのは「走り勝つ名古屋の姿」だったが、この試合に関していえば、長崎の走力にも屈してしまった。というより、名古屋は走らせてもらえず、長崎が走り勝てる環境を作られてしまったと表現する方が正しい。

試合を通して終始名古屋の問題点となっていたのは、長崎の対策によってボールの出しどころがなく、ジョーをターゲットとしたフィードが増えたこと。この点に関して、試合後に風間監督はこのようなコメントを残している。

自分たちがリズムを作りながらもスピードを上げすぎてしまった。カウンター攻撃を自分たちで起こさせてしまった

またボールを奪われれば長崎がまず裏を意識的に狙っていたこともあり、最終ラインと中盤の距離感に大きな問題が生じていた。そのギャップを突くことが出来る長崎の両シャドーの存在が厄介で、このエリアで彼等に前を向いてボールを持たれると、必然的に名古屋の最終ラインの矢印は後ろを向いた。名古屋が自分達のサッカーをピッチで表現するために重要な要素「距離感」が、長崎によって破壊されてしまったことがなによりの問題だった。

決して下を向く必要はない

審判のジャッジが大きな話題を呼んだ試合ではあるが、得点シーンを冷静に振り返れば、長崎は狙い通りの3得点、逆に名古屋は個人技による2得点とパワープレーによる1得点である。どちらの出来が良かったかといえば、それは長崎だっただろう。試合を通して両チームによる戦術の応酬というわけではなかったものの、かたや7連勝中のチームと、最下位の現実に苦しむチームである。高木琢也にとっては会心の勝利、シーズンでもベストゲームの一つではなかったか。

ただ名古屋には下を向いて欲しくない。それだけ改善の余地がある、「伸びしろ」があるチームなのだと考えれば、まだまだこのチームの成長過程を楽しめる。J1のチームでこれほどまでに相手を研究し、尚且つ、試合を通してそれを徹底出来るチームは珍しい。だからこそ力比べになれば名古屋の優位性は発揮されるし、逆に長崎の視点でいえば、今回のような戦い方がハマらない相手と対戦した際に、改めてその力量が問われるのかもしれない。どちらにせよ名古屋にとっては当然ながら噛み合わせの良い相手ではなかった。名古屋に足りない部分をしっかり提示してくれた長崎という相手は貴重であったし、厳しい残留争いの真っ只中ではあるものの、「意味のある敗戦」だったと受け止める。まだまだ強くなれるのだと。

なんにせよ、高木琢也という監督がもっと評価されるようになると、このリーグはより良いものになるのではないか。そう思えた試合だった。敵ながら素晴らしい監督だったと記し、今回は締めたいと思う。

※ご興味がある方は、この本もお勧めです

 

 

 

 

 

 

 

 

エドゥアルドネットはサラリーマン気質なのか

 

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「憂鬱だ...なんて憂鬱な朝なんだ...」

サラリーマンにとって、月曜日の朝は何故あんなに憂鬱なのか。いや、仕事も充実して、休日も早く会社に行きたくてしょうがない方もいるだろうから、全てのサラリーマンとは言わない。ただ月から金まで週五日間のペースで働く社会人にとって、日曜の夜から月曜の朝の時間帯は「魔の時間帯」である。月曜朝の満員電車、不思議と今後の人生について考えてしまうのは何故だろう。サラリーマンの性だろうか。

さて、そんなサラリーマンと同じ悩みを抱えているのではと心配になる選手がグランパスにやってきた。エドゥアルドネットだ。

決して馬鹿にしているつもりはない。いや、先に白状すると私は彼のプレーが大好きである。

ただ彼は普通ではない。移籍前、川崎サポーターのネット評(インターネットではない)で最も目についた言葉を、おそらく多くの名古屋サポーターが頭にインプットしたことだろう。

「やる気のあるネットの日と、やる気のないネットの日がある」

目を疑うプロスポーツ選手にあるまじき紹介。それは「金曜の夕方はやる気のある俺、月曜の午前中はやる気のない俺」に限りなく近いのではないか。私にはサポーターがいない。ただ彼には毎試合一万人以上のサポーターが頑張れと後押しをしているわけで、そんな恵まれた環境で「やる気がある、ない」そんなことが本当に存在し、通用するのか。ちょっとそれは贅沢すぎやしないかネットよ。ガチネット、ゆるネット、だめネット。ネットのコンディション三段活用なんだそれ。

ということで、ここ数試合のネットのプレーぶりを見直してみた。本当に彼は私達と同じサラリーマン然とした男なのか。私は大真面目だ。

サポーターから発信された様々な仮説

ここまで煽っておいて先に結論を申し上げるのも気が引けるが、私なりの結論を先に申し上げておきたい。

.....分かりませんでした。

食い入る様に何度も見返したが、本人に面談でもしないと分からないに決まっている。「貴方はやる気がない」と決めつけて仕事の同僚と揉めた実績のある私がいうのだから間違いない。だからサッカーの場合、インタビューは重要。ピッチ上で起きる現象を拾い上げることは出来ても、何故そのプレーを選択したか、何が見えていたのか、どんな気持ちでプレーしたのか。それは当人に聞かなければわからない。実際に現地で観戦した際の印象、テレビで見返した印象、刷り合わせてみるものの、それで断定できるかと言えば難しい。それが結論である。誤解を招かないためには、やはり本人の口から出る言葉にまず耳を傾けなければならないのだ。

ただ名古屋サポーターは毎試合様々な仮説を立てていた。特にそれが目立ったのが、豊田スタジアムで行われた浦和戦におけるネットの出来だ。多くのサポーターはこの試合のネットを「やる気がないネット」と評価した(私もその一人だ)。せっかくなのでその仮説に沿って一つずつ考察していこうではないか。

【仮説①】怪我の状態が芳しくなく、「走らないこと」を許されているのではないか

名古屋に来てからの彼の怪我は厄介なものだ。グロインペイン、そして内転筋の痛み。騙し騙しプレーしていることは間違いない。これは今シーズン、川崎に在籍しているときからそうだったのかもしれない。彼が交代する時は決まって倒れ込み、「もう走れない」とベンチに合図する。

走らなくても良い、という判断がされているかはともかく、チームメイトが彼の分まで走ろうとしていることは事実である。例えば彼が自陣に戻る気配がないことを察知した前田は、彼より相手ゴール寄りにいても全力で自陣まで戻ってくる。彼の様子を窺いながら、真っ先に自陣のバイタルを埋めるのは小林だ。そうやって、ネットの怪我が穴にならない努力をチーム全体で行っているのが今の名古屋だ。逆に言えば、手負いのネットでも、チームにいる価値が相当に高いという裏付けでもある。それにしても前田。お前いい奴すぎるだろ。

また彼のインタビューを読んでも、やはり怪我がプレーに影響していることは間違いない。思い通りにいかないことを誰よりも自覚しているのはネット自身だろう。

ここでいくつか「あ、あいつ走る気ないな」と思った瞬間をピックアップ。

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これは「まぁバイタルは小林に任せるか」のネット。

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「相手カウンターの起点読んでたけど振り切られた。あと頼むわ」のネット。

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「パス引っかかった。もう戻れないぜ」と嘆くネット。

どうだろうか。ちなみに私が検証する限り、明らかに自身のミスでボールを失った自覚があるときは、それなりに戻っていることが確認された。怪我を抱えたままプレーすることで思い通りに身体が動いてくれない。これは間違いない事実であり、そういった想いも彼のフラストレーションを生む原因になっているようだ。

【仮説②】彼の理想と周囲が噛み合わず、フラストレーションを抱えるのでないか

これは一見するとネットが他のメンバーより段違いに優れていて、残りのメンバーが物足りないとも受け取れる発想だが、決してそんなことはない。例えば話題となったこのシーン。

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ネットとしたら、小林にはワンタッチでフリーのシャビエルに叩いて欲しかった(※赤線)はずである(彼のしぐさを見ている限り)。これはネットの長所でもあり短所でもあるのだが、自陣のリスキーなエリアでも、縦に通せると判断すれば躊躇することはない。そこには彼の性格的な部分も起因しているし、自身の技術に相当な自信があるからこそだろう。ボールを持つ佇まいを見ても、そもそも相手に奪われるなんてこれっぽっちも思っていないのがネットだ。逆に小林はその点堅実な選手だ。自陣でリスクを冒すことはまずない。このシーンも小林はボールを受ける前に間違いなくシャビエルの存在を確認しているが、パスコースに対する相手の配置を考慮し「戻す ※②」選択をした。どちらが良い悪いという話でもない。こういった感覚の違い、選択の違いは試合を重ねながら刷り合わせていくしかない。なんでシャビエルにださないんだ小林とはネットの心の声。

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一試合に一回程度発生する「〝味方未確認″やっちまったノールックパス」である。ちなみにこの場面、ネットは確信を持ったように力強いパスで、誰もいないエリアにパスをしてボールを奪われる。このシーン、何度も見返したのだが、おそらくネットとすれば「俺がこの位置にいるときは味方はここにいるだろう」と、彼なりの確信をもってパスコースを選択しているように見えた。要は玉田の位置は、ネットにとって「平行」であるべきなのだ。

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 このシーンは、ジョーの横側に生まれたバイタルのスペースを使いたかったシーン。玉田にパスをしたネットは、ジョーの前に立つ浦和DFに向かって走り出す。彼としたら、玉田からワンツーで再びパスを貰い(※赤線)、ジョーからマーカーをつりだすことで、このバイタルのエリア(青色掛)でジョーをフリーにさせたかったのではないか。風間八宏の言葉を借りれば、ネットは目の前にいるこの浦和選手(個)を「壊しにかかっている」わけである。ただ結果的に玉田は小林へのパス(※②)を選択。予想通りうなだれるネット。

ちなみに浦和戦はこれらのプレーで集中力が切れたのか、その後のボールロストのシーンで奪われた相手選手を思いっきり蹴飛ばしイエローカード。「あいつの集中力がキレるのはしょうがないんでね」と悟った風間八宏は、すぐにネットを交代する決断をした。

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最後は話題になった「中谷突き飛ばしシーン」。御存じない方のために説明すると、このシーンで玉田からパスを受けたネットは、小林へのパスを相手にカットされカウンターのきっかけを作る張本人に。相手シュートをかろうじてランゲラックがセーブし事なきを得たものの、そのミスを強く言及した中谷にぶち切れたネットは、試合中にもかかわらず中谷の元へ突進。その後胸ぐらをど突くという信じられない行動をすることになる。盛り上がる瑞穂を一瞬で騒然とさせる千両役者ぶりに名古屋サポーターは震え上がった。

ただこの場面、確かにネットの状況は芳しいものではなかった。試合後に金井もコメントしていたが、まず金井のポジショニングが高いことで彼へのパスコースが死んでいる。本来は小林と平行な位置(※青掛エリア、ポジション)にいれば、場合によってはネット得意の左足アウトサイドで左に展開できた可能性はある。またこの場面の前段階で玉田にパスを付けた中谷も足が止まっており、相手選手に隠れてしまっている。ネットに対してしっかり顔を出すポジションを取ろうとしていれば(※赤線、青掛エリア)、ネットなら浮き球のパスで(レーンを飛ばして)、右サイドに展開していたかもしれない。

ネットは唯我独尊、孤高の存在である。誰よりもプライドが高く、基本的には「自分が正しい」世界を生きている(多分)。それ故、彼が納得できない理由で自身が責められるのは、彼のプライドが許さない。全く褒められた行為ではないが、何故あのときネットは中谷に喰ってかかったのかと考えると、それしかないのである。こういった側面もまた、彼の試合に対するモチベーションを左右していることは間違いないだろう。

ネットが名古屋にもたらしたもの

ここまで読み進めると、ネットよ何と扱いづらい選手なんだ、腫れ者じゃないかとなってしまうわけだが、いや、やはりネットは素晴らしい選手だ。中断期間後、チームがこれほどまでに変貌した理由の一つに、間違いなくネットの存在は挙げられる。

まずなにより彼がチームにもたらしたものは「パウサ(小休止)」だ。

先日発売されたナンバーで、イニエスタが日本のサッカーについてこんな発言をしていた。

スピードとテクニックがある一方で感じたのは、ゲームの中にパウサがないってことだ

パウサとは一体何を意味するのか。もう少し読み進めてみる。

Jリーグは良い意味でも悪い意味でも、前へあくまでも攻撃を続ける展開になることが多い。それは試合としては魅力的かもしれない。(中略)ただ、一定のリズムで攻め続けるのはリスクも伴う

この点は前半戦における名古屋の戦い方が顕著だっただろう。

陣形が整っていないにもかかわらず、ボールを奪えばすぐに前進しようとして相手に引っかかる。結果としてショートカウンターを受ける。また試合展開も行ったり来たりで「必要のない」走行距離が伸びる。要は「走る質が悪い」。それで潰れかけていたのが小林裕紀だ。最大の特徴であるオフェンス時における潤滑油の役目を果たすことが出来ず、守備に忙殺された小林は気づけばスタメンの座を奪われていた。

ネットが加入し、なにより変化があったのがこの時間の使い方である。

彼は全く慌てない。「走らない」と言ってしまえばこれまでに挙げた場面が頭をよぎってしまうが、彼は急ぐ必要がない時は「走らないことでチームを落ち着かせる」ことも出来る。例えば陣形が整っていない時、残り数分でハーフタイムを迎えるとき。その場面の状況、時間帯を考えながらゲームをコントロールする術がある。

日本人は良くも悪くも真面目だ。ボールを奪えばまずゴールを目指す。その刷り込みがゲーム展開を否応なく速くする。逆にネットはブラジル人らしい一面を覗かせる。「90分あるんだから、この状況ならゆっくりボールまわしておけばいいだろ」、こういった発想が出来る。簡単なようで、意外と日本人選手が苦手としている部分である。そう判断した時のネットはとにかく走らない。歩きながらボールを受けてはリターンする。そろそろ行けるなと思えば、急に動物的な動きで「外す」動きを混ぜつつビルドアップを開始する。

これによって名古屋の攻撃には緩急が生まれた。セットして攻撃を始めるときは、ネットを中心に後方でゆっくりボールを回しつつ、各選手が自身のエリアで高いポジションを取ってから攻撃が始まる。だから仮にボールを奪われても、相手陣地内で人数をかけてボールを奪い返す動作にチームとして入れる。案の定というべきだろうか。昨シーズン同様、ボールが落ち着くポイントが後方に出来ると、コンビを組む小林裕紀は輝きを取り戻す。主役になりきれないのが惜しいが、彼は名古屋一の「名脇役」だ。主演男優賞にはなれなくとも、助演男優賞なら相手役に恵まれれば狙うことも可能な男。また彼が面白いのは、脇役とはいうものの、リスクが取れるエリアでプレーさせてこそ輝ける特徴を兼ね備えていること。器用なので後ろに置きたくもなるが、彼こそ放し飼いにした方が面白い。その意味で、ネットと小林のコンビは良い組み合わせと言えるだろう。

そんなネットにしても、いざ攻撃のスイッチが入ると、高いポジションで決定的な仕事が出来るのも彼ならではの魅力。こんなエロいパス、おそらく名古屋でやる勇気があるのはネットだけだ。

あとは「ネットの100%」が見たい

 これほどまでの選手が何故獲得出来たのか。川崎側の事情やサポーターの意見は当然あるはず。そもそも大卒のスーパールーキー、守田の存在なくしてこの移籍劇は生まれなかっただろう。諸々の事情があり、チームには彼の穴を埋められる若手選手も育ってきている。あまりに突然のことで川崎側としても準備不足だった感は否めないものの、結果的にネットはチームの構想外、放出すべき選手となった。

ではその守田に比べてそもそもネットが劣っていたのか。私はそうは思わない。個人的には、川崎、名古屋それぞれの事情に加え、鬼木、風間両監督がチームにどんな選手を求めたか。その点が上手く噛み合ったからこそのネット移籍劇であったと考える。それは両者にとって選手としての実力だけではなく、パーソナルな部分も含めたトータルでの判断。少なくとも名古屋を率いる風間監督が選手に求めるものは「それぞれの100%をピッチの上で発揮してほしい」である。止める蹴る外す。この3大原則さえベースにあれば、あとはピッチを何色にでも染め上げて良し。それが風間八宏のサッカーだ。

だからこそ選手に100%を求める。当然である。それを遺憾なく発揮してもらうためにピッチは白紙の状態にしてあるのだから。その意味で、この7連勝は決してフロックではなかった。それぞれが持てる力を100%発揮した。そんな環境でやれているからこそ、選手達自身がなによりサッカーを楽しんでいるのが伝わった。だからサポーターも楽しいに決まっているのだ。好きな人が楽しそうにしていたら誰だって嬉しいだろう。

その点ネットがどうだったか。これまで見てきた通り、まだまだ試合を楽しんでいるように思えない。それは彼自身100%の力が発揮できていないからだ。無難な色に染まる必要はない。ネットはネットのまま、このチームでの居場所、100%の力を発揮出来る環境を積極的に作っていくべきだ。その点、川崎時代もチームメイトはかなり苦労したようである。「ネットが合わせる」のではなく、「ネットに合わせる」必要があったためだ。ネットの100%を引き出すためには何が必要だろうか。これからチームメイト達は、その難解な課題と向き合いながらさらなる高みを目指していくこととなる。

どうやら彼の怪我は今シーズンずっと付き合う必要があるようだ。誰よりも彼自身が苦悩を抱えながらピッチに立っているだろう。ただ私たちは彼が楽しんでサッカーをしている姿が見たい。比較的優等生揃いの名古屋に突如として現れたやんちゃ坊主。ブラジルの大エース、ジョーさんが走ってても気にも留めない王様、それがネット。面白い。

憂鬱な月曜の朝を生きるネットより、早く飲み屋に繰り出したいとウキウキした金曜夕方気分なネットに出逢いたい。そんなサラリーマン的な楽しみがあってもいいではないか。

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※このブログで使用している画像は、名古屋グランパス公式サイト、DAZNから引用したものです

 

 

 

爆買いとポイ捨て。尽きることのない賛否

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「爆買いポイ捨てチーム」

これ、最近友人に言われた一言である。流石にカチンときたぞ。かなり仲の良い友人だったが、売られた喧嘩はきっちり買った(謝られたけど)。

そう、これがグランパスに興味のない人達の自然なリアクションだ。このチームへの知識や理解に乏しい人達が見れば、私達のチームがやっていることは「爆買い」で「ポイ捨て」なのである。

勿論その改革を推し進める首謀者は風間八宏。情の欠片もない、自らの都合で選手を切り売りする非道な人間といったところだろうか。なにせとにかく評判が悪い。いや、評判が悪いというより、ただの嫌われ者だ。システマチックな戦術とは対極に位置し、守備は杜撰。そのくせ使う選手は選ぶのだから、嫌われるのも無理はない。そのあまりに振り切れた志向が、どうにも「サッカー通」を遠ざける。

今更彼のサッカーを掘り下げるつもりはない。散々語られてきた内容であるし、好き嫌いが分かれるのも承知している。彼のサッカーが至高で、全く欠点のないものだなんて私自身これっぽっちも思わない。

ただ冒頭の言葉が引っかかった。私達の愛すべきクラブが行っていることは、果たして本当に「爆買いポイ捨て」と言えるのか。

【第一期】このチームは一度「解体」した

風間八宏が就任してからのグランパスを語る上で、この点に触れないわけにはいかない。2016年に初のJ2降格が決まり、そこから始まったオフに起きたことを忘れる者はいないだろう。主力級の選手達は次々とチームを去り、このチームに残った選手はたった15人。内、前シーズンにスタメン争いをしていた選手達は約半数程度しかいない。

逆に加わった選手達は18人。当時のグランパスを取り巻く環境(マスコミ報道)を考えれば、「よく集まった」、これがサポーターにとっても正直な感想だった。ほぼゼロからのスタートの中で、可能な限り風間監督の志向にあった選手を獲得したい強化部。ただその意向とは裏腹に、クラブには逆風が吹き荒れる。肝心の新監督も、前チームの活動により始動が遅れるまさに二重苦の状況。今思えば、強化部側の風間監督への理解が不足していたのか、理解はあったが獲得可能な選手に限りがあったのか。そこは定かではないが、同時にどちらも間違いとは言い切れない時期だったのかもしれない。

当然ながら、このチーム立ち上げ時が「風間体制第一期」である。

【第二期】シーズン途中に加入した「足りなかったピース」

ほぼ「寄せ集め」の状態でスタートした名古屋は、J2の舞台で不安定な飛行を続けた。与えられた材料で上手い料理を作る監督なら結果も違っただろうが、風間監督は与えられた材料を育てようとする監督だった。調理をしない。結果、材料(個)の持つ味(力)がそのまま誤魔化されることなく表現されてしまう。求められる動き、スキルを体現出来る者と、どれだけやっても上手くいかない者の差は広がるばかり。そんな選手達を組み合わせ、策すら与えないのだから、苦戦するのは必然だった。志向するサッカーも十分振り切れている風間八宏。ただなにより極端だったのは、チームビルディングにおける彼の手法そのものだ。どれだけ負けても、屈辱的な敗戦を喫しようと、それが必要な順序の中で起きたことであれば、軌道修正する事はなかった。寄り道をしたり、狡賢く楽な道を選ぶこともない。その点彼は妥協を知らない。今思えば、最初の半年間は「昇格するためのベース作りと、足りないピースを確認する時期」だった。

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そのうえでこの夏に名古屋に加入した代表的な選手が、シャビエル、そして新井である。半年間選手達と共に風間監督の練習に触れ、会話を重ね、理解を深めた強化部の素晴らしい仕事だったことは今更言うまでもない。それと同時にこの時期から選手の放出も進んだ。出番に恵まれなかった選手達にとって、自身に飛び込んだ他チームからのオファーに対し首を横に振る理由などなかった。強化部もその点に関して、選手達の意志を最大限尊重した。当事者が他チームでプレーした方が未来があると判断すれば、強化部にも飼殺しするような意図はない。

これが「風間体制第二期」だ。

【第三期】一年での昇格。新たに加わった者、去っていった者

無事一年での昇格を果たした名古屋だったが、J1で戦い抜くための補強は思いの外滞った。後に大森氏は「プレーオフの影響で出遅れたのは事実だった」と語っているが、獲得に動いた選手はことごとく名古屋にNOを突きつけた。逆にチームの大黒柱だった田口泰士が名古屋を去る決断をしたのは、なにより風間監督にとって大誤算だっただろう。大きな補強となったのは、ジョー、そしてランゲラック。最前線と最後尾に、「日本人以外の選手」で大金を投じて補強するのが、シーズン前の名古屋には精一杯だった(それが出来るから凄いのだが)。

それでもチームはJ1レベルにはなかった。大きな期待を集めた名古屋だったが、シーズンが始まると思うような戦いは出来なかった。補強の目玉だったジョーやランゲラックも苦労していた。片や欲しい場所、欲しいタイミングでボールが届いてなんぼのストライカー。片やチームの守備があってこそのゴールキーパーである。ジョーは彼自身のコンディションにも問題があったと感じるが、ランゲラックに関しては、はっきり言って不遇の日々だったと言わざるを得ない。チーム単位で見れば、結果的にJ1で十分に戦える戦力を要していなかったというのが事実だろう。風間監督の采配に起因する部分も相当に影響があるが、では戦力が充実していたかと言えばこれも疑問が残る。特にセンターバックの駒が揃わなかったのは痛恨の極みだった。また控え選手の層にも大きな問題があった。

これが「風間体制第三期」。

【第四期】出番を失っていた実力者達にターゲットを絞った補強戦略

この夏の補強戦略は明確だった。ゴールを奪える選手とゴールを守れる選手は既に存在する。ピッチに魔法をかけられる選手もいる。必要だったのは「名脇役」だ。固まらないジョーの相棒、田口泰士が抜けて埋まりきらなかった中盤の要、ランゲラックの前で鍵をかけられるセンターバック。強化部が秀逸だったのは、「獲得できる余地のある選手」に狙いを定めたことだ。所属チームで出番を失っている選手、レギュラー格とは言えない選手。ただし将来有望な若手や、代表クラスの選手に候補を絞り、そこに潤沢な資金を投じた。シーズン中、しかも最下位のチームというハンデを乗り越えるためには理に適った戦略だ。

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その結果獲得に成功したのが前田直樹、エドゥアルドネット、中谷進之介、丸山裕市、金井貢史である。いずれも今のチーム状況を鑑みれば「よく獲得出来た」クラスの選手達だ。また全ての選手が即レギュラーとなって活躍していることにも注目したい。意地悪な見方をすれば「既存選手の立場は?」となるかもしれない。ただ一方で見方を変えれば、それだけ強化部が風間監督の要望にピンポイントに応えているとも言える。風間監督の言葉を借りれば、この一年半の間で、強化部の目は間違いなく風間監督のそれと揃ってきている。

これを「風間体制第四期」としたい。まさに今のチームである。

さて、ざっとこれまでの一年半に起きたことを振り返ってきた。もう第四期なのかと笑われそうである。表現の善し悪しはともかく、このチームにとっての転換期が既に四回あったことは事実だ。同時に気づくことは、今年名古屋がやっていることは、昨年やってきたことの焼き回しであるということ。「昇格」そして「残留」と大きな違いこそあれど、昨年はJ2を勝ち抜くために、今年はJ1で生き残るために、それぞれの舞台や目標に対し、シーズンを戦いながらチーム自体を作り替えてきたことが理解出来る。

では結局のところ、名古屋がやってきたことは「爆買いポイ捨て」だったのか。これまでの流れを踏まえた上で、この二点に絞って考えてみたい。

①本当に「爆買い」なのか

この言葉をどう定義づけるかが問題ではあるものの、仮に「大金を投じること」だとすれば、その指摘は決して間違いではない。いくら計画性のある補強とはいえ、これだけの選手を次々に獲得出来るのは並のチームでは不可能だ。これまで書いた通り、結果的に毎シーズン、半年間ごとに生まれた課題を「補強」することでカバーしている。

ただしこの点に関していえば、使える予算が潤沢であることを恥じる必要はない。名古屋はそのクラスのクラブであり、堂々とやれば良い。イニエスタのために費やす大金に拍手が起こり、名古屋が費やす大金に文句をつけられる筋合いなどない。どこの国のビッグクラブも、必要な選手には資金を惜しまない。これはジョー獲得の際もそうであったが、名古屋だけ目くじらを立てられる理由などないのだ。

また爆買いを「チームの補強ポイントに関係なく、次々とホームランバッターを連れてくる」との意味で使うなら、名古屋は決して爆買いなどしていない。改めて語るまでもなく、この一年半、必要な補強しかしていないのは前述の通りである。

②名古屋から出た選手は「ポイ捨て」されたのか

この点に関しては、選手の入れ替えが激しいのは紛れもない事実だ。例えば既存の選手を短期間でレベルアップさせる、不可能であるなら「監督の力で勝たせる」。そういったことが出来ているわけではない。いや、するつもりがないのかもしれない。

おそらくだが、風間監督は選手を「選別」している。より具体的に言えば、彼の求めるレベル、理想を叶えられる選手達を、加入と放出を繰り返す中で絞り込んでいる。その基準は「チームで最も目が速い選手」だ。先頭集団で走れる選手達を育てることを目的とし、同時にチーム内での誤差を限りなくゼロにするために、その時々のチームのレベル(先頭集団の速度)に準じて必要な箇所に補強をする。そして強制的にチーム全体のレベルを上げる。この点はとにかくシビアだ。彼の志向するサッカーは、ピッチに立つ選手の一人でも見ている世界が違えば、そこから水は零れてしまう。本来であればチーム戦術がその誤差を埋める役目を果たしてくれるのだが、風間監督のチームに関してはその点「個」に依存する。いや、それを理想としている。攻守において、いかに見るべきものを早く見ることが出来るか。それを可能にするための唯一の手段となる「技術」。それを下のレベルに合わせるのではなく、あくまで上のレベルに合わせる。そしてチームのレベルを引き上げる。まさに「アップデートの繰り返し」だ。その点に関する妥協は絶対にない。それが仮に補強という手段になったとしても。

ただ矛盾するようだが、彼が補強を要求することはあっても、放出を促している印象は受けない。彼以上に選手に期待している人間はいないとも思う。それと同時に、彼は選手達を「一人の事業主」として非常にリスペクトしているように映る。名古屋での出番が限られた選手に他チームからオファーが届いた際、選手の意思を最優先に尊重するのはそのためだ。

一つの例が永井龍である。正直に言って、今年の前半戦の戦いを見る限り、永井龍はまだこのチームに必要ではなかったか。ただそれでも山雅への移籍を許可したのは、他でもない彼自身のサッカー人生を尊重したからだろう。逆に昨シーズン彼ほどのインパクトを残せなかった押谷祐樹内田健太はチームに残留し、今年の前半戦、いくつかの出番を与えられていた。練習でのプレー内容が良ければ、躊躇なく起用する風間八宏の哲学もまた、一切ブレることはなかった。ただ当然そこで結果を残せなければ後退するし、チームの成長速度も待ってはくれない。そのスピードに置いて行かれてしまえば挽回のチャンスが巡ってくることもない。他チームからオファーが届けば心は揺らぐし、その決断を風間監督が止めることもないだろう。

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選手の入れ替えが必要以上に多い点に関しては、冒頭に挙げたこのチームの結成当初の状況がそうさせている。あれだけ多くの選手が加入し、全ての選手が風間監督の理想にハマるはずもない。後から入ってきた選手が既存の選手より優先されるのも、前述した理由から考えれば決しておかしなことではない。チーム自体も特定の色(チーム戦術)に染まっていない為、新しく来た選手が馴染むのも比較的容易である。

また多くの放出した選手に関して、こんな意見もあるかもしれない。そもそも本当に彼らの力が劣っていたのか、と。他の監督であればもっと重宝された選手がいたのではないか。この点に関しては、確かに純粋にプレースタイルが合致しなかった選手もいる。

では逆にこの一年半の間に名古屋から出て行った選手で、J1のレギュラークラスとして現在も定期的に稼働している選手が果たして何人いるか。そう考えたとき、この一年半におけるその時々の名古屋の戦力が、客観的な視点で見てどのレベルにあったのか考察することも可能となる。決して同レベルの選手を常に取っ替え引っ替えしているわけではない。これだけの入れ替えが起きたのは必然といえば必然だった。これが私の感想である。

一年半見た風間八宏という監督

結局のところ風間八宏は優秀な監督なのだろうか。この一年半、グランパスを通して見てきた風間八宏には、本当に信じられないほどの賛否がついてまわった。

一つだけ言えるのは、プロクラブにおいて彼のやり方を可能とするのは、

  1. そもそも彼の条件を満たす選手が揃っている
  2. 彼の条件を満たせる選手を揃える財力
  3. 彼に全てを預ける覚悟と時間

このどれかの条件が揃ったときだけであろう。個に依存するとはそういうことだ。与えられた材料で調理する、監督の力でデザインするわけでもなく、個々の能力を最大限伸ばすことでチーム力を底上げするには、相応の時間を要するし、時間が与えられなければそれが出来る選手に「投資」するしかない。

その意味では、最近起きたアルビレックス新潟の事例は決して他人事ではなかった。

鈴木政一監督も、ある意味で風間監督に非常に似た思想を持つ人物だった。安易に選手に答えを与えず、考えることを要求する。選手に一定の裁量を与え、「自由=最低限の約束事だけ共有させ、各々がその場その場で判断をする」ことを前提とし、選手自身の底上げを図ることを重要視する監督だった。

その象徴ともいえる内容が先の記事内にある。磯村のこのコメントだ。

今年はボールを狙えないんですよ。思い切ってバン!と取りに行けない

これは名古屋の選手にも通ずる内容だ。細かなチーム戦術で選手を縛らないからこそ起きるジレンマ。一人出来れば良しではなく、それをピッチ上の選手たちそれぞれが理解出来ないとチームとして機能することはない。

結果はシーズン途中での解任である。潤沢な資金があるわけではない新潟にとって、名古屋と同じように選手に投資をすることは出来なかった。では時間をかけて既存戦力の底上げにクラブ含め注力出来たかといえば、実際は降格チームに課せられた「一年での昇格」という暗黙の了解が彼らに重くのしかかった。

 結局のところ、この手のタイプの監督にチームを預けるには、そのチームに「何が求められているか」が重要になる。既存選手の底上げを図り、チームのベースを上げつつ強化していくのであれば、間違いなく相応の時間を費やすこととなるだろう。何故なら彼等は共通して「選手自身に考えること」を求める監督だからだ。全てを型で教えるのではなく、多くを考えさせるということは、選手の吸収速度に必ず差がつく。

ただJ2で戦っていた時の名古屋や、前述した新潟には「一年での昇格」が当然期待されていた。風間監督のように、半年が経過した時点で足りない部分を「補強」する行為は、確かに金にモノを言わせた手法ではあるものの、最も即効性がある裏技にもなる。それで時間を一気に短縮できる。クラブがどんな目標を掲げ、その納期をどの時期に設定するかでフロントや強化部がやるべきことは大きく変わる。何故なら彼等が抱えている監督達は、己の信念を曲げてまでそこに歩み寄る人物ではないからだ。

逆にそういった投資が出来ないチームの場合、なにより時間が足枷となる。新潟の場合、「育成」と「結果」、この二頭を一年で追った結果、少なくとも鈴木体制においては一頭も得ることが出来なかった。投資という手段がない以上、フロントに出来ることは「我慢と覚悟」であったと思う。ただそれを彼らは許さなかった。その意味で、結果論にはなるものの、鈴木政一アルビレックス新潟の組合せの相性は決して良いものではなかった。少なくとも、J2でそれを志すには、あまりにリスキーな組合せだった。

これらの監督に最大限働いてもらうには、フロントが一枚岩となって現場を支えないと成功することは難しい。名古屋に関しては、フロントが「信頼と投資」で風間監督を支えている。それがあったからこそ成績は最下位でも、資金を投じることで彼の要望に応えることが出来た。昨年は昇格する為に、今年は残留する為に。

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よって風間体制の勝負となる年は「三年目」であると考える。そのために今年のミッションは絶対に残留することだ。フロントはやるべきことをやった。そしてJ1で戦えるだけの戦力を遂に整えた。風間監督に言い訳できる余地はもはや残されていない。ここからのシーズンは、彼の手腕のみが問われるものとなるだろう。

最後に。では風間監督のサッカーがどうかという話だが。

彼が志向するサッカーを体現出来る選手が揃えば面白い。それが私の率直な感想だ。攻めていても何が起きるか分からない。パターンが存在しないからこその期待がある。信じられない奪われ方もする。何度も逆襲を受ける。その意味でも次の展開が読めない。観ている側からすれば、まさにジェットコースターに乗っているような気分だ。

再現性は乏しく、「緻密」という言葉とは程遠い。それが許せないサッカーファンも勿論いるだろう。そんな人間に愛するチームを託したくないというサポーターもいて当然だ。

ただし目の前で繰り広げられるそんなジェットコースターのようなサッカーを受け入れ、楽しむのも大いにアリだ。割り切ってしまえば、これほどスリリングなチームもないし、何をすれば上手くいき、何を怠ると上手くいかないか。これほど手に取るように分かるチームも珍しい。

土曜に行われる鹿島戦に向けて、風間監督はこんな言葉を口にしている。

専門家が見て面白いサッカーというのはないので。誰が見ても面白いものは面白いし、点がたくさん入れば面白いと思います。ゴール前のシーンをたくさん作れば面白いと思うので。我々のスタイルをいつもどおりにやれればと思います

この言葉に風間八宏の全てが凝縮している。これ以上でもこれ以下でもない。

彼のサッカーが何よりも正しいもので、誰よりも強いものだとは思わない。

ただ同時に正しいサッカーが、強いサッカーが、必ずしも魅力的とは限らない。サポーターを熱狂させるサッカーは、決してそれだけではないのだ。だからサッカーは面白い。

私に関しては、クラブが自ら決めた道にしっかり進んでくれていれば、今目の前にあるものを愛し、理解することから始めた方が、毎日が楽しく、そして幸せだ。

 

※このブログで使用している画像は、名古屋グランパス公式サイトから引用したものです