みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

サッカーなんて、なくてもいい

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あ、サッカーって不要不急なんだな。

サッカーがない日常が当たり前になると、あれほど我が人生には欠かせないと確信していたはずなのに、悲しいかなこう思う。あぁマズい。サッカー熱が冷めていく。

自粛期間中のぼくはといえば、平日は仕事に読書、あとNetflixPodcastも言うことなし。休日は子育て&子育て&子育て。早く....早くおれをスタジアムに連れてって!なんて以前はあんなに強く思っていたのに、今となっては俺はなんて罪深い父親なのだと反省する(今更か!のツッコミは不要だ。いま語り始めてこれから盛り上がる予定です)。

SOCCER KING (サッカーキング) 2020年 06月号 [雑誌]
 

 そんなある日、一つのコラムを目にする。サッカーキング2020年6月号掲載、細江克弥さんの「サッカーのない世界なんて」。その冒頭を紹介する。

 結論から言えば、サッカーなんてなくてもいい。全然いい。なくても『100点』だ。決して強がりじゃない。

細江さん、冒頭で仕事を捨てる暴挙。いや分かる、分かるけれども、サッカーを生業にしてる方が「サッカーなんてなくてもいい」言った。次、解説した試合で選手の名前噛みまくるとか、きっと天罰が下るでしょう。

ただこのコラムを読み進めると、いやはや、これは今の自分と同じなんじゃないかと思えてくるのだ。

つまり何が言いたいのかというと、この生活は、僕にとってものすごい幸福感に満ちあふれていた。みんな健康。ずっと一緒。アルバイトで誰かの役に立っているという達成感もあるし、キャパを超えた仕事のプレッシャーもストレスもない。間もなく1歳になる娘の成長が手に取るように分かり、それを見守る家族の結束力は高まるばかりだ。

ちなみに細江さんは配達のバイトまで始めたそうだ。それに「ウケる」と笑って返す奥さま。素敵だ。理想の家庭だ。きっと天罰が下るでしょう(二回目)。

でもこの部分、ぼくにはめちゃくちゃ分かるんだ。悔しいかな家族の結束力が高まった実感こそないけれど、少なくとも妻の舌打ちは減った。バドミントンのやり過ぎで筋肉痛になったが、その分、恐ろしく腕も上がった。そうだ、Twitterを見ることも減った。そもそも自分のことを知りたいと思ってる人なんていないし、悲しいかな話すネタもない。我がタイムラインを支配していたサッカーフリーク達の存在感は心なしか小さなものに感じられ、当たり前だった日々が失われたことを痛感する。サッカーがなきゃ大した人間でもないと言われそうだが、少なくともぼくに限っていえば正しい。

また、このブログもそうだ。以前こう聞かれたことがある。「よく仕事でもないのに書こうと思えるね」。ぼくはこう答えた。「書くことが好きなので」。いやー笑わせてくれるな自分。その好きなことを失った日々を生きる今、こう思うよ。「金も貰えないのによく書くな」と。〝好き〟のパワーは無限だが、だからこそもう一つの大切な日常を見失いがちになる。それに気づくには、あまりに充分すぎる自粛期間。

あれ、やっぱりこの人生にサッカーって案外必要じゃないのか。スタジアムなんか行かなくたって、ぼくは生きていけそうだ。「日常にある、非日常」なんて偉そうに書いておいて、自分にとっての非日常は、所詮、独立型の非日常なのか。日常になくてもいいじゃねーか(姑息に宣伝)。

www.soccer-king.jp

でもほんとにそうなのかと自問自答をしていた時、この細江さんのコラムはとても大切なことを教えてくれた。

サッカーは、100点の日常に上乗せされるもの。つまり俺って、ずっと150点の人生を歩んできたんじゃ?

......!!!!!

自分の中で、サッカーの価値がワンランク上がったことは間違いない。100点の日常に上乗せされる「50点」がある人生って、どんだけ最高なのよ。

んぁあ....名言。天罰が下るとか言ったぼくの小物っぷりよ。

その時、ぼくは本当の意味で「日常にある非日常」を理解した気がした。そうか、日常が100点ならサッカーがあれば150点だし、極論、日常が0点でも、サッカーで50点あれば赤点ギリギリセーフ。もちろん日常が50点のやってられねー人生でもさ、サッカーが50点なら大逆転の満塁ホームランですよ。ちなみに「連敗続きで毎試合負け試合の場合、そもそもサッカーが0点なわけだがどうしてくれるんだ」と突っ込みたい方もいるでしょう。その点に関しては、ブログの構成の都合で〝文字数〟の三文字をもって今回は割愛する。あれだろ、風間が悪いんだろ。そうだそうだ、風間がわる文字数。

兎にも角にもサッカーは偉大だ。ぼくにとってのサッカーは、たぶん、きっとこれだ。だから例えそれがなくとも生きていけるけれど、あったらもっと幸せで、例えば日常がつらく悲しい人にとってもそれは、きっと日々の生きる糧であり、支えである。まとまった。日常にある、非日常、完。

そして自粛期間も遂に明け、さぁこれからフットボールな日々が戻ってくるぞと思った矢先、それは起きた。

nagoya-grampus.jp

これは何ヶ月ぶりの感覚だろう。リリースが出てから数時間、暗闇の部屋で携帯と睨めっこ。この動揺を落ち着かせる術はただ一つ、Twitterへ投稿するのみだ。一匹狼上等だとほざきながら、結局、誰かと繋がることを欲している。

金崎夢生の一件は、改めて大切なことを教えてくれた。

それは日常でも、非日常でも、尊いものは尊い、という事実。日常にあるわけでもない、言ってしまえば直接話したこともない人間の不幸を、我がことのように憂い、そして動揺する。翌日も仕事だろうが遅くまでSNSに想いを連ね、結果、恐ろしく目が冴えあぁ睡魔よ戻ってこい。でもそんな対象は、きっと家族や大切な友人以外には、大好きなフットボールクラブだけだ。結局、これは〝我がこと〟なのだ。

好きなことは誰かに伝えたいし共有したい。また、繋がることで支え合える。誰もぼくの日常になんて興味はなくとも、非日常にあるそれは驚くほど多くの人たちを繋ぎ合わせ、人はやっぱり一人ではたかが知れているのだと自覚させる。

例えば新型コロナウイルスによって今や人類の敵となった〝密〟だって、およそソーシャルディスタンスありきでは生み出せないパワーがあることを、我々フットボールファンは知っている。名古屋のゴール裏は、密が、非日常で繋がった同志たちが生み出した奇跡みたいなものだ。

フットボールには、日常をより輝かせ、そして日常では得られることのない人の繋がりを感じさせる力がある。非日常がもたらす作用、フットボールにある〝価値〟はそれだ。

だから娯楽なんて不要不急だと外野が罵ったとしても、このタイミングで改めて言いたい。フットボールは、我が人生には〝必要〟です。日常と、非日常が同居する人生マジ最高。

そんな非日常、当たり前のように存在した密が戻ってくることを信じて、ぼくは金崎夢生が「名古屋に戻ってきて良かった」と心から思えるクラブの一員でいたいと思う。

やっぱり、フットボールのある世界は素晴らしい。