みぎブログ

主観で語りますフットボールを。

我々ファミリーを繋ぐものそれは「愛」

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18、15、10。

この数字、何だと思いますか?あ、先に言っておきます。僕のモテ期3回きたタイミングじゃないです。僕の予定では多分もう一回きますありがとうございます。

これは我々が降格した2016年、J1昇格後の2018年、そして今季のリーグ戦連続未勝利試合数です。

率直にエグいです。ドエム体質じゃないと正気じゃいられません。こう見ると少しずつ成長してる錯覚に陥るくらいには麻痺してます(ちなみに今季は直近14試合で1勝です)。

しかし世の中おかしなものでして、何故か観客動員数だけは右肩上がり。2018年はホーム年間入場者数が444,243人。1試合平均にすると過去最高の24,660人。今季に至っては「鯱の大祭典」と銘打った夏のホーム4連戦、まさかの全試合チケット完売。ちなみに初戦のガンバ戦まで安定の8戦勝ちなし。みんな頭のネジ飛んじゃってます。いや凄い。何が凄いって、その完売の連戦を1勝1分2敗で完結させるクラブ凄い。

最後の東京戦。思い切って有休使いました。昼からビールとか飲んじゃって、意気揚々とスタジアム向かって。駅出たらとんでもない大行列。しかも雨。どれが何の列でどこが最後尾か分からないカオス。控えめに言って地獄。弱いのに人気があるあの現象。不味いのに行列が出来るラーメン屋なんてありえないのに、勝てなくても行列が出来るチームはある。そしてやはり負けた。書いてて悲しくなって参りました。

いや、我々よりネクラ自慢出来るクラブがあったら申し訳ないんですが、それにしてもここまで毎シーズン勝てないチーム珍しいよ。ていうか、それで観客動員だけ絶好調なクラブ、そうそうないでしょう。ダイナミックプライシングも絶好調。これはもちろん嫌味です。いやはや、クラブで働く皆様の御尽力の賜物以外何物でもないわけですが、それにしたって普通行かない人は行きません。勝てないのに、強くないのに、それでもスタジアムに行く方が減らないとんでも現象が起きてるクラブが我々名古屋グランパスです。

これ、何なんでしょう。

試合当日の行動から考察する麻薬の正体

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別にどれだけ負けてても、しょっぱい試合しても、次の試合になれば楽しみなんですよね。スタジアムに足を運ぶ何万人の皆さんを代表してこの動員を説明出来る能力はないので、自分はどうかなと考えてみました。

まず妻と娘の嫌味ソングに耐えることから1日は始まります。「今日はサッカールーンルーンルーーン♩」ほんと作詞も作曲もクソみたいな歌なんですけど、気づけば娘も歌うようになった恐ろしい悪魔ソング。これに耐えながら玄関で今度は娘からツンデレされます。「....パパ行かないで涙」。ぬああああ可愛い!でもパパは行ってきます飯はちゃんと食えよ。

外出に成功したら、友人とまず居酒屋に行きます。もおダラダラ飲むだけです。大体お店出たら「よし、満足したし家帰るかっ!」って言ってます。とまあそんな本気半分冗談半分なやり取りをしつつスタジアムに向かうわけです。今日こそは勝ちたい。今日こそ出口よ見つかれ。その時だけ引くぐらいポジティブです。で二時間前のスタメン発表でスマホチェック。八宏が相変わらずぶっ飛んだスタメン組んでてちょっとまた酔いがまわります。これ2年半の定番の流れです。

よしスタジアム着いた。はい試合始まった。ばんばん決まりますわ。相手のカウンターが。馬鹿の一つ覚えかってくらいやられます。悔しいかなうちの妻でもテコ入れするレベルですが、風間監督は全く気にも留めない。「それは我々が起こしてしまったことなんでね」。デタこれ。もはや名古屋の方には定番です。やれなきゃやられます。やられた場面をとやかく言っても仕方なし。だって奪われるのが悪いんだから。あっはっは、飲むよね。飲むに決まってるよね。

はい負けたー。スタジアム出たら行きとは景色が違います。まず単純に外暗い。心も暗いから足取りは重い。会話もテンポ悪い。そもそも話してる内容も覚えてない。帰りの電車がキツい。暇じゃん、携帯付けるじゃん、Twitter開くじゃん。もう地獄のようなネガティブワードがばんばん目に入ってくるわけ。かー!堪える。スタジアムで吐き出せなかった俺の心の声達が躍動している。隣の友人の存在も忘れます。「アレ俺こいつとどれだけ会話したっけ」と別れ際に思いつつにっこり。ちなみに帰りは居酒屋行きません。もう私喋る気力がありません。あんなに自宅を飛び出したかったのに今は自宅が恋しい。早くトイレに行きたい早くお風呂に入りたいあーていうかもう寝たい。こうやって1日が終わります。

おはようございます、週が明けました。あら不思議。もう週末を待ち焦がれるおじさんここに居ました平和。でね、試合近づいてくると監督会見あるじゃないですか。読みます。なんかまたそれらしいこと語ってます。あ、なんだこれ、不思議と勝てる気がしてきたぞおおおあおおおお!!!!!!!

病気じゃん。サポーター、ちょっと病気じゃん。

そこにあるのは「愛」(米津玄師が言ってた)

この繰り返しなんですサポーター。名古屋では「ファミリー」なんて言ってますけどね。あれだけ勝て勝て言うのにさ、結局負け続けても観に行くじゃん。混乱。自分が分かりません。そりゃあ皆勝ってほしいに決まってます。勝利ほど幸せなことなんてございません。でも負けてても楽しいもんは楽しいんですよ。そこにそれさえあればね。

たまたま最近、米津玄師のインタビュー読んでいたら、彼は今フットボールに夢中らしい。「愛」だって。フットボールからは「愛」を感じるって。ああそうだなあって思った。最近ずっと考えていたのは、これだけ勝てないチームで、でもこのチームを理解したいとお節介にも発信までして、時に喧嘩売られて。Twitter見ればいつも誰かが怒ってて、擁護派だ否定派だの対立構図でバトルしてて。なんてアホらしい。やりたい人で勝手にやってて欲しい。あー自分はなんでこんな気持ちになるんだろうとか、それでもなんで期待して、スタジアム行って、裏切られて、また期待するのかと。風間監督、実は超がつく優秀なホストで俺貢がされてんのかな。

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いやおっさん。紛れもなくおっさん。ここ理由違う。

とするともう「愛」なんですよ。それ以外説明出来ない。

最近Netflixで「サンダーランドこそ我が人生」を今更ながら一気見しました。あれは皆さんに見てほしい。もう、愛しかない作品です。愛で出来た作品、そうとしか説明出来ない。

www.netflix.com

もちろん愛なんて人それぞれの解釈や形があります。僕にとっての愛とはなんだろうと考えてみると、「相手を理解して、尊重し、常に想うこと」ですかね。うわ気持ち悪いですね。どの口が言ってんだとこの口をぶん殴りたい。

何かと話題に事欠かない風間監督にしたって、何故この2年半応援し、自分なりに彼のフットボールを考えてきたかって、そりゃ名古屋の監督だからです。我々のフロントがチームを託した人間を深く知りたいから。理解したいと思うから。期待したいから。動機なんてそれだけです。それでは飽き足らず、その気づきや自分なりの想いもシェア出来たらもっと楽しめるなあなんて調子乗って今がありますが。

これだけ勝てないと言われるじゃないですか。「風間、お前が成長しろ」って。いつまでやってんだと。でもね、僕はこう思うんです。「ブレたら、終わりでしょ」って。僕が知る限りにおいて、もうその時点でこの人じゃなくていいんですよ。その道なら多分もっと優秀な方いらっしゃるでしょう。これだけ好き勝手やってさ、今更「勝てないからもう少し常識的にやります」って、言葉悪いけどクソダサいから。

僕から見ても非常識なことだらけです。毎回言ってる意味全然分からないし。でも2年半応援してきて、多分この方の魅力は、我々誰しもが非常識だと思っていることを覆してくれるんじゃないかって、そう期待させるところなんでしょうね。理屈を超えた先に、何か面白いものが観れるんじゃないか、そう思わせる力。彼には見えているんだけど、僕たちには見えていないもの。それをピッチ上で、選手達のプレーを通じて見てみたい。彼に課せられた使命って、ほんとはそこなのだと思う。だからその道から降りた瞬間、彼にもう価値はない。彼はどうしても「止める蹴る」とか、その理論に目が行きがちなんだけど、実は監督としての彼の魅力はそこじゃなくて。まともになったら終わるなって、そう思う。

でも見えないわけだから我々は不安になるし、成功する保証もなくて。最後の総括は「やっぱり非常識は非常識だな」って、馬鹿笑えねーよって結論になるのかもしれない。

あえて誤解を恐れず書きますが、僕はそれならそれでいいって思ってるんです。駄目だったね、あいつ口だけだったねって。どこかでそれでいいと思ってる自分がいて。だってさ、我々がそれを自分の信じるものに従ってどれだけ否定しても、ぶつかっても、悲しいかな何も変わらないから。そこまでの権力もなければ、そんな立場にもない。そもそも自分の常識、正義なんてどこかでちっぽけだと思ってるから。我々は愛するクラブから毎日多くの歓びと哀しみをもらいながら、彼らが信じ進む道に「応援する」「ともに闘う」そんな形でそっと背中を押してあげることしか出来ない。それで駄目でも見放さず、「また頑張るか」って。そう無言で寄り添って懲りずに応援を続けるしかないんです。多分それが「ファミリー」なんだ。もちろん前述の通り、愛には様々な形がある。誰もがこうであれなんてこれっぽっちも思わない。かくいう僕も、「おい流石にそれ駄目だろ」って思うこと、そりゃある。腹立つこともある。全然文句だって言う。でも結局さ、現実に我々が出来ることなんて、そうやってわーわー言いながら彼らを見放さず応援することだけなんです。

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だから風間監督が正しいと思うことを貫いて、それを信じて選手達が日々頑張っている内は、例え綺麗事だと言われようが僕は応援し続けます。いや、J2は落ちたくない!当たり前でしょ。落ちたくないけど、その道の先の結末が仮にそうなら、仕方ないと思う。上手くいかなかったねって、またやり直すしかないじゃん。仮に残留出来たとして、その戦いをクラブが評価しなければ、「まあ風間監督の理想では結果がついてこなかったですね」って、その尽力に感謝しつつ、お別れすればいいんじゃないですか。クラブが進む道が正しかろうが間違っていようが、僕たちは好き勝手声を上げながら、それでも応援して、その行く末を見守ることしかできないのだから。そうやって喜びと悲しみを共有しながら、一緒に歳を重ねられればそれでいいんじゃないでしょうか。

悲しいかな常に己の理想通り進むことも、己の常識がクラブの常識になることもない。彼らが進む道を共に歩むだけ。

愛が深ければ深いほど、真剣であればあるほどそれは自分ごとで、その分歓びも、もちろん悲しみも大きなものになる。仲間でも意見は異なる。でも「こいつ意見違うな」そう思っても、普通に笑って話せる人達とずっとわーわーやってたいなとは思う。それで罵り合うのではなく、意見は違っても、そんなの違って当たり前だとどこかで思いながら、まあでも俺たちこのクラブが好きだから仕方ねーなって。一緒に笑って泣いて楽しめる仲間がね、いいなって思う。

思い出そう、学生時代のあの黄色い声援を

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クラブが最終的にどこを目指しているか。どのルートからそこを目指すのか。そもそもどの山を登ろうとしているのか。僕たちには決められないんです。俺が考える理想の頂、理想のルートがあって、その通りに行けと喚いても、それで進路は変わらない。彼らが進もうとするルート、その先にある目的地をイメージしながら、その背後に立ち、ともに歩んでいくしかない。ときに支え、ときに鼓舞し、その道を理解し、ともに笑い、ときに泣いて、隣にいる奴とべちゃくちゃ文句言いながら、一緒になってついていくしかないんだ。

だからね、文句言いながらでも応援はしたいんです。今誰よりも苦しいのは選手達だから。きっと持っている常識からすればありえないって思うこと、なんでここを直さないんだって歯を食いしばってること。あるに決まっていて。勝てなくて、自信が揺らぐこともあるでしょう。それでも前に向かう選手達を僕らが期待してあげれなければ誰が期待するのか。いいじゃないですか、それで駄目なら「よく頑張ったな」って、心の中で背中さすってあげようよ(触れられないし)。「学生長距離走理論」思い出して。ツラい長距離、罵声浴びながら走れないよツラいもの。男は暑苦しい輩でも応援されたら嬉しいし、それが女性ならその三倍走れるんです。

あぁ、無償の愛って、忍耐、忍耐、時々の幸せですね。

ちなみに直近の夢、いつか風間監督が次のクラブに移った際、「取説だと馬鹿やろう。この長いブログ全部読め」と吐き捨て、この何年間の心の揺れ動き具合で全て悟ってもらうこと。このブログのトリセツ書きましょうか。悲しいくらい長文です。西野カナみたくポップな曲にも仕上げてません。

どろどろのノンフィクション。これだけは永久保証。

貫いた先に待っているものとは

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保育園で購入した娘の写真を眺める僕に妻は言いました。

「何か気づくことある?」

可愛い。気づきました可愛い。娘可愛いです。遠足でお友達と楽しそうに写ってます。ん?どうやらそこじゃない。

「レジャーシート、買ってあげないとね」

え?なんでですか?

「!!!!!!!!!!!!!!!!!」

僕があげたグランパスくんのレジャーシート。裏返して敷いています。1人だけ、たった1人我が娘だけが裏返して、おにぎり食べながらカメラ目線でにっこりしています。

「好きな柄だったら絶対にそんな使い方しないからね」

気を使ってんのよと笑いながら語る妻。絶句する僕。

またしても敗戦

娘に父の趣味は裏返され、一方で父に目を向けますと、こちらも裏返して消し去りたい敗戦が続いております。

誰が「鯱の大失態」だ。我が家か。我が家のことですか。

現在の我が家は父の魂が不在ですが、名古屋はといえば今回の東京戦、主力が4名不在でした。代わりにチャンスを掴んだのがアカデミー卒の成瀬、そして藤井。試合の中でどんどん変化する彼らのプレーは純粋に楽しめました。というか、それくらいしか楽しめるものがなかった。残りは裏返します。

チームとしての出来は厳しかったですね。流石に主力が4枚も欠け、誤魔化しは効かなかった。それは決してアカデミーの選手達を問題視しているわけではありません。純粋に、この日のチームの機能美とでもいうのでしょうか。あまりに継ぎ接ぎで、誰もが悩みながらプレーしている様子が手に取るように伝わりました。ボールを受けてから次の手を考える。またはボールを受ける前から次の手を打つ余裕がない。

端的に「目が揃っていなかった」ですね。揃わないからボールも流れない。流れないから、チームの繋がりを感じない。あのメンバーで、あの形で、どう相手ゴールに迫るのか。そのゴールから逆算した道筋がどうにも見えませんでした。期待はマークを瞬時に剥がすジョーだけ。ボールが前に進まないから、シャビエルもアーリアも中盤に戻って四苦八苦。裏に抜ける選手は皆無、唯一ゴールから逆算した動きを続けるジョーだけが、得点の香りを醸し出す希望でした。

「キャスティング至上主義」

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こう言ってしまうと極論が過ぎるかもしれませんが、「技術という手段をもって、ピッチ上の選手達を繋ぐこと『だけ』に注力する」。風間監督のそのポリシーが変わることは此の期に及んでも尚ありません。誰を使うか、彼らを繋ぐにはどの形(システム)が最適か。与えられた選手が変わろうとも、その発想が変わることはない。だからこそ選手の質は当然ながら重要で、なにより彼らを繋ぐ上で個々の質はそれなりに近いものでなければなりません(目を揃える必要性)。

この日の名古屋は目がばらばらでした。これまでに何度も語ってきましたが、このチーム、それでは話になりません。攻守においてチームで意識的にデザインした形があるわけではなく、あくまで目が揃った選手達がボールを握ることで始めて、全ての機能が健全に循環するわけですから。

おそらく風間監督は分かっていたはずです。このメンバーでは目が揃わない、と。それでも期待してピッチに送り出し、またも期待通りとはいかなかった。決まった形がなく、技術を駆使することで選手間を繋いでいく。それは一見するとシンプルで、自由で、それでいて美しい。ただ同時に、それだけ難題を要求しているとも解釈出来ます。出来ることを目一杯やるわけでなく、出来ないことに期待し挑戦する。どんな状況でもそれを貫くことだけは変わりません。

主力が1人でも欠けるとチームが大きく揺らいだ昨年の反省を踏まえ、今年は各ポジションに高いレベルの選手達を擁し、競争させることでチーム力の底上げを図りました。しかし案の定、今年も夏のマーケットで出番が少ない選手達がチームを去っていった。ただしこれは仕方ありません。風間監督のチーム作り、またその上でのマネジメントを考えれば。

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必要だったのはその分の補強です。競争の中で出番を失った選手が他クラブに活路を見出す。クラブはその選手のキャリアに配慮し、意思を尊重する。であるならば、大事なのはその分選手を仕入れることです。この競争サイクルを機能させる上で、これはマストと言ってもいい。ただしこの点に関して、昨年と状況は異なりました。一つはクラブが求める選手のベースが上がったこと。そしてもう一つ、出て行った選手の質が高かったこと。真相は分かりかねますが、結果的に今夏は菅原含め7名の選手がチームを去り、代わりに2名の新しい選手が加わりました。ただ残念ながら現状は頭数も足りなければ、新加入選手でレギュラーを掴み取った選手もいない。残念ながらチームの競争力は落ちた印象が拭えません。

この試合に限っていえば、その現実を突きつけられた試合ともいえます。後半から流れを変えられる選手がいないため、前田をベンチスタートにする。チームが機能しなければ途端に足かせとなるネットの代わりもいない。それらを今のチームは「若手を育成すること」で解決する腹づもりです。その方向性を反対するつもりは全くありません。問題は2年半で積み上げた「選手層」の部分において、レギュラークラスの選手達とそれ以外の選手達で改めて差がついてしまったことです。このチーム作りにおいて、これも必要なサイクルの一つだったのか。はたまたこのマネジメントの限界なのか。

ACL」は目標か、ただの願望か

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もう一点。この状況において尚、風間監督のスタンスが全く変わらないことも見逃せません。シーズン前、チームは今年の目標を明確に「ACL出場」と宣言し、我々は期待を抱きました。ただし現実はここ14試合でたった1勝。これまで述べた通り、チームの状況もこの半年でまた変わりました。

それでも彼がやり方を変えることはありません。今ピッチで起きていることは、あくまで「やるべきことが出来ていないが故に起きている結果論」です。目を向けるべきは出来ていないことであり、その結果起きている現象に取り立てて意味などない。何故ならそこはそもそも考慮していないからです。結果を求めるために出来ることから手をつけていく。そんな現実的な手段もまた、この期に及んで持ち合わせてはいない。いや、分かっていてあえてこの手段を取り続けている。もちろんそれがチーム力の向上、つまりこのチームの場合、個々人のレベルアップに繋がるのでしょう。同時に目先の結果を担保する十分なキャスティングが出来ない今、そのやり方に固執することで果たして結果は得られるのか。

勿論シーズンはまだ9試合ありますから、ここでの総括は時期尚早です。いま目を向けるべきことは、このチームビルディングで求めていた結果が得られるかどうか。その目標に対し風間監督の試合での采配、彼のマネジメント、それらを踏まえた上での強化部の働き。これらがその目標に足るものかどうか。そもそもそんな目標は願望で、必達でなかったのなら話は変わります。ただしそうであるなら、ファミリーにはこう宣言すべきでした。「目標はACL出場だが、現実的には最低でも5年かかる。何が起きても我慢して欲しい」と。

では仮にこの目標がチームに課せられたものであったのなら。残りの9試合で帳尻を合わせられるかが焦点です。

惜しむらくは、今この時点で「ACL出場」の目標がどこまで本気だったのか、我々ファミリーには誰一人知る由もない大風呂敷となっていることです。つまり、何をもってこのチームの取組みを評価していくのか、その指標がどこにあるのか分からないのは、我々ファミリーにとって残念な点です。

何故ならその掲げたハードルを知ることでしか、結果的に年間を通した風間監督の采配がそれに足るものだったのか、ひいては彼のマネジメント、それをフォローするバックアップ(補強)が満足出来るものだったのか理解することには繋がらないからです。我々にジャッジを下す権利はなくとも、クラブの取組みを知る上でこれはとても重要なことです。

何度も指摘した通り、このチームの生命線は「選手層」と「競争力」です。中堅どころの準レギュラークラスの選手達を手放したことは、果たしてこのチームのサイクルにおいて不可避な出来事だったのか。それともこれまでのマネジメントにそもそも大きな問題があったのか。その文脈において、現在の風間監督の采配は身を結ぶのでしょうか。

「おい丸山!やる気あるのか!」

試合後、スタンドからは多くのヤジが飛んでいました。おそらくいま誰よりも悩み苦しんでいるのは、やる気だけではなんともならないピッチ上の選手達でしょう。

サポーターっつうのは大変なんですよ

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先日は沢山の「娘が可哀想だ」の声、ありがとうございます。翌日、長良川にいたサトミキをすっ飛ばして遠方まで娘を連れて行きましたので、「あぁ素敵なパパさんやなあ....」の印象でお願い致します。

今回は、この記事を書いて皆さんからいただいたお声、また最近のSNSTwitter)の様子を見て感じたことを、もう少しだけ綴りたいと思います。

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それにしても試合が終わって尚、名古屋界隈盛り上がっております。ここまで一週間ネタに事欠かないのも逆に凄いんじゃないか、いい感じに麻痺してきました。八宏ありがとう。

前回のブログはあえて自虐っぽく書いたんですが、あそこに込めたメッセージは凄くシンプルだったんです。あの横浜戦での一日で、僕自身、率直に感じたこと。それはとにかく、とにかく娘だけは大切にしようぜなあみんなと。

ち が い ま す。

僕があのブログを通じて伝えたかった想い。それはサポーター(以下、名古屋目線でファミリーとします)の実態。個人の価値観と、おそらく誰しもが持つ共通の想いとでも言いましょうか。それが同居したこの複雑な感情を伝えたかった。

個人の価値観とは

ファミリーたる者、誰しもが理想のクラブ像があります。なって欲しい姿、求める理想、ありますよ。そしてそれは多くの場合、バラバラです。不思議なことに、同じクラブを応援しているのに、そこに求める姿はバラバラなんです。

なのでそこを議論するならともかく、例えばその価値観を持って誰かを言い負かそうなんて無駄なんです。そりゃあ居酒屋でも行けば「俺の理想が正しいんじゃあ!」って、つい酔った勢いで言うこともあるでしょう。許す!酒の力借りる可愛さ許す!だって誰だって自分の意見は少なからずとも正しいものであって欲しいじゃないですか。でも公の場でその正しさを証明しようなんて実は野暮なことで。絶対に皆がアグリーすることなどない、それを教えてくれたのがSNSTwitter)じゃないのかと。皆が皆、同じ意見なんてあり得ないですよ。そこにあるのって結局は「共感(「発見」も含まれる)」があるかどうかだけ。「あ、この人の考え方好きだな」とか、「俺この人の考え方近いわ」とか、「この人の考えは新鮮だな」とか。勿論そこに共感を呼ばないと、何故だか嫌われることだってあります。そりゃ出来ることなら嫌われたくないけれど、中にはそうなることだってありますよ人間なんだから。僕のことが嫌いな人もそれなりにいます。その自覚くらいはあります。だから以前にはこんなブログも書きました(自分を慰めるために)。

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誰しもが持つ共通の想いとは

でも例え意見が合わなくとも、「勝ったら嬉しい」「負けたら悔しい」そこだけは一緒なんです。だから必死で毎試合応援するんです。もうね、そこだけ一緒ならええやん!僕はそう思うんですよ。あとは好きでも嫌いでもさ。同じクラブを応援する、その醍醐味これなんじゃないかって。皆価値観バラバラで、ぶっちゃけファミリーと言いつつ「こいつ嫌いやわあ....」って感じる相手いるでしょ絶対いるでしょう(二回言った)。でも不思議と試合中は「勝ってほしい」って、同じように願うんです。おかしな話ですよね。そんな風に誰しもが無条件に応援しようなんて思える存在、この世の中にいくつあるでしょうか。ファミリー、ファミリーって何を根拠にこんな名前付けたんだって考えたりもするんですけどね。血なんぞ繋がってねえ勝手にファミリー扱いすなっ!ってさ。でもなあ、もうこの関係性こそがファミリーだろうと。

「勝ち点3こそ正義」。僕はこの考え方、正直あんまり得意じゃなかったんです。多分元々がサッカーオタクだから、サポーターと言いつつもどこかでそのフットボールを冷静に観てる自分もいて、「勝利だけが全てじゃない」って。そう感じていた自分がいたと思います。それはまさに僕の価値観で。

でもファミリーがおそらく唯一繋がれる(共感出来る)部分、やっぱり「勝ったら嬉しい」「負けたら悔しい」この感情だけであって、その意味においての「勝ち点3は正義」、これ正しいんだと思う。大正義ですよ。だって勝ったら誰だって嬉しいもん。負けたらめっちゃ気落ちするもん。その意味においてなら、これ正義だなって。そう思うし。

一方で勝てないとき、「議論」なんて都合良い言葉を使って誰かを言い負かそう、ないしは異なる考えの持ち主にレッテル貼って優越感に浸るとか、ほんと無駄じゃん。だってそれは各々の価値観の話だから。その気持ちは自分で処理しないと駄目です。なんて言うんだろう、その「やり場のない己の価値観を人にぶつけることで精神を保つ行為」って、物凄く人に甘えてると思うんです。例えばそうだな、そもそも議論なんてもの自体も、顔見知りとまでは言わなくとも、お互いに「ある程度この人とならやり取りが出来る」、そんな信頼関係が前提になければ成立しないんじゃないか。少なくともTwitterという場において、最近はそう感じるんです。その前提がないやり取りは、殆どが「価値観のぶつけ合い」ではないですか。それはただの自己満足。せめてそれやるなら相手もそのつもりじゃないと駄目で、ノーガードの相手に勝手にぶつかりに行くのは煽り運転と同じで一番駄目だと思います。本当にハタ迷惑でしょ、煽られる側は。

今のファミリー可哀想でも幸せ(はっ!?)

なぜ名古屋界隈が毎度お騒がせで揉めるかってね、いや勿論揉めるのが好きな人もいるかもだけど....少なくない理由として、その唯一ファミリーが拠り所にできる「目先の勝敗」に、監督である風間八宏が徹底的にこだわって、何してでも掴み取ってやろうとする人ではないことが、一つ要素としてあるとは感じます。勿論負けず嫌いだと思いますよ。でも彼が考える「強いチーム」は、その「目先の勝敗にとことん拘るやり方」ではなることが出来ない、きっと彼はそう考えているから僕達にそんな印象が残るんです。それはあの無策っぷり、普段の練習、試合後の彼の言葉から。だから好き嫌いも分かれるし、いつもそれが揉める原因の根底にある部分なんだと改めて思った次第で。ただ繰り返しになるけれど、それを肯定する人もいれば否定する人もいるわけで、そこを対立構図とするのは不毛なんですよ。正解なんかそこにはなくて、実際は正解と「思いたい」から生まれる構図なんです。

一方で、これっぽっちも未来に目が向いた話なんかなく、ただなんとなく目先の勝敗に一喜一憂するサポーターライフってのも、なんだか寂しい気がするんです。それが例え「あんな野郎にゃ名古屋は預けられねー」でも、「止める蹴るに未来はない」でもいいんです。そういう我々が各々考える、夢見る「名古屋の未来」を語れるその環境こそが、実は一番大切なんじゃないかって。そんな各々の「なって欲しい姿」を語れていること自体は、決して悲観することもなく、全然悪いことなんかではないと。我々のクラブが前に進もうとするから、何かを作ろうとするから起こることなんだって、そう思う。それをピーチクパーチク好き勝手言ってるのが何よりの醍醐味で、同時にその土俵で誰かを言い負かしたって、クラブがその通りに変わることは残念ながらありません。

こんな時期は時に応援するのがツラいときだってあるでしょう。いいじゃないですか、休みましょそんな時は。頑張りたくとも頑張れないときはあるんですから。自慢になりますが僕も仕事のモチベーションは全然上がりません(あっはっは)。本当は応援したいのに、どうしても気乗りしない時、あるある。頑張れ頑張れが重てえぞと。全然問題ないです。僕も最近久しぶりにバルセロナの試合観たんですよ。技術レベルちょー高いの。風間ストレスなんてイチコロですわ。

こんな綺麗事が嫌いだって人がいるのも分かってます。偉そうに今更何言ってんだと、面白くない人がいてもおかしくないと思いますよ。これを読んで腹が立つ人だっているかもしれません。誰からも好かれたいなんて、そんな夢見がちなおっさんでもありません(傷つきたくないけれど)。

でもこれ僕のツールなので。僕はこう思うぞと、改めて伝えたいと思いました。誰に向けてでもなく、自分の気持ちを。

最後に締めの一言を。

トップ画像は、僕が(貴方が)喰いつかれたイメージです。

泣く娘と、試合に泣いた親父

どれだけ言っても聞く耳を持たない旦那に呆れて、妻は諦めたようです。二週間に一回、もう仕方ないと。

そんな妻に甘えてルンルン気分で家を飛び出そうとする親父を見て、玄関先まで追っかけてきた娘は言いました。

「パパ、一緒に行く」

「ごめんね。暑いし、すぐ帰ってくるから我慢できる?」適当な嘘を言ってその場を立ち去ろうと試みる親父を見て、娘は大泣きして抵抗しました。分かってます。最低な父親だと分かっているから、そこはあえて触れないで。そこ、本題じゃないから触れないで。安いドラマだななんて言わないで。

楽しみにしていた道中もなんだか気分は優れず、罪悪感とそれでも行ってしまう自分に呆れながら着いたスタジアム。

待っていた「無策」。そして大敗

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1対5の大敗。結果は散々でした。

帰り道。娘の涙と天秤にかけ優先した今日一日に、一体どれだけの意味があったのだろうと自問自答を繰り返す。もちろんそんなことにもはや意味はないし、それでも尚、足を運んでしまう大馬鹿野郎であることも自覚しているんだけど、その後ろめたさが消えることはありませんでした。

電車の中で風間監督の試合後インタビューを読みました。

後半の立ち上がりからほとんどハーフコートでサッカーをやった。前半はパズルに選手が戸惑ったが、後半は全く変えて自分たちの戦いをした。その後は10人では、どうしようもない

あぁ、この言葉にこの人の哲学全てが詰まっている、そう感じました。ほんとに主役は選手達で、毎試合ピッチでパズルを解かないといけないのは選手たちなのかと。見たこともない応用問題をだされると、解くまでにあまりに時間がかかる。解けないうちは、自分達の「枠」が維持されることはなく、最終ラインの門は開きっぱなし。ああネット。そうだ、この展開だと駄目な時のネットこんにちはだ。

「ない」ようで「ある」風間サッカー

「風間サッカー」。風間監督が言う通り、厳密に言えばそんなものは存在しません。自分達の枠と、相手コートを支配する。この前提さえピッチに作り出せれば、何をしてもいい。その意味でいえば、確かに決まった型など存在しないフットボールであることは間違いありません。一方で、では自分達の枠と、相手コートを支配するにはどうすればいいのか。勘違いしていけないのは、彼らにとっての「自由」とは、これが出来ている前提で存在するということです。確かに彼らの主語は常に「自分達」です。同時に、その主語を成立させるために、彼らは「相手を見る」を合言葉とします。つまり決して自分達が好き勝手やるわけではなく、向き合う相手がいて始めて彼らのフットボールは動き出す。その上で必要な基礎練習を、彼らは毎日、毎日繰り返します。ただ試合で起こることは、当然のことながら「応用問題」ばかりです。

これまでの2年間と今年が決定的に違ったのは、開幕の段階からこのチームがある一定の土俵では他チーム以上の破壊力を備えていたことです。その結果、一巡目が終わる頃には相手も様々な応用問題を仕掛けてくるようになり、それを解けない日々が続いた。やっと慣れてきた頃に、今度はまた見たこともないパズルを横浜が仕掛けてきた(それがどういったものだったかは、今回の主旨と逸れるため割愛)。そんな苦い経験値をチームとして積み重ねることでしか、このチームはきっと成長出来ない。彼らの進む道、いや進もうとする道を見ていると、そう思えて仕方ありません。

名古屋の守備が酷い。いやその通り。その通りなのに、そんな指摘が彼らがやっていることの本質から逸れている気もしています。そもそも相手が仕掛けてくるパズルを解かないことには、このチームは何も出来ないのだから。それは自分達のビルドアップ時然り、相手のビルドアップ時然りです。

5点も獲られたのに「横浜に負けた」そんな感覚は乏しく、「横浜が提示した応用問題を、名古屋の選手達が素早く解けなかった」そんな試験に落ちたような感覚になってしまう。

そうだ、最近ドイツ帰りの酒井高徳のインタビューにこんな言葉がありました。

jocr.jp

プレッシャーとかボールを取りに来る迫力は海外とは比べられない、と正直感じました。3人に囲まれるところでも、取りに来ているんだろうけど、こっちはそんなにプレッシャーに思っていないです。やってるサッカーが違うと言うところもあるが、海外では、チーム全体でプレッシャーを掛けていて、「うわ、全然スペースないな」って思ってしまうのが、相手のプレッシャーの掛け方が上手なところ。逆に日本は、一人かわすとスペースがスカスカに空いてしまうので、そう言うところはリーグとして違うなと感じました

また印象的だったのはスペインでの学びを語る鈴木大輔

youtu.be

現在の国内リーグのレベルは、世界に視野を広げた際どうなんでしょう。小手先のチーム戦術だけでは、一歩外に飛び出せば全く通用しないのではないか。海外でプレーする選手達が、毎回こぞって「やっているスポーツが違う程の印象」と語るのは如何なものか。おそらく、僕はその意味において、そもそも普段観ている国内リーグに懐疑的なんでしょう。実はこの国のフットボールの基準そのものがとてもガラパゴス化した、それこそが「和式サッカー」そのものの正体ではないのかと。だから目先の結果、この狭い世界での勝敗より、もっと根本的な問題に取り組んで欲しい。応援するクラブの選手達が、よりスケールの大きな選手になって欲しい。そう思ってしまうんです。そんな我々の常識、既成概念を、少なからずとも風間監督ならぶち壊してくれるんじゃないか。必要な技術を徹底的に教え込むことで。そして必要な戦術理解力は安易に教え込まず、徹底的に考えさせることで。

だからどれだけ負けても、どれだけキツいやられ方でも、彼らが取り組んでいることが理解出来るうちは、また応援頑張ろうって。そう思ってしまうのです。

相反する二つの想い

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一方で、これまで何度も言及してきた通り、そんな風間監督への賛否が尽きることはありません。でも当然なんですよ。僕たちサポーター(ファミリー)は、毎試合いろいろな想いを抱いてスタジアムに足を運んでいます。お金を払って、時間を作って、周りにある環境を必死で調整して。

その先にある結果が1対5で、負けた原因が「選手達がパズルを解くのに時間がかかった」と言われた。やるせないに決まってるじゃないですか。いや、そのパズルを事前に想定し、選手達が困らないようにするのが監督の役目、務めだと感じる者。相手とのその応酬こそが試合の醍醐味だと考える者。俺は目の前の試合にとにかく勝つことだけを求めているんだと唱える者。それが例え狭い世界であろうと、我々が暮らすこの国内リーグで勝つことこそが正義であり、そのために応援しているんだという者。みんな、みんな正しいんだ。

スタジアムには、いやテレビの前で応援するファミリーも含め、皆が皆勝って欲しいと思っているし、負けたら悔しいに決まってるんです。涙する娘を置き去りにして、わざわざスタジアムに足を運んで、「今日は選手達がパズルを解けませんでした」って。ええ!?そんな回答ある!?俺はそのために今日という一日を費やしたのかって。そりゃあやるせないに決まってるじゃん。うん、とにかくやるせないのです。

これほど難しい監督もなかなかいないでしょう。試合というものに対する根本的な考え方が全く普通ではないから、それについていく選手以上に、毎試合お金を払って、都合をつけて、家族を天秤にかけてでも足を運んでしまう大馬鹿野郎からすれば、こんな報われない監督もいないのです。「チーム」として全力尽くしてよ。パズルが分かってたなら助けてやってよ。勝つために、やれること全部やってくれよって。選手達が出来なければこんなこともありますから。いやいや、俺たちの時間を何だと思ってんの!?チケット代、みんなどれだけ払ってるか分かってんの!?

でも....それでも試合をある種の「発表会」と言っているようなこんな監督のもと、我々の愛するクラブの選手達が頑張るのだと思ったら、何故だかそれでも期待してしまうのです。このクラブには、選手達には、小さくまとまって欲しくないと。僕がこのチームをそれでも応援してしまうのは、きっとそこへの期待と、僕自身の問題意識がそうさせるのだと思います。こんなに悔しくてやるせないのに、それと同じくらい、風間監督の想像や要求くらい超えないと強くなんてなれねーよって、そうどこかで思ってしまうのです。

誰だって勝てば嬉しい、負けたら悔しい

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こんな一日のために俺は自分の我儘で家族を置いてきたのかって心底自分が嫌になるけど、それでもこのチームの取組を理解し応援してしまう自分の馬鹿さ加減がほとほと嫌になります。みんな勝てば嬉しいし、負けたら悔しいし、落ち込むんです。それだけは、同じクラブを応援する誰しもが、きっと同じなんです。ファミリーがクラブに、その日のスタジアムに求めるもの。対して風間監督が、ピッチで表現しようとするもの。これが噛み合わない一日は、本当に歯痒く、ツラい。我々ファミリーは、この2年半、ずっとこうやって自分自身と折り合いをつけながら、毎日やってきたんですよね。

そんな毎日が正しいかどうかなんて、真実は分かりません。分からないから、揉めるんです。それでも期待する者と、そんなものに期待は出来ないという者と。そこへの答えなんて、ありません。一つだけ間違いないのは、勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい。そんなサポーター、ファミリーのあるべき姿だけです。やるせない、やるせない。

「本当に悩ましい監督だな........」

帰る道すがら、泣きじゃくる娘の姿を思い出し、また僕は自分の気持ちに無理やり折り合いをつけるのでした。

クソリプ、時々、妬み。

cakes.mu

この記事、素晴らしかったですね(無料期間は既に終了)。

最近もTwitterで悩む若者を見ながら、僕自身も「自分にとってのSNSって、そもそも何のためにあったんだっけ」なんて時々ですが考えたりしてました。今更SNS論、厨二病ですねごめんなさい。でもSNS、意外と難しいよね(共感をください)。なんか悩む方の気持ち、分かる気がしていて。

今回はSNS(てかTwitter)の難しさを、これまで僕自身体験してきた苦い経験も交えつつ考えてみたい、そんなお話。

「好き」を発信したい

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そもそも僕自身も始めたきっかけは、「好きなことを、好きなときに、(同じ対象を)好きな人達と語りたい、共有したい」これだけです。ご存知の通り、好きな対象とはサッカークラブの名古屋グランパス。2016年に初の降格を経験し、ある意味一からの出直しを迫られた我々のクラブ。その這い上がっていく様を皆さんと共有したい、何故かそう思ってしまった2年前の春。恥ずかしながら初めてでした、そんな気持ち(恋じゃないです)。なので当時はドがつくSNS初心者。デジタルな人間ではない僕がこの世界に入っていくのは、少しばかり勇気が必要だったのを覚えています。

ありがたいことに認知だけは少しずつされるようになりました。感じた想いを吐き出したい、それでキャッチボールが出来たらいいな。その程度の願望が、あれよあれよと共通の「好き」が人を繋いで仲間がちょっとは出来たり、予想だにもしなかった書きごとなんか始めまして、気づいたら定期購読してた媒体(webですが)に寄稿したり、面識のなかった方と予期せぬ出会いがあったり。正直恵まれていたと思いますし、勿論そう思えるのは周りの皆さんのおかげです。わざわざ長いブログに時間を割いて読んでくれる。しかもコメントまで時に貰えたりする。控えめに貴方達は神です。Twitterで少しばかりは自分を取り巻く環境も変わった気がします。というか現代におけるSNSの認識が不足していました。あぁもはやバーチャルの世界だけではないのだなと。

皆さんにもそれぞれにSNSを始めたきっかけはおそらくあって、その動機をもって今の運用方法が自然と決まってると思うんですね。僕の場合は先程書いた通り、あくまで「好きなことの発信、共有」です。だから無意識にもそれ以外のことは殆どツイートしてないことに気づきます。おそらくそういった欲をSNSに求めていなかったんでしょう。

開かれた場所であるからこその難しさ

ただどんな気持ちでやっていようが、不思議と足を引っ張りたい人は必ずいます。これ、相手を人選出来ない環境である限り逃れられません。僕はとりわけサッカー界隈におけるツールとしてのTwitterの価値、物凄くあると思ってるんです。気軽に言葉を紡げるし、そこには必ず共通の「好き」を持った仲間が存在し、時に異なるクラブの応援者とも横の繋がりが出来る。そこにマスコミ関連のいわゆるプロの方々の情報も転がっていて、ある意味カオスで、でもこれほど様々な繋がりが持てるツールはないんじゃないかって。

ただ同時に経験年数を重ね、自身への認知が少なからずとも上がると、もう一つ気づくんですよ。それは「誰でも参加出来るが故に発生する妬み、不要な繋がり」が存在することにです。これが楽しく使いたかったツールの邪魔をします。

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例えば今の名古屋も悲しいかな一つの例です。指揮をとる風間監督への賛否、いや単純に好き嫌い。極端なほど分かれます。それ全部風間監督が悪いんですけど、そもそも別に好きなら好き、嫌いなら嫌いでいいんです。もっといえば、その対象を「理解したい層」だっている。理由は様々です。好きなクラブが選んだ監督だから、好きなクラブが進もうとする道を深く掘り下げたいから。ただ残念ながら、そんなのお構いなしでどうしても己の感情を人にぶつけないと気が済まない人も中にはいます。いや、ぶつけるだけならまだ良し。異なる意見を持つ者をとにかくねじ伏せたい人がいる。そういった方は、一見理論武装してるように見えても、実際にあたられる側は伝わるじゃないですか、向かってくる動機なんて。これ、例えば異性の容姿に対する趣味を、他人に強要してるのと変わらないわけですよ。黒木華が好きな僕に土屋アンナ押しつけるのは無理があるでしょそうでしょう。

よしではミュートしましょう。でもこの機能、相手からすればその扱いだと知る由もないわけでして、気にせずクソリプなる「足跡」が残せます。正直それも勝手にやっててくれれば構わないんですが、ただ足跡が残ると周りはそのク◯(この例えしか思いつかん)に気づくわけで、その臭いを話題にしちゃうと結局はクソリプ主の思うツボ。利用される余地があるのも考えものです。やはりブロック機能は必要だ。

すると次はこれ。「◯◯にブロックされた」報告。なにあれ。振られた人間が振ってやったみたいに強がるアレよ。あの報告誰向けですか。分かりました、百歩譲っていいでしょう。どうぞ皆様にご報告ください。そうしないとやるせないんでしょう。その代わりもうそっとしといておくれよ。これ単刀直入にク◯迷惑(こうしか表現出来ん)なんだから。

相手に突っかかってブロックされると、それを言い負かしたと勝ち誇った気になる方。違います。それはきっと突然言葉を投げられた相手が、貴方の言葉から「敵意」を感じたからです。議論ではなく、(自分限定の)ロジックをもって打ち負かしたい。そんな気持ちが透けて見えるから、そもそも関わられたくないだけです。都合良く受け取りすぎです。

「妬み」

でも実はこんな方々は可愛いものでして、ほんとに拗らせると永遠粘着してる方もいます。凄いですよ、その執念は。基本的に自分が目立ちたくない、悪者になりたくないので、直接は絡んできません。常にエアリプの嵐。妻にだって(おそらく)ここまで妬まれてないです。ここで冒頭のブログと話が噛み合うのですが、やはりちょっとでも目立ち始めると妬みは必ず起きます。最近、「好きの反対は無関心だ」なんて読みましたがとんでもない。それはまだ平和な世界です。おそらくこういった経験をしたことがないのでは。妬みの力は凄いです。何か貴方にしました?って考えてみても、こういったケースはしてないんです往々にして。ただ気に食わない、その相手にとって面白くない存在だった。実は理由なんてそんなもの。もはや学校のイジメと一緒です。

何故こういったことが起きるか。相手を徹底的に下に見るからです。その相手が周りからチヤホヤされ始めるとどうしても許せない。「ここでは俺が一番だったのに」、そんな自分にとってあるべき理想、暗黙のルールなるものが存在し、それに沿って行動しない人間が現れると我慢ならない。心底自尊心が強い方はやるせなくなってこう言います。「もうTwitterやめます」。こんなの俺の理想じゃないと。ただまずやめません。そんな簡単にやめれたら、そもそもここまで拗らせませんから。仮にブロックしても、この手の方は複数アカウント所持が当たり前。あらゆる手で貶めようとするから無意味です。その場合、悪趣味ですがミュートという名の壁打ちをしてもらいましょう(実際にそうしてます)。

操作一つで出来てしまう壁

ここまで読んでいただくと分かる通り、楽しくやりたいと思って始めたものでも、SNSはどうしたって人と人との関係から逃れられません。よほど気心知れた人だけで形成されていれば別ですが、オープンであるが故にこういった気苦労が消えることはない。これは僕に限った話でもなく、大なり小なりこの手の話、相談を受けたことは何度かあります。

でも僕思うんですけど、本当にツライ瞬間ってこれじゃないですよね。最も堪えるのは、全く予期せぬタイミングで、予想だにしない方にブロック対応されるときです。これは僕も落ち込みます。自分に何か問題があったのか、そう自問自答することもある。でもこれだけあらゆる方と繋がれる場では、きっと起こり得ることなんでしょうね。だって30人程度のクラスでも仲の良いグループとそうでないグループって自然と出来てしまうから。皆と仲良くやろうなんて、物凄く図々しいことなのかもしれません。普段の実生活において、面と向かって「貴方のことが嫌いです」と直接言われることはまずありません。自然と疎遠になって終わり。でもSNSは違います。明確に「ブロック」なる手段をもって、縁を切られたと可視化されます。こればかりは自分の言動も反省しつつ、とはいえ割り切るしかありません。詮索しても真実が分かることはない。つまり相手に理由を求めても仕方ないわけで、気に障ったならごめんなさいとしか言えないわけです。

逆にいえば、それだけ「ブロック」という行為は相手にとって辛い場合もあると理解する必要があります。例えば直接的な実害はなく、単純に気に入らないだけ。そんな相手には、そこまでする必要がない方も必ずいます。これは自戒も込めて記しますが、やはり相手の人となりは可能な範囲で考慮した方が良いです。一度それをして拗れてしまえば、なかなか元の形に戻ることは出来ません。後で気づいても遅い。

大事なのは「どう付き合うか」

youtu.be

最近この動画をたまたま見ました(フル動画は終了)。

この場で語られていることは、つまるところこれまで書いた内容に通ずる話です。つまりこういった煩わしい人間関係に生産性などあるわけもなく、であればハナからクローズドの世界で集まる方が有意義であると。オープンな場の難しさは最近痛感しています。だから気持ちは痛いほど理解出来る。

「好き」を発信し続ける。これ意外と難しいことだと最近感じています。楽しむことを目的として始めたものが、気づけば人間関係のあれこれで気を揉んだり悩むこと、やはりゼロではないんです。だから時々思ってしまう。「あれ、なんのためにSNSやってたんだ?」と。どこかでこのツールが自分にとって消耗型になってないかって。仮にそうだとしたら、わざわざ何のためにその世界に足を突っ込んでるのかと。画面の先になんだか見えない世界があって、そこには沢山の住人がいて、暗黙のルールやマナーも存在する。例えば僕のようにサポーターとしてTwitterをやっている人間には、その世界でのタブーみたいなものも勿論ある。僕自身、初めの頃はそれでかなり悩みましたし、実際に失敗したことも多々あったと思います。良かれと思ってやることも、実は自身に未熟な点があったなんて当たり前のように起こりえます。

大切なことは、このツールとの「付き合い方」です。どういった特性があるか理解した上で、ある程度割り切って使うことが最も楽しく使えるコツなのかな、最近はそう感じています。当然ながら全能ではないんです。だからこそ、良いところと悪いところを理解した上で使用するべきなのだと。

沢山のご縁に恵まれ、僕自身はこのツールに飛び込んだことを後悔していませんし、やめるつもりも今のところありません。同時に人間関係で苦労している、嫌なことがあった、煩わしくなりつつある。そんな方には、改めて自分にとっての使いやすい付き合い方を考えていただいて、無理なく使ってもらいたいなと何目線か分かりませんが願っております。

「人気者ですね」最近そう声をかけていただくことがあります。でもこうも思うんです。いや画面の中にある世界って、そこまで広大ではないよって。例えばフォロワーが五千人いる、一万人いる。それで僕のステータスが何か上がるか、勿論そんなことはありません。それこそ豊田スタジアムって四万人集まるんです。少なく見積もっても三万五千人は僕のブログ読んでないわけです。ちっぽけすぎるやろ自分。

確かに時々錯覚します。画面越しのこの空間も一つの世界として成立しているから、そこでの人間関係がなんだか物凄く生活の大半を占めているような気持ちになるときが。でも画面を閉じれば多くの場合、そこに画面の中の方達は誰もいません。自分の家族や恋人、友人や同僚がいる。「だから画面の中なんて大した存在ではない」、決してそんなことが言いたいわけではありません。指の操作一つで閉じることが可能な世界なんだと、それくらいの心持ちで常にいることが何より大切ではないでしょうか。ただそうは言っても、その世界にも良いことは沢山あります。数々の素敵な出会いもそこにはある(サポ同士の結婚とかはアカンぞ)。え?何今更なこと言ってんだ?いや娘にこう言われて反省したんですよ。移籍の動向毎時間追っかけてキャーキャーやってたらですね、

「パパ、携帯ばっかりいじりすぎ」って。

10戦未勝利の先に辿り着いた境地

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帰り道の豊田大橋が、何ヶ月ぶりかに賑やかでした。

勝つって、なんて素敵なんでしょう。すっかり忘れていたあの感覚を、帰る道すがらで思い出しました。あぁなんだか目に映る光景が明るい(夜だけど)、あぁなんだか帰り道が早く感じる(遠いけど)。あぁなんだか脚も軽い(短足です)。これが勝つってことか。素晴らしいっ!!!

正直に書きます。今回の川崎戦ほど「勝てる気はしない。ただし奇跡よ起これ」そんな気持ちでスタジアムに向かった一日もございません。試合前、弱音ばかり吐きました。飲むだけ飲んで現実逃避しました。「あるのは素晴らしい熱戦か、一方的にボコられるか」なんて言ってごめんなさい。

まあそれにしても素晴らしい雰囲気でした。

今回はレビューではありません。次節の山雅戦に向け、一点だけ、この川崎戦で変化したこと。これまでの勝てなかった10試合が無駄でなかったことを書きます。この変化こそが、二連覇中の王者に3-0のスコアで勝ちきれた最大の要因です。

このチームが歩んできた変遷

テーマは「ボールを保持していない場面」です。前半戦、怒涛の快進撃を支えた一番の要因は「前線からの圧倒的なプレス」でした。当時も決して緻密とは言えませんでしたが、どちらかといえば、人数と、個人のアジリティ、走力、奪取力を上手く組み合わせた構造でしたね。前線のツートップと両サイドの計四人で相手の最終ラインに襲いかかり、それで絞られたパスコースを奪取力の高いジョアンとヨネで狩り取る。相手のビルドアップを研究して合わせるでもなく、物凄く緻密な構造があるわけでもなく、それぞれが目の前の相手をとにかく捕まえろと。もちろんそこで奪い切る必要もなく、相手のパスコースをどこに絞るかは考慮してプレスするわけですが、とはいえ細かい約束事はなかったはずです。

ただしそのやり方は等々力での川崎戦後、見事に対策されます。その土俵で勝てないなら、そもそもそんなステージすっ飛ばせとロングボールを多用されることが増えた、まずこれが一つ。もう一つ、名古屋の攻撃力が認められたことで、「自陣の中央を人数で担保し、徹底的に締める」これも対戦相手に浸透しました。その結果起きたこととして、まずなかなか相手ゴールを攻略出来なくなった。それが続くほどに前がかりになる名古屋陣地にはスペースが生まれ、絵に描いたようにカウンターの餌食になりました。相手のビルドアップに対しても、前から行こうにも蹴られることを恐れ、開幕当初の迫力は失われた。分かりますでしょうか。本来自分達の強みだったものが、一つ歯車が噛み合わなくなることで見事なまでに全てが負のサイクルとして回りだしたことに。その上、風間監督は「90分は選手達のためにある」と言って手を貸さない。いや貸してやってくれませんか。等々力での川崎戦後の7試合は、まさにこのモードで進んだ印象です。落ちると分かっている落とし穴に、自ら落ちに行くように。

そこで選手達は考えます。開幕当初ほど前から行く自信も、体力も、それを受け入れる相手ももういない。確かに自分達は攻守ともに相手コートを支配する、そんなコンセプトがある。ただもはや明らかに上手くいっていないものを、いつまで闇雲に続けるのかと。それが8試合目のガンバ戦。その時点で、噛み合わなくなりつつあるチームを考慮してか、システムも既に3-4-3に変更済み。これまでの好調を支えた「4人のプレス隊+狩り取る両ボランチ」の計6枚のやり方は、「3枚のプレス隊(スリートップ)」に変更され、ジョーのワントップのような形に変化しました。残念ながら決して機動力に優れているとはいえないジョーですから、端的に言えば前から行こうにもプレスの速度、その体力に問題があった。つまり「ハマらなかった」ということです。その点、前半戦は隣にアーリアを置いて機動力を補ってましたからね。「狩り取る」中心人物である米本も長期離脱となり、前半戦の再現というには、そもそも無理があったのも事実です。

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そこで最終ラインのリーダーである中谷を中心に選手は考えました。「ハマらないときは、引け」と。このガンバ戦から、苦しい時間帯は無理をすることなく、自陣低い位置でブロック形成するシーンが増加しました。実際、戦い方の幅を広げたことで少なからず前進する兆しはあった。ただ同時に問題点もありました。「そもそもこのチームのコンセプト、何ですか」と。それはもちろん「=相手陣地を支配し、主体的に相手を動かしていくこと」です。つまりここで大きな問題点として浮上したのが、そもそものチーム編成(ピッチ上の選手起用、与える役割含)からして、引いて守ることが得意なチームではないという大前提の部分です。

考えてもみてください。それをするために、両ストッパーに宮原なり太田を置きますか?彼らは本来サイドバックが本職の選手です。では何故彼らをそこで起用するかといえば、当然ながらボール保持の場面でその威力を発揮する期待があるからです。しかも風間監督は細かい仕込みをしないわけですから、自陣ペナ近くになるほどそのボロがでる可能性も潜んでいる。選手を機械的に動かすことをしない以上、一人でもジャッジを誤れば即命取りなフットボール。そりゃ出来るだけ自陣ゴールからは遠ざかりたい。案の定、このガンバ戦のロスタイムで失点。その後の浦和戦でも終了間際にプレーのジャッジで致命的なミスを犯し、その後の流れから失点。二試合連続で終了間際に追いつかれる、なんとも後味の悪い試合が続きました。試合後の中谷のインタビューは、このチームが前進こそすれども、そのとった選択ではこのチーム編成が十二分に活きないもどかしさを感じさせました。

もう耐えるしかないと。それ以外のオプションはなかったと思います

悩みに悩み抜いて見つけた落とし所

さて、そして今回の川崎戦です。開幕当初の前線からのハイプレスは現在のチーム状況(一部主力選手の不在)、また相手の対策次第ではボロが隠せないことが判明し使えない。では後方でブロックを形成したらどうか。これもそもそものチーム編成を考慮すれば向いていない。試合前のコメントを読んでも、この点で苦悩する中谷と、一方で理想を追求し続ける風間監督の間に横たわるギャップが伝わり、これは本当に難しい状況だと頭を抱えたものです。そして当日、この悩ましい「10戦未勝利」のトンネルの先に導き出した答えは、今回の最大のポイント「ミドルサードでのブロック形成」でした。まさに間を取ってきたわけです。具体的に検証します。

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まず大きな変更点として、この試合からシステムを好調時の4-4-2に戻したことが挙げられます。先述の通り、このシステムでの超ハイプレスの効き目が落ちてきた際に、問題として起きたのが名古屋の各ライン間(例えば宮原と中谷の間、丸山と吉田の間)の守備です。このウイークポイントを見過ごす事も出来ず、3-4-3にすることで守備時の横幅を人数でカバーした(最終ラインは両ウイングバックが下がる事で5枚になる為)。ただしこのチーム、残念ながら前線の運動量、機動力はそこまで高くありません。ジョー然り、シャビエルやジョアン然り。結果的に守備は安定しましたが、その見返りとして前への推進力は奪われた。特にジョーですね。ボールを奪うポイントが下がったことで、彼と他の選手の距離が開き、攻撃時は孤立するシーンが目立ちました。また守備時においても最前線は彼一人ですから、プレスも効率が悪かった。相手からすれば、ビルドアップでボールを運ぶことは容易だったでしょう。今回のシステム変更はその点を考慮したと考えます。自分たちの枠でやるには、またこのメンバーでそれを実現するにはやはりこの形がベストだろうと。

ではやることも開幕時と同じだったか。いや、名古屋のプレス開始位置は相手陣地奥深くでも、自陣深い位置でもありませんでした。ハーフウェラインよりほんの少し相手陣地寄りからです。最終ラインの設定位置は当然ながら開幕当初ほど浅くはありませんが、前線との距離感を意識し、極力高い位置を保ちます。つまりこれまで何度もキーワードとして出てきた「枠」を、どのポイントに設定するか、が何より重要な部分です。高い位置では相手の対策次第で破綻しやすい。一方低い位置では守りきれず、前にも出られない。だからこそミドルサード(ピッチ中央)を選択したと。

また、ボールも闇雲に奪いには行きません。構えるゾーンに相手が侵入してくれば即時ボールホルダーに突っかかることはなく、前線のツートップ(ジョーとシャビエル)が相手の最終ライン〜中盤への危険なパスルートを遮りながら、そのパスコースを意図的に誘導していく。その様子を伺いながら、二列目の4人、最終ラインの4人が各自ポジション(立ち位置)を細かく微調整していきます。まさに以前から風間監督が提唱してきた「一人で二人みれるポジショニング」、これが試される守り方を選びました。これは難易度高いです。何故ならチームとして決められた機械的な守り方もない、前半戦のように目の前の敵を芋づる式で一人ずつ捕まえるでもない(各々が明確に守備の基準点をもたない)、もちろんここ最近のように後方でバスを置いていればいいというわけでもない。一人でもサボったら、一瞬にして破綻するやり方です。よく風間監督は「水をこぼす」と表現しますが、まさに一人でもポジショニングを誤るとそこから水はこぼれていく守り方だと考えていいでしょう。

あともう一つ重要なポイント、このポジショニングを決定づける要因の一つとして、「各々の守備範囲がどの程度あるか」も重要です。これも以前から風間監督が指摘してきたポイントです。全員でボールの位置に合わせて均等にスライドを繰り返すわけではないため、各々のポジショニングを決定付けるのは、各選手の特性も多分に含まれる。試合後の中村憲剛のコメントを見てみましょう。

いつもだと落ちるんですが、落ちなくてもボールが入ってくるかなという感覚は、そこまで向こうも厳しくなかったので

次に車屋紳太郎

結構ボールもペナ付近で、阿部ちゃんがシュートを打ったシーンもありましたが、ボールは入っているので。そこまでの簡単なミスというのは余分だったなと思います

中村がいう「厳しくなかった」。これは名古屋の守り方が人にガツガツいくスタイルから、常に「枠」を意識し、且つそれをコンパクトに保つことを前提として、各々が相手のパスコースを切ることを最優先とした守り方になっていることが理由でしょう。この試合、「なぜ川崎はあれほどミスが多いんだ」と指摘する声も多かったわけですが、個人的な意見として、そもそもあの狭いエリア、名古屋の選手のポジショニング、そこからボールに寄せるスピード(強度)が加味された発言か、疑問が残ります。つまりあの土俵の中では、ミスが「起きてしまった」可能性はないか、という発想。

もう一つ、車屋が指摘した名古屋ゴール前(バイタル)にはスペースがあったという発言。これはある側面では大きな問題ではなく、また別の側面で見ればこのチームの課題であると思います。大きな問題でないと書いたのは、相手からして「パスが通せそう」と仮に見えていたとしても、そこからのアプローチで十分相手に詰めきる予測、スピードがあれば大きな問題ではないという考えが一つ。おそらく川崎の選手達からすれば「通せそう」というシーンはこの試合も多々あったでしょう。ただし実際にはそうは言っても無得点です。一方、これが名古屋陣内深い場所で毎度発生すると、致命傷になりかねません。このチームは細かいスライド等オートマティズムは備えていませんから、例えばサイド深くに抉られるとどうしても人が付いて行かざるえない。すると中盤の人数が不足し、必然各々が見るエリアも広がるわけですから、そこの穴を突かれることは可能性として大いにあるでしょう。

何故この枠の設定位置が優秀だったのか

この守り方を選択したことで何が良くなったか。ポイントは二つです。一つは開幕当初のように前から捕まえに行かない分、中盤に綻び(スペース)が生じづらいこと。前線の選手にしてもプレスの開始位置、やるべきタスクがはっきりしたことで、そこへのハードワークが出来始めています。この試合、ジョーとシャビエルの集中力は凄まじかった。常に最適なポジションを取ろうと細かい動き直しを惜しまなかった。

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もう一つはこの枠の設定位置(ミドルサード)なら、今のメンバー構成でも無理がなく、且つ選手の個性を発揮できる可能性があるからです。この試合を見ればわかる通り、シャビエルにしろ、ジョアンもそしてネットも、チームの距離感さえコンパクトに保てていれば、誰よりも「速い」選手達です。ここでいう速さとは、勿論これまで何度もでたキーワードである「目の速さ」。つまり強度の高いプレッシャーを苦にしない技術がここでモノを言うわけです。守備に関しても、ジョアンのように前向きで相手からボールを狩り取る技術がある選手には、極力「下がる」守備はさせたくない。枠が機能していることは、その点でも有効です。枠が間延びする(選手の距離感に問題が生じる)と、シャビエルは個人での打開能力に問題を抱える。ジョアンは途端に「遅い選手(彼が持ち得る速さが活かせなくなる)」となり、ネットからは意外性が奪われ、「走れなさ」だけが残ってしまう。つまり、このチームの編成そのものが「(選手同士の)距離感に依存する選手が多い」ということです。逆に最終ラインの面々は、ある意味で彼らのためにラインをコンパクトに保ち、その上で攻撃力も担保するため「機動力とボールスキル」に特化し構成している。だからこそ引いて守っていても今度は彼らの特性も活かされないということです。

この落としどころに行き着くまで等々力での川崎戦以降9試合を要したわけですが、おそらく風間監督のチームコンセプト、編成、その手法を考慮すると、これがベストである、そう感じます。これなら各選手の特性も活きるし、相手の対策を「まともに」受ける機会もこれまでよりは減るでしょう。このチームに最も必要な意識は「枠の維持」にあります。これさえ常に保たれていれば、そうそう簡単に負けることはない。だからこそ、どうすればその枠を維持出来るのか、これを追い求めた9試合だった、そんな気がするのです。

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真価が問われるのは次節、松本山雅

このチームは、どこか2018ロシアW杯の日本代表に似ているような印象を受けます。ガチガチの組織的なチームではなく、基本的には個人の能力、掛け合わせを尊重する。前線から相手のパスコースをきっていき、そのポジショニングで勝負していく。一方で、後ろを向かされると弱い。ブロックが下がってくると、組織としても、そのチーム構成からしても、守りきれない可能性が高い。だからこそ、「いかに前向きで、高い位置で攻守ともに勝負出来るか」がこのチームの鍵です。この川崎戦に関していえば、そうは言っても彼らもこの土俵で戦うことを選ぶ(選んでくれる)チームでした。

では次節の山雅はどうか。まず間違いなく同じような展開にはならないでしょう。おそらく川崎とは異なる策を仕込んでくるはずです。だからこそ、その相手にどれだけやれるか。そこが今季残り試合を占う、重要な試金石となります。自分たちの戦い方の再確認、そこへの迷いがなくなった上で、どの程度異なる相手に通用するか。これが何より重要です。

前半戦を思い出してください。あの等々力の川崎戦後、希望を胸に抱いて行った豊田スタジアムで、我々を失意の底に突き落としたのはどのチームだったか。そう、松本山雅です。

川崎戦後、9戦未勝利のきっかけを作った山雅に対し、同じミスを繰り返すのか。それとも我々はその9試合の後、生まれ変わったのだと見せつけるか。

次こそが、真価を問われる時です。

失って改めて実感するその存在の価値

最後に、今回の本題とは逸れますが、この話題に触れないわけにはいきません。二年半、名古屋で共に歩んできた小林裕紀が、今回大分トリニータに完全移籍しました。

思い返すと忘れもしない2016年。降格した我々の前に最後まで残留争いのライバルとして立ちはだかり、結果として生き残ったのが新潟であり、その当時のキャプテンが小林裕紀でした。初のJ2を戦う我々にとって、その小林がカテゴリーを落としてまで名古屋に加入するのは当時最も驚きをもった移籍劇だったと記憶しています。

そこからは我々にとっても、そして彼にとっても苦難の連続でしたね。忘れもしない第2節、豊田スタジアムでのFC岐阜戦での交代劇。そこからのベンチ外の日々。戻ってきた彼に待ち受けていたセンターバックとしての役割。名古屋史上最高のコンビと謳われた田口泰士とのダブルボランチ結成。その後の昇格。J1昇格後はチームキャプテンとして先頭に立つものの、前半戦は勝てない日々。ブーイングを浴びたのも、一度や二度ではない。そこから掴み取った奇跡の残留。そして今年、新加入選手との争いで彼はレギュラーポジションを失った。そこで待っていたまたも勝てない日々。

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たったこれだけ振り返っても、彼にとってこの2年半があまりに激動の日々で、いかに濃いものだったか、なんだか手に取るように分かる気がします。そしておそらく誰もが覚悟はしていたはずです。「いつ出て行っても、おかしくない」と。

何故なら彼には「上手くなること」が全てだったから。そこにカテゴリーもプライドも関係なかった。ただ同時にこのチームで楢崎正剛佐藤寿人に出会って学んだ事もあったはずです。プロは試合に出場してこそ価値があるのだと。

不思議ですね。どこかで覚悟していたはずなのに、リリースが実際にあるとこれほど落ち込むものかと。おそらくそこにもういないのだと実感して初めて、改めて彼の存在の大きさを知ったのだと思います。彼の言葉には、降格してからの2年半、我々がどんな道を歩んできたのか。それが全て詰まっている気がしたのです。彼自身の苦悩、風間監督への想い、このチームでやる喜び、出会い、そして後輩への心配り。

彼は言いました。「自分のためなんだ」と。ただそんな言葉とは裏腹に、そこには彼の誠実さ、生真面目な性格、他者への思いやりで溢れていた。ずっと不思議でした。照れ屋で、ファミリーにはあれほどサービス精神のない彼が、何故いつも対戦相手の選手達とあれほど仲が良さそうなのか。沢山の人に囲まれるのか。いつも仲間とあんなに楽しそうなのか。

それは彼が日々、そこで関わる人、そしてチームに残してきた何かがあったからではないかと。なんだかそれを最後のインタビューでまざまざと見せつけられ、思い知ったからこそ寂しかった。ファミリーが一人欠けた。我々はその言葉の重みを、改めて彼が去ることで理解したのだと思います。

降格してからの2年半、このチームをここまで作り上げ、また支え続けた最大の功労者はもしかすると彼だったのかもしれませんね。今日に至るまで、彼は自分のためだと言いながら、ずっと名古屋の先頭に立ち続けた。紛れもなく「リーダー」だった。彼の歩みは、まさに我々にとっての歩みそのものだった。小林裕紀という一人の選手が、現在の名古屋に多大な貢献を果たしたことを、我々は忘れません。

そんな彼はきっとまた、「上手くなりたい」その一心で、大分に、いや前に進んで行ったんでしょう。

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飽くなき理想の追求と、勝敗への執着と

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2019年5月17日。場所は等々力陸上競技場

あの壮絶な試合を観た多くの人は、試合後きっとこう思ったでしょう。「今年のJリーグを盛り上げるのは川崎、そして名古屋だ」と。我々だって信じて疑わなかった、あの時は。

川崎戦含め10戦勝ちなし。これが我々名古屋に待っていた現実。川崎戦に至るまで7勝2分3敗で快走していたことを思えば、この現実を予想出来た人がどれだけいたことか。あの試合以降、他チームの名古屋を見る目は間違いなく変わりました。ほぼ全てのチームが、自陣のスペースを埋め、前掛かりになる名古屋の陣地をカウンターで狙い始めた。それになす術なくやられ続けた様は、我々ファミリーを大きく揺るがすものでした。そして遂に報じられた風間八宏解任報道。

思えば昨シーズンも同じように勝てない日々が続きました。前半戦を終えて断トツの最下位。あのときのチーム状態もそれはそれは酷いものでしたが、とはいえそもそもチームとして未熟だったことも確か。まだまだ向上の余地があるはずだと、それでも前向きになれたのも正直なところです。では今年がどうだったかと言えば、ある程度戦力も揃い、開幕から怒涛の快進撃。風間体制3年目にして遂に覚醒の時を迎えたのだと我々は信じて疑わなかった。だからこそ、この大失速は予想外で、堪えるものがあったのは事実です。

今思えば何も見えていなかったのかもしれませんね。我々は未熟だったし、そもそも風間八宏という監督のことも、自分達の置かれた現状も、よく理解していなかった。

見えてきた「監督 風間八宏」の本質

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このチームの一番の問題点、どんなときに起きると思いますか。それは「相手に対策されたとき」です。悲しいかなこのチームは戦い方に変化がつけられない。ただしこれは多分に風間八宏のチーム作りが及ぼした影響でもあります。

改めて彼が絶対に譲らないものを挙げてみましょう。まず個々の絶対的な技術。次にチームで一番速い選手に残りの選手達が「目を揃える」こと。最後に常に自分たちが主体となり、相手陣地を支配すること。つまるところこの三つ。それぞれの選手のスケールを最大化しつつ、各々がこのチームのコンセプトを理解した上で繋がることが出来れば、やっていて楽しいと感じられるフットボールが出来るはず。これが彼にとっての「プロでの戦い方」です。よって彼は選手たちを必要以上には縛りません。具体的に言えば、どれだけ相手に対策されても、それで選手たちが苦しんでも、対抗する策を授けない。言ったことをやらせる、その言葉は彼の辞書にはありません。手助けするとしたら、せいぜい選手達の立ち位置を変え、目に見える風景に変化を与えることくらいです。

そもそも何故、技術をこれほどまでに重視するのか考えてみましょう。おそらくですが、彼は日本のフットボールに対して、特に個々が持つ技術、いわゆる個人戦術に大きな不満があるはずです。小手先の戦術を与え勝ったところで、所詮そんなものは井の中の蛙なのだと。欧州の真似事をしたところで、いざ世界に出れば手も足もでない。海外のリーグに身を置けば、日本とは別の競技だと驚嘆する。ポジショナルプレー?いや、まずは技術。立ち位置とは、その技術があって初めて効くのだと。悲しいかな、先進的なチームが結果を出しているかといえば、決してそうでもない。結局は守って守りきれるチームがいつも優位なのがこのJリーグです。

彼はおそらくその点に大きな危惧を抱いています。つまり「チーム戦術を遂行する上での必要最低限の技術、強度、戦術理解(思考)が、そもそもこの国には全く足りていない」と。どれだけ高級なブランド品で着飾っても、それを着る人間そのものに魅力がなければ何の価値もないように、彼もフットボールの世界において本質にとことん拘る。「あくまでも個人の集合体こそがチームなのだ」と。

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では何故ピッチで選手達が楽しんでやる必要があるのか。その想いを彼の中で絶対的なものとした原体験。それは力をセーブし、タイトルを獲得してもピッチ上での喜びを得られなかった広島での現役時代。その苦い記憶は、彼が指導者として初めてチームを率いた際に確信に変わります。相手を想定しパターンを仕込んだ結果、簡単に相手を凌駕する選手達を見て彼はこう思った。「これでは選手は成長しない」と。

その結果行き着いた結論は、「出力の枠を設けず全員が限界を作らないシステム」。これこそがなにより選手のスケールを最大化し、且つ楽しみ、喜びを与えることになると。それが「目の速い選手に基準を置く」ことに繋がり、必然的にプロとしての競争社会、またチームとして成長が止まらない構造となった。速い選手はより速さを追求し、それ以外の選手達はそれに遅れまいと努力する。彼にとって自身が与えた戦術でチームが勝つことには大きな価値がないのでしょう。それは本質的には選手の喜びに繋がらない。限界までプレー出来る環境、その結果、己の成長を実感できる事こそが、喜びであり楽しみに繋がるのだと。彼の口癖、「主役は選手達です」はここから生まれた。根本的に、プロの世界におけるフットボールに対する発想が我々とは全く違うのです。

その結果、今の名古屋がどうなったか。起こる問題に対して選手達が対応出来なければ無残に敗れ去るしかなかった。何故なら想定外の事が起きた際、選手達がすがれるものは「自分自身」しかなかったからです。また今回勝てなかった日々にしても、風間八宏からすれば「そもそもやるべき(目を揃える)ことがまだまだ出来ていないから」これこそが本質的な問題だと捉えているでしょう。あらゆる手を駆使して目の前の試合を獲りに行く、風間八宏は残念ながらそういった監督ではありません。我々はこの事実を勝てなかった10試合で意識的にも無意識的にも感じ、「こんな人間を監督と言ってはいけない」「無責任だ」「早く辞めろ」こう罵ったわけです。監督ではなく、所詮は指導者だと。そしてこれは決して否定出来るものでもなかった。彼にとってプロの世界とは、ただ勝つだけのものではなく、そこに「楽しさ、喜び」がないといけなかった。我々は「プロとはどうあるべきか、そこに何を望むのか」この迷路に彷徨い込んだのです。

ただしそんな彼と相通ずる思考を持った、彼との出会いによって己の歩む道を確信した選手が存在します。それが次に対戦する彼の古巣、川崎フロンターレバンディエラです。

確信、変化、迷い。中村憲剛が歩んだ7年間

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中村憲剛。彼にとって、5年間続いた風間八宏との日々、また彼と別れてからの鬼木達との2年間。この7年間こそが彼のサッカー観を決定づける重要な時期だったのかもしれません。彼の言葉の数々を見聞きすると、現在の川崎、また中村憲剛自身が一体何によって成り立っているのか。その言葉の端々にそれが宿っているように感じます。

首位決戦となった第19節FC東京戦。この試合は、現在の彼らが何を最も重要視しているか、よく伝わるゲームでした。

「いかに相手からボールを奪うか」

これが現在の彼らの最大のキーワードです。つまりこの時点で、もはや風間八宏が提唱した「いかに相手陣地にボールを運ぶか」とはそもそものコンセプトが異なることに気づきます。この変遷を見ていくと、一つの仮説を立てることも可能でしょう。振り返れば、結局風間八宏のもとでは5年間で一度もタイトルが獲れなかった。ではそこに何が不足していたか。「目先の結果に執着する姿勢」が足りなかった。具体的に言えば「相手を対策し、それに合わせる姿勢」が足りなかったとも言えます。そこに着目した鬼木達について行った結果が二連覇という実績。だからこそ、タイトルにこだわり続けた中村からすれば、その結果とともにきっとそこへの面白さ、やりがいを知ったはずです。つまりいかに相手に勝つか、ある種ゲームの攻略法のように、目の前の試合(ゲーム)に対する相手との駆け引きの妙、この面白さに気づいた。だからこそ彼らの意識は変わりました。まずやるべきことは、相手を研究し、「そのボールを奪うこと」だと。

ただし一方で彼が変わらなかったものも存在します。

この試合、圧倒的なカウンターをもつ東京に対し、いかに押し込むか、どのタイミングで仕掛けるか、どうすればカウンターを喰らわないか。これらをボランチの下田や田中に指示し続けたのは誰か。他でもない、ピッチ上にいる中村です。

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また中断期間を利用し開催されたチェルシーとの一戦。彼が痛感した世界との差。それは彼が新たに楽しさを見出した奪う術ではなく、風間八宏に毎日教え込まれた術でした。

止める蹴るは絶対だなと改めて

彼が挙げたのは三つ。まずは止める蹴る、次にパススピード、最後にポジショニング。大事なのはこの順序です。止まるから相手のプレッシャーを感じない。早く届けるから相手は追いつけない。しっかり止めて蹴れるから、ポジショニングに無駄がなく立てる。

もっと緻密なパスワークを、世界より止める蹴るで勝らないと話にならない

確かにこの2年間、彼が勝つために必要としたのは鬼木達が提示した「相手を研究しボールを奪うこと」だったのでしょう。ただ仮に彼がどれだけ否定しようとも、時間が経てば経つほど、また対峙する相手が大きくなればなるほど、彼が自覚するのは勝てなかった5年間で磨き続けたあの日々だったのではないか。彼は気づいていたはずです。目が少しずつ揃わなくなってきたこと、その速さに陰りが見えてきたことに。

自主性と絶え間ない思考が生む「臨機応変

さて、話を冒頭に戻しましょう。今回、名古屋の前に立ちはだかった大きな壁。「想定外の事態に陥った際、自分達でどう臨機応変に対応するか」。これは決して名古屋だけの問題とも言えません。用意していないと出来ない、用意したもの以上のことが起こると対応出来ない。これこそが現在の日本サッカー界、いや、これまでの日本サッカー界にずっと横たわる最大の問題ではないでしょうか。

先日発売されたフットボール批評で、イビツァ・オシムがこんなことを言っていました。

日本の選手にはもう少し視野を広げる教育が必要だ。いろんなことに興味を持つこと。自分で思考する習慣をつけること。監督が事前に教えてくれないことを解決することが日本の選手にとって最も困難なことなのだ。そして監督もピッチの上で起こるすべてのことを予測して教えることはできない。だから、自分で筋道を立てて考えるという教育をすること

試合前に周到に準備したとしても、試合では何十、何百通りのイレギュラーなシチュエーションが起きます。思い通りに試合が運ばない、相手と想定以上に力の差があった。そんなとき問われるのは、個々の思考力、そしてそれを繋げるコミュニケーション力に他なりません。

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先日、ブラジルのインタビューにジョーが応えました。

grapo.net

私は、日本人のプレースタイルが速いにもかかわらず、ハイラインを設定して試合に臨み、あまりにも多くの失点をしているので、あまりスペースを与えてはならないと何人かのチームメイトに言ったが、彼らはこのことを監督に言うことに対してはあまり乗り気ではありませんでした。監督の指示に従うこと、監督が指示したこと以外は行わない。それがここの文化なのでしょうね。私は感じていること、思っていることを監督と話してみると、「わかった、試してみるよ」との返答を得ることができたが、いざ次の試合を迎えると何も変わっておらず、ハイラインのままでした。変わらないのが日本らしさ、日本のやり方なんだなと

風間八宏フットボールを実現する上でこれこそが最大の障壁です。何故ならこの状況もまた、選手の力量を伸ばすうえで避けては通れない壁だと彼自身考え、あえてそう振る舞っている可能性があるからです。案の定、川崎戦後8試合目にしてやっと重い腰を上げ始めた選手たちを、彼は否定することなくむしろ歓迎しました。時間帯によっては後方に引く、そんな彼のコンセプトとは真逆の結果だったとしても、彼は「一歩前進した」こう表現することで選手を讃えた。

一番大事なのは彼らが自分の意思でやろうとすること。試合の90分というのは彼らのものなので(中略)それは自分たちでやる、状況というのはその中で起きることだから。それを自分たちで判断していく。そして強いチームになっていくということです

migiright8.hatenablog.com

ではその点、川崎はどうでしょうか。ここでも存在感を発揮するのはやはり中村憲剛です。第20節の大分戦。大分のビルドアップを前から潰そうとゲームプランを立てた川崎は、前半20分頃までそれが全くハマらない感覚を覚えます。そこでどうしたか。その後の給水タイムで、彼を中心として選手たち自身で相談し、自主的に戦い方を変化させました。前から行くのはやめようと。ボランチにも強く要求したそうです。行けないなら止めろ、それがお前達の役割だと。

自分達で思考し、自分達の意思を持って臨機応変に戦う。この最大のハードルに対し、監督の立場から選手にアプローチする風間八宏。対して選手でありながら、監督のようなアプローチで仲間を導いていく中村憲剛

出会ったからこそすれ違った「喜び」

もしかすると中村憲剛風間八宏以上の「監督」になるのかもしれません。彼が本質的に持っていた能力を最大限引き出し、その歩んできた道のりが正しいものだと確信させたのは間違いなく風間八宏だったはずです。そして目を揃える必要性、そこから生まれるセッションの面白さも体感した。一方ここ数年で彼は目の前の試合にいかに勝つか、このアプローチにも喜びを見出した。風間八宏が去った後も、川崎がチームとしてそのクオリティを極端に落とさず済んだのは中村憲剛、彼の存在が常にそこに在り続けたからでしょう。彼がピッチ上で止める蹴るの重要性を説き、目を揃える努力を惜しまず、いかに相手を崩すか絶えず考え、それを発信し続けているからこそ、その文化が未だ脈々とそこに生き続けている。だからこそ鬼木達は彼らのモチベーターとなり、勝つための「監督らしい振る舞い」をするだけで良かった。ピッチに彼と目が揃う人材さえいれば、そこに風間八宏がいなくとも築き上げた技術が消えることはなかったからです。

そう、風間八宏も、そして中村憲剛もお互いに絶対に譲れない、彼らの血肉となっている共通した思想が存在します。

「止める蹴るを突き詰めた先に、世界がある」

そんな彼らは監督、そして選手というお互いの立場を持って半ば運命的な出会いを果たした。ただ出会ったからこそ、唯一決定的にすれ違ってしまった部分があります。それは「優勝という結果と引き換えに自身の楽しさを犠牲にした後悔があるからこそ、力をセーブするサッカーだけはさせたくない」と中村に接した風間八宏の想いと、「楽しさはあったのに、何年経っても優勝という結果だけが手に出来なかった」中村の想いです。結果的にこの皮肉な結末が、強烈なインパクトを持って彼らのサッカー観を似て非なるものとした。二人の間にある「ピッチ上の楽しさ」は、ここで分裂した。

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「技術だけは完璧がない」これは風間八宏の言葉です。つまりそこには常に伸びしろが存在し、それを最も大切な要素と位置づければ、チームは常にアップデート出来る。これが彼の信条のはずです。だからこそ、そんな彼が去りそこから舵をきった川崎は今、「自分達は進化を遂げているのか」この疑念と直面しているはずです。ボールを奪るチームと化し、彼らは二連覇を達成した。しかし3年目、得たことの代わりに、あれほど大切にしていた絶対的な指標が薄れつつあることに気づき始めた。ピッチに立つ選手が入れ替わる度に、それは少なくない違和感となって彼らに押し寄せています。つまり彼らが戦っているのは、「二連覇をして尚、チームとして進化、成長出来るか」この三連覇への最大の壁です。それは鬼木達が過去の遺産に頼らずとも、異なるスパイスでチームをブラッシュアップ出来るか。その試練でもある。

では彼らの自信を鼻っぱしからへし折ることが出来るのは。それは彼らのフィールドで真っ向から叩きのめすことが出来るチームだけです。おそらくその相手は我々である、あの日の等々力での姿はそう信じさせるものでした。

何があろうと貫く。だからこそ伴わない結果

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あれから3ヶ月。「土俵際寸前」、これが今の我々の姿です。

浦和戦でも試合のクロージングに失敗し、またもこのトンネル脱出から失敗しました。そのマネジメントですら、風間八宏は選手達の自主性に委ねた。また丸山、米本という中心選手を怪我で欠こうとも、彼は何一つ変わりませんでした。このメンバーをどう料理するかではなく、今のチームの前提でもう一度目を揃える道を選んだ。その差は第11節、第21節の浦和戦を比較すれば一目瞭然です。前線の4人でパスコースをきり、奪取力のあるボランチ2枚でボールを狩り取る。前半戦の副産物ともいえたあのプレッシングはなりを潜め、「どうボールを運び、どれだけ相手陣地を占有出来るか」この最難度のフットボールと改めて向き合うことになった。守備の問題、いや、このチームにおいてそれは所詮副次的な域を出ません。出来ていないから起きている、それだけのことなのです。例えそれが多くの人にとって非常識なことでも。

確かに彼はブレません。それでまた選手は学びがあるのかもしれない。ただ10戦勝ちなしの今、こんな気持ちにもなる。

これ以上それで結果が出なければ、プロの世界では本末転倒ではないかと。選手に期待し続けては裏切られ、その結果として自身の進退が決まる。少なくとも彼がやりたいことを必死で理解し、応援してきた我々からすれば、もしそれで彼が去ることになってしまえばこれほど虚しいこともない。

こんな状況でも彼のサッカー観、問題意識、見えているもの。それを否定する気はありません。無能と散々叩かれても、本当は彼が一番分かっているはずであると。ただ同時に見誤っていた部分もある。それは我々の想像など遥かに超えるほどに、彼の「貫く」その信念が、あまりに頑なであること。プロなんだから勝たなくては、このままではクビが飛ぶのでは。そんな危惧などアホらしくなるほどに。彼にとってピッチ上の主役、そして90分という時間は、彼のためではなく、まさしく選手達のためにあるものだった。だからこそ、彼から発せられる言葉はいつも選手に向けられました。

そしてもう一つ。チームとして求められる基準、コンセプトに対する理解力。これさえクリア出来れば、彼ほど自由を許容する監督もいないでしょう。ただし選手達がその自由を謳歌できない。皮肉にもその自由こそ苦悩になってしまう。本来非常識ともいえる「戦術で縛りつけない」行為の先に、我々は決してそれが全て正しくなくとも、何か新たな常識、見たことのない景色を生んで欲しいと期待した。ただこのままではその期待も、「結局は具体的な戦術がそこになければ話にならない」そんな慣れ親しんだ結論で幕を閉じてしまうかもしれない。自己表現が苦手で、言われたことしか出来ない。いかに個と戦術を両立するか、そんな日本サッカーに対する本質的な問いもこのままおざなりになる。個は磨けてもチームとしては形にすらならない。話にならなかったと。

理想の追求の先に、未来はあるか

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風間八宏が作り出すフットボールは、勝負の世界では決して全能ではありません。弱者が強者に勝つ、そんなロマンに溢れたものでもない。だからこそ理屈ではなく、勝つためには相手を力で上回るしかない。そして証明すべきです。「速いサッカーがしたい」この想いとともに名古屋を選び、2年半で積み上げてきたそのフットボールで勝てることを。

これだけ勝利から遠のいても、彼がブレなかったことで少しずつチームは変化しています。前半戦の時ですら相手の対策でバグが起こるとなす術がなかった彼らが、例え主力が抜けベースは変わろうとも、不器用ながらにも90分の戦い方をデザインし始めている。それは側から見れば鼻で笑ってしまうようなことかもしれない。ただ攻められているだけじゃないかと。いやそれでいいのです。思い通りにいかないとき、我々に何が出来るか。それが最大の課題だったんですから。このチームにとっては、選手達が自力で変わろうとしている確かな一歩です。何も積み上げがないわけではない。

我々の冒険はいつまで続くでしょうか。「風間八宏が信じ貫いてきたものなど、所詮はアマチュア仕様だった」。仮にこの結論でいつか幕を閉じることがあれば、それは彼自身にとっても、今後プロの世界でこの道を貫くのは難しくなることを意味します。今の名古屋を変えられなければ、一体どこを変えられるというのか。彼自身もまた、土俵際にいる。

姿を変えた古巣を倒すことで己の道が正しいと証明するか。それとも彼らに敗れ、こんな道は淡い夢だったと最も悲惨な形で息の根を止められるか。もはや今望むのは、あの日の等々力で魅せたスペクタクルなどではない。

絶対に負けたくない、そんな意地と意地のぶつかり合い。